33.シャバの「愛」はもどかしい(3)
はっと我に返って振り向いてみれば、声の主はエーリヒである。
一通り硬直した彼は、その間にエルマの諸々の発言を「王都独特のジョーク」と処理したらしく、吹っ切れたようにエルマの肩を叩いた。
「いやはや、都会の人間の言い回しってのは、まどろっこしくていけねえぜ。要は、謙遜だろ? でもって、
「え」
「こちとら、しょせん畑とばかりにらめっこしてきた、垢ぬけない農夫だ。頼むからそういうのはストレートに言ってくれよ、なあ?」
「え、いえ」
戸惑いはじめたエルマに対し、一度思考の処理を済ませてしまったエーリヒは揺るがない。
むしろ、農民そのものの朴訥さと単純さ、そして豪快さをもって、止める間もなく、天幕の周囲に向かって声を掛けはじめた。
「おうおう、おまえら! 聞いてくれよ! この娘、このお嬢さんは、王都から来た――いや、天から舞い降りた奇跡の使徒だ! ひとたび歌えば魔蛾を鎮め、ひとたび舞台に立てば金貨の山を築き上げるんだぞ!」
「なに?」
「どういうことだ?」
芝居がかった口上も、祭りの気配にはしっくりと馴染み、既に酔っぱらっていた観衆が次々と興味を惹かれたように立ち止まる。
もともと天幕での一連の騒動が目立っていたこともあり、すぐに黒山の人だかりができた。
それに気をよくしたエーリヒは、もともとの気前の良さも手伝って、麻袋の中から金貨を掴んで方々に巻き散らした。
「このエーリヒに起こった奇跡を、お裾分けしてやるぜ! 使徒・エルマエル様の偉大なるお力を、崇め称えよ!」
「おおお!?」
「ほ、本物の金貨よ!」
いきなり飛んできた金色の塊を人々はもはや脊髄反射で受け止め、それからその正体を理解してぎょっと目を剥いた。
こんな大金、目にするのだって初めてだ。
ただでさえワインと踊りで祭りモードになっていた彼らは、そのとどめの一発で完全に理性を飛ばした。
興奮した群集と、それ以上に興奮した扇動者。あっという間に街頭集会の出来上がりである。
「見てくれ、たった半日で巨億の富を稼ぎ出すこの尋常ならざる手腕!」
「おおおおお!」
「え、あの――」
「それをすべて、縁もゆかりもない、ただ困っていた俺たちを助けるためだけにしてくれたという、この突き抜けた慈愛深さ!」
「おおおおおおおお!」
「え、ちょ――」
勝手に、しかもすさまじい勢いでヒートアップしていく群集に、エルマはぎょっと肩を揺らす。
それまで確かに平静だったはずの――と彼女は解釈していた――エーリヒが、突如として豹変し、「尋常ならざる」だとか「突き抜けた」だとかのワードを投げつけてくることに、彼女は衝撃を隠せなかった。
「そ、そんな仰りようは、あんまりでは――」
「極めつけはこれだ! 見よ! そして崇めよ! この、神のご威光を感じさせる、人ならざる美貌――!」
「ちょ……っ!」
凄腕の暗殺者でも、無邪気で突発的な赤子の抱擁からは逃れられないのと同じで、一撃でドラゴンを仕留めるエルマですら、ただ善意と好意と勢いから成る「攻撃」を躱すことはできなかった。
結果、エルマはあっさりと眼鏡を奪われ、その素顔を晒した。
「お……――」
わあわあと陽気に叫んでいた観衆たちが、一瞬黙り込んで大きく目を見開く。
たっぷり三呼吸ぶんほど沈黙したのち、
「……ぅおおおおおおおおおおおお――っ!!」
彼らは、それまでにない大音声を轟かせた。あまりに凄まじくて、地面が揺れたと錯覚するほどだ。
辺境の地、そして一市民の身ではまずお目に掛かれぬ、美の極致を集めたような顔。
うっすらと涙を湛えるような濡れた瞳、通った鼻梁、完璧に左右対称な唇に恥じらう薔薇のような頬、そのすべてから漂うあえかな色香に、人々は叫び、叫びながらも凝視し、凝視しながらもやはり叫ばずにはいられなかった。
「
絶叫する群集の中には、男だけでなく、美麗な同性に憧れる年頃の、若い女性も数多くいた。
老若男女かかわらず、人々が一心に自分を見つめ、狂ったように万歳を唱えだす状況に、エルマは呆然とする。
そんな中にあって、
「さすがエルマエル様……。とうとうその魅力と偉大さは、地に遍く知られるところとなってしまいましたわね……」
ただデボラだけが、したり顔で頷いていた。
あっさり自家の税収を上回れらてしまった衝撃もなんのその、エルマ教信者の中でも最右翼にして狂信者である彼女は、フレンツェル家の中で誰より早くショック状態を脱し、どころか、叫ぶばかりで具体的な行動に移らない民たちに指示まで飛ばしはじめた。
