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28.「普通」の虫退治(5)

「――……!?」


 すっと耳に飛び込んできた声に、その場にいた誰もが状況を忘れ、はっと息を呑む。

 それほどまでに、美しい声だった。


 ――ああ……ああ……――


 歌詞もない。

 これといった旋律もない。


 ただ、発声練習のように半音階ずつ声を高めているだけというのに、人々はあたかもセイレーンの歌声に幻惑される船乗りのように、ふぅっと意識が奪われる心地よさを感じた。


 影響されているのは、もちろん人間だけではないらしい。


 エルマの声が、特定のある音に差し掛かると、じわじわと距離を詰めていた魔蛾の群れが、まるで動揺するようにざわりと波打ち、揺らめいた。


 ――ああ……ああ……ああ……――


 声はどんどんと高さを増していく。

 けれど不思議と耳ざわりな甲高さはなく、声はかすれるどころか、水のような透明感と、燃え盛る炎のような力強さを帯びはじめた。


 ――ああ……――!


 ふ、と。

 音階を追っていた人々の耳から、突然声が消え失せる。


 取り残された聴衆は、戸惑いながらきょろきょろと周囲を見回した。


「……? エルマは歌うのをやめてしまったの?」

「いや……」


 怪訝な顔で呟いたイレーネに、ヨーナスが呆然としたまま答えた。


「あの娘の声は、人間の可聴域を越したのだ」

「なにそれ!?」


 イレーネの叫びは、奇しくもその場の人間全員の心の声を代表する形となった。


 ――…………、…………、…………


 エルマが紡ぐ声は、もはや誰の耳にも届かない。

 ただ、魔蛾が食い入るようにエルマを見つめていること、ただそれだけをもって、人々は彼女が「歌って」いるのだと理解した。


 いや――。


「……エルマさん……会話、しているのか……?」


 たったひとり、エルマの発する音波を、微かに聞き取れる者があった。

 ケヴィンである。


 発育が遅い――逆に言えば、子ども特有の繊細な鼓膜を維持する彼は、既に成長を終えた周囲の大人たちの中でただひとり、エルマの声を耳に捉えることができたのだ。


 熱に浮かされたように、彼はぼうっとエルマを、そして彼女が立ち向かっている魔蛾の群れを見つめる。


 耳を澄ませば澄ますほど、これまでに感じたことのなかった意志の光を、あのおぞましい魔蛾の群れからも読み取れるような気がした。


(……そうとも……感じる……。魔蛾には、意志があり、言葉がある……。先程からキィンと耳を細く貫いていくようなこの音を介して、彼らは会話をしているんだ……)


 その唐突な理解は、彼の世界を一変させるような衝撃を与えた。

 今のケヴィンには、魔蛾の群れが単に蠢く魔蟲の塊などではなく、理知的なリーダーと、厳格に統制された兵士の集まりのようにすら見えはじめていた。


 だとすれば、そう、群れの先頭を舞う、ひときわ繊毛の立派なあの大ぶりな個体こそが、おそらくは魔蛾の王――いや、卵を守ろうとしているところから察するに、女王だ。


 女王はいかにも博学才頴、狷介孤高。

 伸ばした触覚は風にもそよがず凛と伸び、介立の精神を感じさせる。


 その威厳溢れる女王は、しかしこの日唐突に、運命を狂わせる存在との邂逅を果たしてしまった。

 それこそが、目の前で緩く両手を広げ、蠱惑的なまなざしを向ける人間の青年(・・)――。


(…………!?)


 ケヴィンは、己の発想にぎょっとして頬を叩いた。

 今なぜ、自分はエルマのことを青年だなんて思ったのだ。


 だが、「歌声」を聴いて脳内で勝手に結ばれる映像は、たしかに恋愛歌劇(メロドラマ)のごとき一場面を呈す。

 そこに登場する人物は、蝶を擬人化したような美貌の女王と、異性を狂わせる桃花眼が印象的な淫蕩な青年だった。


 妖艶な笑みを湛えた青年は、誘うように魔蛾の女王に囁きかける。


 群れを導き卵を守り、ただ一族のために己を殺して献身しつづける、その生の虚しさを。

 ただ一匹の魔蛾として、女として求められるその歓びを。

 迸るような感情の交歓を――


(な、なぜこんな倒錯的な筋書きばかり思い浮かんでしまうんだ、僕は……!?)


