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30.皇帝と大貧民

「あら、あげた以上に随分ともらってしまったわ」


 昼なお薄暗い監獄の一室で、嫣然とした声が響く。

 ハイデマリーは、クレメンスが差し出した二枚の絵札をひらりと手の内で翻し、長い睫毛を瞬かせた。


「でも、それがルールなのだから、仕方ないわね」


 そして、悪びれもせずに小首を傾げた。

 相も変わらずソファに背中を預けたほかの囚人たちも、何ごともないように自身の手札を整理している。


「そうそう、大貧民から皇帝には最強の手札を二枚、皇帝から大貧民には不要な手札を二枚交換する、っていうのがこのゲームのルールだからさ。仕方ないよね。許してあげてよ、クレメンス」

「貧しき民は構造的に搾取され続けるという、実に世知辛い現実を投影したルールですが、【色欲】に悪気があるわけではありませんから。お許しください、クレメンス殿」

「そんな悲壮な顔しなくたっていいじゃなぁい。許しなさいよ、クレメンス」

「許せ、クレメンス」


 順に、ホルスト、モーガン、リーゼルに、ギルベルトである。

 ハイデマリーに勝つことはないが、かといってけっして最下位に落ちることのない彼らは、完全に余裕の態で、新しい玩具(・・)を弄び、楽しんでいた。


「許してクレメンス」


 最後にぼそっとイザークまでもが呟いた瞬間、全員の手札の整理が完了する。

 そうして彼らは、気だるげな雰囲気をまとわせたまま、再び最初のカードを場に捨てはじめた。


 それがチェスであれ、カードであれ、敗者は勝者に絶対服従するという決まり自体は、彼らにも適用される。

 しかしクレメンスという「新人」を得た今、彼らが最下位に落ちることはまずありえなかったし、仮にそうなったとしても、その窮地を鮮やかに切り抜けてしまえるなんらかの術が彼らにはあった。

 下手を打てば、監獄の奴隷へと堕とされる――そのスリルすら、この退屈な獄内では、魅力的なスパイスなのである。


 よって、彼らは実に優雅に、貴族的な余裕すら漂わせて、迷いのない手つきで札を選んでは場に投げていった。


 そんな中にあって、必死の形相を浮かべている人物が、ひとり。


 ここまでで既にすっかり身ぐるみを剥がされてしまった、クレメンス・フォン・ロットナー元侯爵である。


 血走った瞳にはかつての理知的な光はなく、強張った顔は柔和な人柄を装うどころではない。

 白髪を振り乱し、靴も脱がされて年相応に痩せ細った足を晒した様は、ひどくみじめで、無力である。

 今の彼を見て、往時は大国の王をほしいままに操り、各国でその権力を振るってきた貴族中の貴族であると信じる人物は、誰もいないであろう。


 クレメンスのそうした様子は、靴の中に隠していた地権証を奪われたときから続いていた。


「いやだわ、クレメンス。どうかそんな怖い顔をしないで。鬼気迫った顔で札を睨みつけたのでは、幸運の女神も逃げてしまってよ?」


 彼からすべてを巻き上げた麗しの娼婦は、甘い声で優しく囁く。


「それに、どうぞ安心して。なにもわたくしたちは、血を見るのが大好きな殺人狂というわけではないもの――たぶん。次にまたあなたが大貧民になって、そのときもはや内臓くらいしかあなたが目ぼしいものを持っていないからといって、必ずしもあなたを解体するとは限らないわ」

「…………」


 対するクレメンスは、ぎろりとハイデマリーを睨み上げるだけだ。

 その鋭い視線には、強い憎悪こそ籠っていたが、意外にも恐怖は滲んではいなかった。


 常軌を逸した囚人たちに囲まれて、あげくその身を切り刻まれる可能性をまざまざと突きつけられつつも、それに対して怯懦の心を欠片も見せぬ様子は、さすがは元宰相といったところか。


