29.「普通」の虫退治(6)
「……ち、父上。……なんというか、その……ち、父上が夜な夜な沼に向かっていたのは、魔蛾を研究するためだったのですね。魔蛾を焼くなと言ったのも、超音波を使った方が合理的だからだったのだとわかって、ええ、それだけでも、僕は本当によかったです……!」
「そ、そうですわ……! お父様の研究が実を結んだかどうかはさておき、その真意は、最も安全に魔蛾を追い払うべしという、領主にふさわしいものだった。それがわかっただけでもわたくしたち、どれだけ救われたことか……! お父様には、心の一等賞を上げたいと思いますわ!」
「そんな……運動会でビリだった生徒に校長先生が向けるような言葉を言われても……」
渾身のフォローを見せる子どもたちに、ヨーナスはぼそりと呟く。
デボラたちは「しまった」という表情を浮かべた。
ルーカスたちもまた、かける言葉が思いつかず、そっとヨーナスを励ます視線だけをひとまず向けてみたのだが――、
「心の一等賞もなにも、この魔蛾を無力化したのは、すべてヨーナス様の功績ではございませんか」
先ほどヨーナスの心を華麗に折り去った当の本人が、真顔でそんなことを言った。
「通常、魔蛾の翅は褐色の色味を帯びていると聞きます。ですが、フレンツェルの魔蛾は緑色。それは、ヨーナス様がかの沼に棲む魔蟲を利用して、魔蛾の体色および体質を変えていったからでございましょう?」
「――……!」
その指摘に、ヨーナスははっと目を見開く。
彼はまじまじとエルマを見つめ、それから低い声で、「気付いていたのか……?」と問うた。
エルマはこくりと頷き、
「はい。屋敷の庭にて、瘴気を帯びたミドリムシを発見したときに、その性質が気に掛かったものでして」
淡々と答える。
「どういうことですの……?」
困惑を露わにしたデボラに、エルマはやはり、特に表情を浮かべることなく説明した。
「先日デボラ様にお飲みいただいたミドリムシ。あれは、微かに瘴気を帯びていると申し上げましたね。発育が恐ろしくよく、通常では考えられぬような強い
瘴弱の娘がいるはずの池に、瘴気を帯びた魔蟲がいること。
自然発生的というには、やけにミドリムシの発育がよいこと。
それが、人目に付きにくい、かつ、ヨーナスの自室にほど近い裏庭に生息していたこと。
それらのことに引っ掛かりを覚えたエルマは、今朝がた早起きをして、昨日捉えた魔蛾に池のミドリムシを与えてみた。
すると魔蛾は、慣れ親しんだ餌のようにそれを食べた。
そして、その魔蛾の体内のどこからも――昨日彼らが放っていた鱗粉も含めて――、毒や瘴気は検出されなかった。
「…………」
思いもよらぬ内容に、デボラたちが息を呑む。
だが、言われてみれば、これだけの群れが襲来したというのに、確実に鱗粉が紛れているであろう空気を吸い込んでも、一向に息苦しさを感じない。
デボラは混乱して、額に手を当てた。
「でも……十年前、たしかにわたくしは鱗粉を吸い込んで倒れて……」
「ええ。ですから、それを機にヨーナス様は研究に着手されたのでしょうね。領内に飛散する鱗粉毒も、年を追うごとに減っていったはずです」
「言われてみれば……」
ここ数年、デボラは倒れたことなどなかった。
ただ、ずっと屋敷に引きこもり、自ら不摂生を深めていったので、それに気付かなかったのだが。
呆然とするデボラの代わりに、エルマはヨーナスに向き直る。
そして、淡々と事実を確認するように、問うた。
「人々が、魔蟲が湧き瘴気に満ちていると噂する沼。そこであなた様は、ミドリムシを飼育し、魔蛾に与え、領内の魔蛾の無毒化を進めていたのではありませんか? 裏庭の池に湧いていたミドリムシは、その実験体。――そうですよね?」
領民たちが息を呑む。
陰気領主、魔に堕ちた外道などと、さんざん罵ってきたヨーナスが、まさかそんなことをしていたのだとは、思いもよらなかったからだ。