 ケヴィンは己の隠れた性癖を指摘されたような気がして、状況も忘れてかぶりを振った。


 しかしその間にも、エルマと魔蛾の女王が織りなす、甘美なる歌劇は続く。


 美貌の青年が切々と謳い上げる恋情歌に、世間知らずだった厳格な女王はそっと心の鎧を下ろし、己の翅を恥じらいに震わせたところだった。


 女王の複眼に、己の半生が走馬灯のように蘇る。


 群れの頂点としての宿命を授かって生まれたあの日。

 すべてが柔らかく温かだった蚕時代。

 やがて迎えた脱皮、信頼していた友の裏切り、苛烈を極めた後継者争い、そして掴んだ栄光の座。

 しかしそれとともに、いつの間にか凍り閉ざしてしまっていた己の心。


 女王として魔蛾を率いてきた、その責任と誇り。

 次世代の命を守り繋ぐその尊い役目。

 ああ、でも、けれど今はそれすらもかなぐり捨てて、この情熱の炎に身を焦がしてしまいたい。


 魔蛾の女王は胸部の繊毛を震わせ、おずおずと、そして徐々に力強く、魂の叫びを奏ではじめる――。


 ――愛……それは燃え盛る炎……ラララ……


(なんか魔蛾が歌いはじめたああああああっ!?)


 ケヴィンはびくっと肩を揺らし、大きく目を見開いたまま魔蛾の群れを見つめた。

 群れは、大きな魔蛾を筆頭に上空に留まり、微動だにしない。


 やがて、向かい合うエルマが意を迎えるように頷き、一層広く両腕を広げた。


 ――愛……それはすべてを奪い、与える、一瞬の光……ルルル……


(すかさずエルマさんからアンサーソングが返ったあああああっ!?)


 ケヴィンは咄嗟に、手近な板壁にがんがんと頭をぶつけた。


 目の前の光景が、とにかく信じられない。

 超音波を聞き取れず、すっかり状況に取り残された周囲も、魔蛾の群れになにか異様としか言いようのない空気が漂いはじめたのを察知し、ざわめきだした。


 彼らには、エルマと魔蛾の間には、単に沈黙が横たわっているようにしか思えない。

 けれどその実、両者の間には、フルオーケストラが鳴り響かんばかりの、壮大な駆け引きが行われているのであった。


 群れは今や大音量でコーラスを響かせ、激しい魂のリフレインを奏でている。


 ――愛……! ああ、すべてを燃やし、奪う、恐るべき猛り……!

 ――愛……! おお、魂の欠片を取り戻し、与える、痛切な祈り……!


 エルマがすっと片腕を持ち上げ、指先を魔蛾へと伸ばす。

 片方は虫であるというのに、なぜだか、手を伸ばし合い、視線を絡み合わせる麗しの男女が、ケヴィンには確かに見えた気がした。


 ――パァアアアアン……!