 ハイデマリーはまじまじとクレメンスを見つめてから、ふふ、と愉快そうに微笑んだ。


「素敵。気骨のある殿方って、わたくし、本当に好きだわ」

「――……娼婦めが」


 クレメンスは、吐き捨てるように唸る。

 ついでに唾まで吹きかけそうになったところを、予備動作もなく剣を突きつけたギルベルトが制止した。


「俺の妻に失礼な真似はやめてくれるか」


 つ、と喉仏に血が流れるのを見たクレメンスは、代わりにますます眼光を強め、射殺しそうなほどにハイデマリーを睨み据えた。


「……今に見ておれ」

「吠えるのは勝手だけど、少なくともアンタはマリーのことを『見る』のは、やめた方がいいんじゃなあい?」


 と、不機嫌そうにカードを選んでいたリーゼルが――どうやら、少々札の戦力が乏しくなってきたらしい――嘲るように指摘する。


 彼は、すいと顔を上げると、クレメンスに向かって皮肉気に唇を吊り上げてみせた。


「【色欲】の瞳は、魔性の瞳。一度溺れてしまえば、あたしの洗脳なんかよりよっぽど強力に、骨の髄まで吸い取られるわよ」

「いやだわ、【嫉妬】。あなたからそんなに褒められる日が来るだなんて、胸がどきどきしてしまったではないの」

「褒めてんじゃないわよ、こき下ろしてんの。そこらの淫魔や魅了持ちの魔族より、よっぽどたちが悪いって言ってんでしょ」


 相変わらず、この女子(・・)ふたりは反りが合わない――というか、独特の距離感を取っているようだ。

 リーゼルはふんと鼻を鳴らした。


「ほんっと、あんたって節操ないんだから。男だけならまだしも、女、いえ、種族を超えてだって誘惑するでしょ。あんたが監獄に入ったばかりの頃、各国の要人どころか、牛やら魚やら鳥までもがふらふらと引き寄せられてきて、あたしたちが駆除するのにどれだけ苦労したことか」

「だが、おかげで、しばらく、食卓は、豊かになったぞ」

「人間はさすがに食べられませんが、未だに送られてくる彼らからの手紙は、重要な情報源になっていますしね」


 潔癖症のきらいがあるリーゼルは恨みがましく吐き捨てるが、それによって利益を得てきたイザークやモーガンはハイデマリーの擁護に回る。

 泰然の構えを崩さぬ女王は、批判にも擁護にも等しく肩を竦めた。


「慣れてちょうだい。これがわたくしなのだもの」


 そう、彼女は生まれついての娼婦であったのだ。

 艶めかしい肢体はただそこにあるだけで視線を釘付けにし、あえかな吐息はぞくりとするほどの色香を含む。


 男であろうと女であろうと、いっそ種族を超えてさえ、彼女と目を合わせたものは、もれなくその濡れた瞳の湛える碧い世界へと引きずり込まれる。

 そうなってしまえば、彼らは自我を溶かし、熱に浮かされた人のように、ただひたすら女王の愛を乞うようになるのだ。


 エルマに対して、意識的、体系的に、他人の関心を引き付け操作する術を教え込んだのはリーゼルだったが、無意識的――呼吸をするように人を誘惑する術を仕込んだのは、なにを隠そうハイデマリーであった。


 世にも厄介な誘惑者(エルマ)をこの世に誕生させた娼婦は、無邪気に小首を傾げる。


「それに正直なところ、魅了の力という点では、エルマのほうが優れていると思っているわ。あの子が本気を出せば、動物どころか魔獣や魔蟲だって堕としてしまえるはずだもの」


 どこか誇らしげに彼女が告げると、リーゼルはますます鼻白んだように片眉を上げた。


「そりゃあ、ね。だってあの子は、【色欲】(あんた)の無駄にきれいな顔に加えて、【怠惰】の話術と、あたしの洗脳術まで授かってるわけだもの。あの子に堕とせない存在なんてないでしょうよ」


 自身も十分に親馬鹿な発言をかましてから、しかし彼はちょっとだけ口元を歪めて、付け足す。


「――正直、エルマがあんたの忌まわしい瞳を受け継がなくてよかった、って思うわ。見つめるだけで人の自我を溶かすあんたの瞳は、ほとんど邪眼の域よ。ただでさえ、あたしたちが魅力的に育てすぎちゃったのに、邪眼まで加わったらどうなることか。過ぎた魅了の力は、身を滅ぼすわ」