しかし、もしそれが本当なら、彼は自分たちのために、不当な中傷すら受けながらも長年研究を続けてきてくれていたわけで――。
エーリヒたちは、息を殺し、じっとヨーナスを見つめた。
やがて、
「……そのとおりだ」
ヨーナスは、低く呟くように頷く。
その声は、なぜか罪を突きつけられた被告人のように、かすれていた。
「魔蟲を使って魔蛾を無毒化する研究と、超音波を使って魔蛾を追い払う研究。私はその二つを、両輪で進めていた」
それは本来、領主としては誇るべき任務のはずだ。
しかしそれを隠すように、慎重に告げるヨーナスを見て、ルーカスはふと違和感を覚えた。
民や家族から距離を置かれてもなお、領地を守るための研究を進めていたヨーナス。
それほどの責任感の強さ、頭脳の明晰さを持ち合わせていてなぜ、研究内容を民に告知してしまうことを思いつかなかったのか。
そうしてしまえばよほど堂々と、研究や実験に没頭できたろうに。
そもそも彼はなぜ、手っ取り早く魔蛾を「殺す」方法ではなく、体質改善や音波を使って「無毒化」したり「追い払う」方法の開発に腐心したのだろうか。
クリーンだとか省コストだとかエルマは言っていたが、そんなものは人知を超えた能力を持ったあの娘だから言えるのであって、普通、害虫を前にしたら人は体質改善より殲滅を考えるだろう。
(そうまでして、魔蛾を傷つけまいとしていた――?)
この領主には、まだなにか隠している事情があるのではないか。
しかし、ルーカスが目を眇めた瞬間、
「――ところで」
顔を俯かせたヨーナスの視線を辿り、なんとなく地面を見つめていたエルマが、ふいに切り出した。
「この卵たちは、どう処理しましょうか」
「あ」
周囲は、その指摘にはっとする。
彼らの目の前の畑には、依然、卵とそれが放つ菌糸に蝕まれた枝が、大量に転がっているのだった。
成虫のほうは無毒化されているとはいえ、これらの卵の生態までは変えられていないようだ。
枝は無残に腐り溶け、一年で最も豊かであるべきぶどう畑は、その一帯だけ色を失っている。
魔蛾の退治に成功し、領主の真意を理解し、と、興奮したり胸打たれたりして忙しかったエーリヒたちも、むごい現実を突きつけられて、黙り込んだ。
あの大群に襲来されながら、これだけの被害で済んだのは幸いだ。
しかし――少なくともエーリヒたちは、今年は厳しい冬を迎えることになる。
フレンツェル一家は、口々にエーリヒたちに話しかけた。
「これは産卵を防げなかった我ら一家の責任だ。失われた枝のぶん、補償することを約束しよう」
「卵の付いた枝は、僕たちが責任を持って、魔蛾が正気に戻らぬうちに焼却処分する。任せてほしい」
「あなた方は、今日はよく休んでくださいませ」
それぞれ、これまでの彼らからは考えられないような、親身であり責任感に溢れる態度だ。
領民たちは顔を見合わせ、泣き笑いのような表情でそれを受け入れようとしたが――
「――お待ちください」
そこに、エルマが待ったをかけた。
彼女は、割れる恐れがなくなったためか、再びすちゃっと眼鏡を装着し、きらりとガラスを光らせる。 そして、真顔なのだろうとわかる雰囲気を漂わせて問うた。
「補償とは、どういうことです。なぜそこで、卵を焼却という話になるのですか」
「――は?」
エルマの問いに、姉弟と父親は怪訝そうに眉を寄せる。
しかしエルマは、どこまでも真剣に告げた。
「家に帰るまでが遠足。幸せになるまでが災害復興。卵に枝を腐らされて、そのぶんを埋め合わせるだけだなんて、そんな中途半端な虫退治、虫退治と言えるのでしょうか」
「ええと……」
戸惑う一同の前で、エルマはくいと眼鏡のブリッジを持ち上げた。
「失った以上に取り返す。畑を荒らされた以上にむしろ
どこの世界線の虫退治について話しているんですか!?
一同の心の叫びが、奇しくもひとつになった。