「皆さま、頭が高いですわ! エルマエル様に敬意を示したくば、跪き、そのおみ足にキスを! 彼女に冠を! そのご威光にふさわしく、はるかなる高みに設えた玉座を!!」
もはやエルマは王か教皇かといった扱いである。
普通ならそんな即座に冠やら玉座が召喚できるはずもなかったが、この日ばかりは少々状況が違った。
陶然とエルマに魅入っていた女性の一人が、はっと自らの髪に手を触れ、それから「はいっ」と挙手したのである。
「あります! ここに冠、あります!!」
周囲の人々もはっとする。
そうだ、我々には金の冠はなくとも、豊穣の女神を象徴する、花の冠がある――
「わ……私の冠も使ってください!」
「こ、ここにも冠はあるわよ!」
「おう、俺の女房のも使っていいぞ!」
「なに言ってんのよあんた、娘のもまとめて捧げとくれ!」
この
いや、もはやそれもどうでもいい。
この美しい少女に自分の花冠の一部でも使ってもらえたなら、それだけで幸せな気分になれるのではないか。
そんな妄想すら抱きはじめた人々が、目の色を変えて少女ににじり寄る。
「え、ちょ……み、皆さま、どうぞ落ち着かれて――」
「さあさあ天使様! 私の花冠を着けてくださいまし!」
「いや、え」
「それとも新しく作ります!? そうね、作りましょうか! 天使様の花冠づくりは、どうぞこのフリーデにお任せあれ!」
「いえユリアに!」
「いえマルガに!」
「ちょ……――!」
詐欺師のごとく表情を読み、狂戦士の膂力で敵を屠り、マッドサイエンティストの技術で生命倫理を蹂躙し、会う人々を洗脳し、誘惑して陥落させる少女、エルマ。
しかしながら、まるで
それは、世の中では好意だとか善意と呼ばれる感情――無力で平凡な人々でも持ち合わせている、まるでスペードの3のようにありふれた素朴な想いに、ひどく弱いということである。
「イレーネ……!」
途方に暮れたエルマは、とっさに友人の名を叫んで振り向いた。
「これ、どうすればよいのですか!?」
なんということだろう。
任務も最終局面だというのに、自分は全然「普通」のお墨付きをもらえないばかりか、なぜか拉致されかかっている――。
そんな戸惑いがありありと伝わる仕草で手を伸ばしてきたエルマを、イレーネはまじまじと見つめる。
(……この子、初めて私に頼ってきたわね)
いつものように、超然とした様子でイレーネや周囲を救ってまわるのではなく、理不尽な状況に
「――…………」
彼女は、湧き上がる笑みをそっと噛み殺した。
(ちゃんと「普通に」できるじゃないの、エルマ)
気分がいい。
出会ってからこちら、圧倒されてばかりだった自分が、ようやく本来の性分を取り戻した感すらある。
イレーネは「そうねえ」と、ひらりと右手を広げて、にやっと笑ってみせた。
「あなた、花冠を着けて祭りに出るのが夢だったじゃないの。いい機会だと思うわ。――やっておしまい、フレンツェルの皆さま!」
次いでその右手をさっと振り、どこの悪の幹部かという掛け声とともに、女性陣をけしかける。
「ぃよっしゃああああああっ!」
「皆さま!? イ、イレーネ!? ちょ、や、え、あ……――っ!」
満面の笑みを浮かべた女性陣によって、エルマがくぐもった悲鳴を上げながら拉致されるのを、イレーネは達成感とともに見送った。
「――と、放置するのも可哀そうよね。殿下、私、様子を見に行ってまいります!」
「わたくしも共に参りますわ!」
ついで、前のめりで申し出たデボラとともに、友人の後を追いかける。
その場には、歓声を上げて一連の出来事を見守る観衆と、いまだショックから抜けきれないフレンツェル男衆、そしてルーカスが残った。
「……なんというか」
やがて、ヨーナスが咳ばらいして切り出した。
「凄まじく人間離れした人物を、部下……? としてお持ちなのですな、殿下」
しきりと顎を撫でるその様子からは、己を必死に落ち着けようとしている努力がありありと伝わってくる。
エルマと接触することで得る動揺や衝撃というのは大いに共感できたので、ルーカスは万感の思いを込め、端的に「……ああ」と頷いた。
「出自がいわくつきの娘で、いろいろ常識が欠けていてな。振り回されることも多いが――というか、毎日なにかしら張り倒されるような衝撃を受けているが、救われることも多い」
「さようでございましょうな」
ヨーナスは静かに頷く。
「彼女には驚かされてばかりではございますが、結果的に、たった数日で、魔蛾を追い払い、のみならず益虫であるかのように領民の価値観を変え、彼らが抱いていた不安や不満を見る間に解消してしまった」