「……そうね」


 破滅をもたらす女、と揶揄されておきながら、ハイデマリーはなにも言い返さない。

 彼女はちらりとホルストを一瞥し、牽制するように微笑んだ。


 エルマの瞳は感情が昂ると赤くなるのだという事実を、ハイデマリーは大切な仲間にすら伝えていない。

 燃える夕陽、滴る血のような深紅の瞳は、神秘的な夜明け色の瞳よりもよほど強く、人を魅了する――それこそ、かつての魔族と同じく危険視されるだろうほどに、人々の精神に強く働きかけるのだということも。


 麗しの娼婦は、不都合な真実をさりげなく胸の奥にしまい、代わりに完璧な形の唇で、美しい睦言を囁いた。


「だから、わたくしはあなたが大好きだわ。リーゼル」

「……なにがどう、だからなのやら」


 鼻に皺を寄せながらのぼやきに、ハイデマリーはふふっと口元を綻ばせる。

 それから、思い出したようにクレメンスを見やり、大仰に肩を竦めてみせた。


「ごめんなさいね、会話に取り残してしまって。なんの話をしていたのだっけ――ああそうそう、あなたはわたくしをあまり見つめないほうがいい、という話だったわね」


 微妙に逸れてしまった話を元に戻し、ついでにひらりと場に手札を投げ捨てる。

 彼女は、いたずらっぽくクレメンスに向かってウィンクを決めた。


「自分で言うのもなんだけれど、そうかもしれない。あのね、なぜかわたくし、じいっと相手を見つめていると、その相手が急に跪いてきたり、慈悲を乞うてきたり、絶望して死なれたりすることが多いのよ。困っちゃうわよね」


 さらりと告げるには、あまりに衝撃的な内容だ。

 それではほとんど魔族か死神の類である。


 さすがのクレメンスも少々面食らっていると、ハイデマリーはくすくす笑って続けた。


「これでも若い頃は、結構苦労したのよ。でもおかげで、わたくしはとてもシンプルな方針を持つに至ったの。それはね――」


 自分に媚びない者だけを、対等と認める。

 擦り寄ってくる者は――支配する。


 彼女が嫣然と言い切った内容には、娼婦の妄言と片付けるには済まされない、異様な迫力があった。

 無意識に喉を鳴らしたクレメンスに、ハイデマリーは高貴な猫のように笑いかけた。


「出会ってから今この瞬間まで、けっして情欲を向けてこなかったあなたのことを、わたくしは気に入っていてよ。けれどね、クレメンス。わたくしに情欲を向けない――支配されずに済む人間というのは、たいてい、著しくなにかが欠けた人なの」


 たとえば、と、彼女は周囲の仲間たちを見回しながら、歌うように告げる。


「欲を忘れてしまうほどに、大切なものを失ってしまった人。女の体よりもよほど強く、得難いほかのなにかを求めている人。あとは……既にわたくしに心を捧げきってしまった人、というのもあったけれど」


 ギルベルトをちらりと視界に入れたとき、美しい唇からくすっと吐息が漏れた。

 ぐるりと全員を見回してから、ハイデマリーはじっとクレメンスを見据える。


 彼女は優雅にソファにもたれかかったまま、「それから」と付け加えた。


「わたくしが視界に入らぬほど、すでに心の最奥に愛する女性を棲まわせてしまっている人、というのもね。あなたはそれでしょう、クレメンス?」

「――……っ」


 クレメンスは虚を突かれたように黙り込んだ。


 やがて、くっと唇の端を持ち上げ、嘲笑を象る。

 彼は心底馬鹿にしたように、ハイデマリーに向かって吐き捨ててみせた。


「――たわけたことを。すべてを愛だ恋だのくだらぬ感情に帰結させるところが、しょせんは女よな」


 が、威勢の良い罵倒は、


「だそうだけど、【怠惰】?」

「瞬きの数が増え、皺眉筋(しゅうびきん)は強張り、視線は右斜め上へ。すなわち彼は、【色欲】の発言に不安と不快を感じ、虚偽を口にしている――あからさまに、動揺していますね」


