36.シャバの「愛」はもどかしい(6)
「フェ……フェアリー……っ」
「……せ、旋律と書いて『うた』……っ」
「圧倒的……センス……っ」
皆が皆、テーブルや膝に突っ伏して肩を震わせている。
つい先ほどまで不穏な空気をまとっていたはずのモーガンまでもが、
「…………痺れますね」
静かに視線を逸らし、身を震わせていた。
ハイデマリーは、恥辱という名の社会的死を与えておきながら、なんでもないように肩を竦める。
それから、先ほどのポエムなどなかったように、しれっと話を戻した。
「あなたは彼女に詩を捧げ、宝石を捧げ、屋敷を捧げた。彼女を傷つける者のいない、安全な屋敷を」
「…………っ」
「あなたが愚かにも王のような権力を求めたのは、もしかして彼女に女王の座を与えたかったからかしら? 愛する妻がかつて求め、けれどけっして手に入らなかったものを、あなたが代わりに与えようと?」
「違う……っ、私は、彼女を愛してなど――」
己の恥部を容赦なく暴き立てられ、動揺しきったクレメンスは、それでも頑なに首を振る。
しかしハイデマリーは頑是ない子どもを見るような目つきになると、
「ねえ、クレメンス」
優しい声で、そういなした。
「わたくしたちは、あなたを裁く者ではないわ。だってわたくしたちは犯罪者で、そもそもあなたも、
――あなたが彼女への愛を認めたところで、誰も彼女を傷つけはしないのよ。
ハイデマリーが続けた言葉に、クレメンスは瞠目し、息を呑んだ。
「――…………」
一瞬の、沈黙。
それが、クレメンスが隠していた真実のすべてだった。
ハイデマリーは優雅に両手を広げると、片眉を持ち上げて微笑んだ。
「――権力闘争に、行動原理、人生。すべてを愛だ恋だの感情に帰結させるなんて、そうそうできることではなくってよ。……素敵だわ」
あからさまな、揶揄。
しっかりやり返したうえで、ハイデマリーは慈愛深くクレメンスの頬を撫でた。
「ロマンチストの、可愛い可愛い宰相さん。わたくし、あなたがとても気に入ったわ。どうぞ、真実の衣の最後の一枚は、あなたの手で脱ぎ捨ててごらんなさいな」
「――…………」
そんなことを言いつつも、もはやクレメンスにまとえる虚勢の鎧など、残っていやしないのだ。
彼女が最初に宣言した通り、彼は全財産を、社会的権威を、隠していた真実をむしり取られ、今や裸でいるような頼りなさで、監獄の女王の前に跪いている。
とうとう、クレメンスは降伏した。
「…………妻は」
そして、震える声で愛を認めた。
「妻は……彼女は、善良で、哀れな女なのだ。周囲の都合に巻き込まれ、言われるがままに二度結婚し、二度の離縁を経験した。ただ私が求めてしまったがゆえに、犯罪者の妻の烙印を押された、哀れな女なのだ。だから、どうか――」
彼は臆面もなく、ハイデマリーの手を取り、額を押し付けて慈悲を請うた。
「彼女に……不幸にも私の妻であった彼女に、あの土地を授けることだけは……見逃してくれ――!」
しん、と、針の落ちる音すら聞こえそうな沈黙が満ちる。
やがて、ハイデマリーは美しく紅を引いた唇を、ゆっくりと引き上げる。
それから、
「――だぁめ」
甘く、懇願を退けた。
無慈悲な返答に、クレメンスが必死の形相で彼女を見上げる。
ソファどころか床に崩れ落ち、彼女の足すら舐めようとしたクレメンスだったが、しかし美貌の娼婦は、くすくすと笑いながらそれを躱した。
そして、思いもせぬ言葉を告げた。
「だってクレメンス、それでは簡単に足がついてしまってよ?」
「…………?」
怪訝そうに顔を上げたクレメンスの傍らに、彼女はそっと屈みこむ。
そうして細く艶めかしい腕を差し出すと、元老侯爵の身を起こしてやった。
「監獄にいるわたくしですら、こんなに簡単に知れてしまうほどの噂が流れているのだもの。いくら別名義にしてみせたところで、突然彼女がトレンメルの土地を手に入れてしまったら、誰だって背景を疑うわ。脱獄したあなたが、そのままトレンメルで死にでもしてごらんなさい。同情されるどころか、やはりあなたの差し金かと断定されて、その土地が没収されるだけに終わるから。結果、フィーネ様がますます、思い出の土地を失うだけだわ」
「…………っ」
根底に愛情があるとはいえ、己の悲愴にいくぶんか酔っていたクレメンスは、それではっとする。
愚かしくもかわいらしい酔客を、娼婦は愉快げな表情で見守ると、「だから」と付け加えた。
「だから、わたくしたちが、代わりの土地を用立ててあげる。かつて【怠惰】が巻き上げ、【嫉妬】がきちんと
「……彼にやるには過ぎた土地ですが、まあ、先ほどの余興ぶんと思うことにしますかね」
「じわじわ来るわー」
ハイデマリーの独断に対し、モーガンもリーゼルも、特に異存はないようである。
なにやらうっすらと笑みを浮かべて、クレメンスを眺めている。
すぐには話が呑み込めず、呆然とする元宰相に向かって、ハイデマリーは「そうそう」と白魚のような指を立ててみせた。
「もうひとつ、指摘が。あなたの奥様、離縁などしていなくってよ」
「――……なんだと?」
意味がわからない、というように眉を寄せた彼に、女王は再び一通目の手紙を取り出してみせた。
「先ほどの続き。トレンメルに向かったフィーネ様は、なんでもそこに籠って、祈りを捧げるおつもりなのですって。そうして、罪をすすぐのだそうよ。宰相の地位にありながら恐るべき野望を抱えた大罪人だけれど、自分にとってはかけがえのない夫の――ね」
「――…………」
クレメンスは、ぽかんとした。
言われたことが、すぐには脳に染み込んでゆかなかった。
それはおかしい。
妻にとって、しょせん自分は政略結婚の相手だ。
常識に照らせば、大罪を犯した夫など、早々に離縁して、人目を避け僻地に籠るはずだ。
そうとも、だからこそ、自分はなんとしても隠れ家を結ぶ土地を用意せねばと焦って――。
「……そなた、『元』侯爵夫人と、言ったではないか」
「『元』でしょう? あなたはもう侯爵ではないのだもの」
かろうじて絞り出した反論を、ハイデマリーは難なく封じ込め、それからにこやかに続けた。
「詩というのは、素晴らしいわね。今のあなたがどんなに奥様への愛を否認し、黙秘してみせたところで、若き日に捧げたそれが、なにをも超えて雄弁に愛を語り、奥様を献身へと走らせるのだから」
「…………」
クレメンスは、なにも言わない。
ただ、せっかく身を起こされたところを、視線を逸らすように顔を俯けていた。
髪に隠された瞳が、彼の人生で初めて潤んでいたかどうか――
それをわざわざ確認するような無粋な輩は、この監獄には、幸い存在しなかった。