それから、傍らに佇む息子に、穏やかな視線を向けた。
「――そして、子どもたちも、ずいぶん彼女との出会いを経て成長したようです」
目を細めた先には、エルマお手製のオカリナもどきを胸に下げた息子、ケヴィンが立っている。
凛と背筋を伸ばし、目上の者同士の会話に静かに耳を傾けていた彼の姿には、もはやかつてのような僻みっぽさや生意気さはかけらも見えず、代わりに、ここ数日で急速に芽生えた、領主の息子としての気迫のようなものが感じられる。
ヨーナスが思うにそれは、エルマの代わりに唯一超音波を操ることができる、という自負から生じるものであった。
そう、発育の遅いケヴィンの体は、一家の中でただ一人、魔蛾に有効な超音波を――おおよそだが――察知することができたのである。
その事実は、これまで病弱でか細い肢体しか持たぬゆえに不甲斐ない思いをしてきたケヴィンに、自尊心と自信とを与えてくれた。
「デボラは己の怠慢と本心を知って脱皮し、息子は自らを誇りに思うことを知った。……あの娘には、頭が上がりません」
領主の貫禄を漂わせて、静かに告げるヨーナスの口調に、偽りはない。
その姿はいかにも思慮深く、また愛情深くもあり――しかも、それが演技とは思われなかったので、ルーカスは怪訝さに眉を寄せた。
湧き上がるのは、例の疑問だ。
これほどまでに民を愛し、子どもたちを愛している聡明な領主が、なぜ、民や家族からの反発も厭わず、魔蛾の保護に腐心していたのか――?
領主の奇行の正体を明らかにし、領内の平穏を取りつけよとの王命は、すでに果たした。
その動機――なぜフレンツェル辺境伯が魔蛾を払うのにその方法を取ったかの理由については、おそらくフェリクスの興味の対象ではない。
しかし、ルーカスは一個人として、なぜかそれを尋ねてみたいと思ったのだ。
気が付けば彼は、口を開いていた。
「――ヨーナス殿。なぜあなたは、魔蛾に対処するにあたり、超音波や餌による体質改善などという、迂遠な方法を取ったんだ?」
「…………」
ヨーナスは、わずかに顔を上げ、じっとルーカスを見つめた。
「なぜ、とは?」
「我ら騎士団が魔に遭遇したとき、一番に考えるのは、追い払うことではなく、殲滅することだ。農業を主産業とする領地を構える長ならば、きっとなおさら。時間を掛けて対処するより、手っ取り早く処分してしまおうと考えるはず。そうだろう?」
「…………」
ヨーナスはなにも言わない。
その横で、ケヴィンが静かに息を呑み、じっと会話の行く末に耳を澄ましているのが見えた。
「あなたは聡明だ。時間が掛かれば掛かるほど、リスクや人心の乱れが増すことはわかっていたろうし、その気になれば、手っ取り早く王都や騎士団に助けを乞うて、魔蛾を退治させることだってできたはず」
「…………」
「だが、しなかった。しかもあなたは、自身が長い年月を捧げた研究のことを、民に説明しようともしていなかった。それはなぜだ? 説明さえしていれば、少なくとも領主は魔に堕ちたわけではないと、民も安心したろうに」
黙り込む父を、ケヴィンは食い入るように見つめた。
そして、ルーカスの言葉に付け足すように、小さく、
「――……家族にも、です」
と呟いた。
「父上は、僕たちにすら、説明してくれなかった」
その声には、以前食堂で父を詰ったときのような、攻撃的な感情の乱れはない。
しかし、抑制してなおにじみ出る、傷心の響きがあった。
「……いずれは、父上から全幅の信頼を置かれる息子になれるよう、努力する所存ですが」
その決意が、いじらしいと同時に、痛ましい。
ヨーナスは意表を突かれたように目を見開くと、ついで口を引き結んだ。
それから、ゆっくりと息を吐きだし、やがて重々しく切り出した。
「――繰り返すが、私はおまえを至らぬ子だと思ったことは、一度もない」
「…………」
「いつだっておまえを信じていたし、今だって自慢の息子だと思っている」
ではなぜ、と、ケヴィンの瞳が問うている。
ヨーナスはそれを見返すと、覚悟を決めるように一度ぐっと目を瞑り、とうとうルーカスに――そしてケヴィンに向き直った。
「――殿下を……人間離れした者を受け入れられる、その懐の広さを見込んで、申し上げます」
そんな、低い前置きの言葉とともに、彼は語りはじめる。
「……私が、魔蛾を殺せなかった理由。それは――息子が……ケヴィンが、魔に連なる者だからです」
十年以上の長きに渡って、心の奥底に飼い殺していた、真実を。