 モーガンの読心術によってあっさり封じ込められてしまう。

 そう、とくすくす笑うハイデマリーを前に、クレメンスはまるで哀れな小動物のように毛を逆立てた。


「は、ペテンかなにか知らぬが、己の妄想を勝手に事実として語るのは、さぞ――」

「そうそう、事実を語るといえば、つい最近、ちょっと気になる噂を聞いたのよね。聞いたというか、厳密にはこの手紙に書いてあったのだけど」

「今その手紙はどこから出てきた!?」


 ぴらりと谷間から封書を取り出したハイデマリーに、クレメンスは渾身の虚勢も忘れて突っ込みを入れる。

 ハイデマリーはにこやかにそれを受け流すと、優雅な手つきで便箋を広げた。


「とある社交界にいた、とある女性についての噂よ。この女性――フィーネ様というらしいわね――彼女というのが、まあ巡り合わせの悪い方でね。聡明さと清廉な人柄を買われてとある王の側妃に収まったのだけれど、その善良さが煙たがられてしまって、あっさりと離縁。『信頼のおける家臣に下賜する』との名目で宮廷を追い払われたのだけれど、今度はその家臣の夫が失脚。子もおらず、後ろ盾となるはずの実家からもとうに見放されたフィーネ様は、哀れ、単身屋敷を出たらしいわ」

「――……っ」

「そうはいっても、旅など不慣れな、もはや初老に差し掛かった女性よ。乏しい路銀を掻き集めて、彼女の思いつく最も人里離れた、そして――ああ、涙が出そうね、彼女が唯一足を運んだことのある地方に、馬を走らせたのだとか」


 もはやクレメンスは言葉もない。

 ただ、血がにじむほどに拳を握りしめ、強く口を引き結んでいた。


「それは彼女の想い出の土地。彼女を引き取った『第二の夫』が、多忙な業務の合間に、申し訳程度に一度だけ連れて行った――いわば、新婚旅行の行き先」


 ハイデマリーは、ひっそりと笑みを深めた。


「のどかで自然深く、避暑にはうってつけのその場所の名前は……トレンメル」

「…………」


 かつ、と音を鳴らして、とうとうハイデマリーは立ち上がった。


 手にしていた札を、ばさりと場に投げ捨てる。

 女王の札が三枚。

 それで、彼女の手札は空になる――つまり、またしても、彼女が皇帝だ。


 監獄に君臨する麗しの娼婦は、優しく目を細めて告げた。


「残念ね、クレメンス。わたくしの読みでは、今回もあなたが大貧民よ。――今度は、あなたから何をもらおうかしら?」


 白く細い指先を伸ばし、クレメンスの強張った顎を持ち上げる。

 彼女はまるで睦言を囁くように、甘く甘く言葉を紡いだ。


「隠し持っていた金貨、指輪、それに、別名義の地権証。それらは、もうもらってしまったし。あと何を取り上げたら、あなたの目的は頓挫するのかしら」

「…………」


 クレメンスは、絶望の唸り声を漏らした。


 この女は、最初から見通していたのだ。

 そのうえで、ひとつひとつ巻き上げていった。


 隠し持っていた金貨、指輪、それに、別名義の地権証。

 すなわち、トレンメルにたどり着くための路銀、呷るための毒を隠した指輪、そして――妻の安全を確保するための土地を。


 決めたわ、と唇を吊り上げて、ハイデマリーはクレメンスの頬にそっと手を添えた。


「最後は、あなたの真実をちょうだい。あなたが、洗脳を解かれるなり愚かにもわたくしたちに挑み、四肢をもがれる恐れすら厭わず脱獄を目指したのは――フィーネ・フォン・ロットナー元侯爵夫人に土地を授け、そこで自死するためかしら?」


 クレメンスは、後生大事に持っていた、手札の中で唯一強力と言えるカード――ハートの女王(クイーン)を、力なく床に落とした。

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