 まるで、シンバルを力強く打ち鳴らしたかのような高音が耳を貫く。

 それはケヴィンの耳には、不思議なことに、「愛……――!」の叫びであるように聞こえた。


 同時に、ざあっと音を立て、群れが一斉に空を舞う。


「な……なにが……っ!?」


 自身をかばうことすら忘れ、ぎょっと目を剥く人々の前で、魔蛾の群れは四方八方へと飛び散った。


 完全に統制を失った、大量の魔蛾。

 久々に覆いを免れた青空と太陽が姿を見せるが、人々は恐怖に顔を引き攣らせたままだ。


 が、魔蛾は不思議なことに、ふわふわと酔ったような軌跡を描きながら、エルマの周辺を名残惜しそうに漂うだけだった。

 その動きには、人々や畑への攻撃性も、ついでに言えば卵への関心も感じられない。


 一同は、怪訝そうに眉を寄せた。


「魔蛾が……卵よりも、人間に興味を示している……?」

「はい。群れのリーダーを筆頭に、卵より大切なものの存在、すなわち愛に目覚めてもらうよう、誘惑させていただきました」

「なにそれ!?」


 人々は絶叫したが、そのうちの幾人が、宙を舞う魔蛾にとある異変が起こりつつあるのに気づいて、困惑の呟きを漏らした。


「なんだか……魔蛾の翅が、毒々しい緑色から、透き通るような翡翠色に、変わってきてるような……」

「ええ、恋は女をきれいにしますので。この状態の魔蛾が生んだ幼虫からだと、間違いなく最高品質の絹糸が取れますよ」

「だからなにそれ!?」


 淡々と説明されるが、わけがわからない。


 ただ、目の前の現実として、魔蛾は蛾というより蝶と呼びたくなるような艶やかな翅を広げ、優雅に飛翔を続けていた。

 胸部のふっくらとした繊毛や、複眼のつぶらな瞳など、むしろ愛らしさすら感じさせる。

 しかも、かの虫の繭玉から取れる糸は最高に美しいのだという。


 なんだそれは。

 単にきれいで有益な、めっちゃイケてる益虫ではないか。


 人々は、素直にその美しさに感じ入り、そしてそんな自分に戸惑った。


「さすがエルマ様……その魅了のお力は、性をも種族をも超越するのですね……!」


 ひとり、デボラだけは目をハートにしていたが。

 とにもかくにも、魔蛾の襲来という最大の脅威は、エルマによってあっさりと払いのけられたわけである。


 人々は徐々にそれを理解し、それと同時に、頬を興奮に染めはじめた。


「し……信じられない……これだけの魔蛾の大群を、たった一人で鎮圧して、しかも変質させてしまうなんて……!」

「あの歌声……もしや、古の聖女のように、癒しの歌声で魔の心を鎮めたというのか……!?」

「いえ、鎮圧というか、ほかに気を逸らしただけですが。それに癒しの歌声などではなくて、ただの超音波ですが」


 エルマはちょっと顎を引きながら訂正するが、興奮した人々は聞き入れもしない。

 むしろ、突如露わになった美貌の影響も受け、エルマのことを神格化しはじめた。


「奇跡だ……! とんでもない奇跡が起こったんだ! あんたは、かつてフレンツェルを魔から守ったという聖女の末裔に違いない!」

「魔蛾を抑えたばかりか、あんな天の使いみたいな、きれいな蝶のような姿に変えちまうなんて、ありえない……! ああ、ありがてえ……! ありがてえ……!」

「いえあの、ですから――」


 エルマはますます顎を引く。

 完璧な形を描いた眉は、少しだけ不機嫌そうに寄せられはじめた。

 さもありなん、彼女にとって、「とんでもない」だとか「ありえない」だとかの評価は、その努力を全力でディスる言葉だ。


 あ、やばい、と、傍らで聞いていたイレーネは思った。


「べつに一匹一匹に脳幹手術を施したわけでも、一瞬で塵レベルにまで握りつぶしたわけでもなく、単に超音波を使って誘いかけただけですよ。まさかそれくらいのことが、できないとは言わないでしょう?」


 エルマは少しむすっとしたように告げて、それから同志に縋るように、ヨーナスを仰ぎ見た。


「ヨーナス様も、さすがにこれくらいなら、『普通』だと思われますよね?」

「――…………」


 一瞬で白い灰と化したヨーナスを目にして、ルーカスとイレーネが静かに天を仰ぐ。


 領民の反感すら厭わず、十数年の歳月を費やして魔蛾を追い払う秘技・超音波にたどり着き、しかし実現には至らなかったヨーナス。


 超音波を己の身体で発生させ、かつ、単に追い払うどころか複雑な心理操作を引き出して相手を服従・変質させ、あまつさえそれを「普通」と言ってのけたエルマの発言は、彼の心を静かに、そして大胆に抉っていった。

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