27.「普通」の虫退治(4)
すっかり毒気を抜かれた男たちとともに、くだんの畑へと急行したルーカスたちは、そこに広がる惨状を見て息を呑んだ。
「これは……」
そこには、気の弱いものや、女性であれば卒倒しそうな、グロテスクな光景が広がっていた。
通常であれば、誇らしげに枝や葉を広げ、どっしりと房を実らせているはずのぶどうが、その一帯だけ腐り落ちてしまっている。
房は地に崩れ落ち、葉は萎れ、枝はぼこぼことした醜い瘤をまとわせながら、所々で折れてしまっていた。
「魔蛾は通常の蛾と違って、ものすごい勢いで成長、孵化する。昨晩まではたしかに卵なんてなかったはずなのに……おそらく今朝がた産みつけられて、数時間でこのざまだ」
瘤からは身の毛のよだつような形状をした卵が溢れ、さらにそこからは、粘り気のある糸のようなものがゆらり、ゆらりとうねっていた。
卵を保護するための粘液らしいが、それ自体が菌糸のように枝を蝕み、腐らせるのだという。
細かな蟲の卵がびっしりと枝に張り付いた様は、見た目にもおぞましいが、領民たちは目を逸らすこともなく、口を引き結んで腐った枝を刈っている。
魔蛾の卵に触れぬようなんとか枝を切り倒し、袋に詰め――想定以上に菌糸が凄まじい速さで枝を侵食していることに呻き声を漏らしそうになるが、それをぐっとこらえていた。
彼らに絶望している暇などないのだ。
一刻も早く卵を処理しなくては、日に一度、卵の様子を見に来る習性のある魔蛾に見つかって、襲われてしまう。
魔蛾は子に対して愛情深いのかそうでないのか、死に絶えてしまった卵に対しては興味を示さない。
ただ、生きている卵が外敵に襲われるなどすると、凄まじい攻撃性を見せるのだ。
数匹程度ならまだよい。
しかし、怒った魔蛾が群れを引き寄せようものなら、堪ったものではなかった。
「エーリヒ! 火の許可をもらってきてくれたのか!」
と、卵を処理していた男たちがこちらに気付き、手を振る。
全身や顔のほとんどを布で覆ってなお、彼らにぱっと喜色が浮かんだのがわかった。
それほどに、火器の使用許可を――すなわち魔蛾への攻勢の合図を、待ちわびていたのだ。
彼らは、エーリヒと呼ばれた男たちの背後に、ヨーナスやケヴィン――とそれから、誰かはわからないが巨乳の美少女――、そしてルーカスたちがいるのを認めて、戸惑いと安堵がないまぜになったような表情を浮かべた。
「領主様自らご足労くださって……? ええと、そちらの色男は……? それに、そのエリーザ様によく似たきれいな娘さんは、まさか……?」
どうやら、状況が掴めないでいるようである。
ルーカスとデボラは、
「たまたまこの辺りに遊びに来た王都の者だ。魔蛾の卵が発生したと聞き、力になれればと思い様子を見に来た」
「ブランニュー・デボラですわ」
それぞれ端的に自己紹介を済ませ、さっさと魔蛾への対処に話を移した。
「火についてだが、伯は使用を許可しないことに決めた。魔蛾はそれ以外の方法で対処する」
「こちらで手を打ちますので、あなたたちは下がっていてくださいませ。これまでご苦労様でした」
目を白黒させたのは、それまで卵と格闘していた領民たちである。
彼らは一瞬きょとんとし、それから見る間に表情を険しくさせると、目の前の領主一家に食ってかかった。
「――火の使用を許可しないとは、どういうことです!? これがどういう状況か、あんた方だってさすがにわかってんでしょう!?」
「むろん父上も、僕たちだって状況は把握している。ただ、いたずらに火を放つ前に、まずはこの、王都から来た人間直伝の方法で、魔蛾を追い払うべく対処しようと――」
「坊ちゃんは黙っててください! 病弱令息お得意の、机上の空論なんざどうでもいい、俺たちは今、目の前の畑の危機を領主に訴えてるんだ! この、なにもしない、陰気領主にな!」
ケヴィンの仲裁はあっけなく無視される。
それどころか、辛うじて保たれていた領家への敬意もかなぐり捨て、男たちは歯を剥き出しにして怒鳴りつけた。
「早く! 一刻も早く、魔蛾が気付く前に卵を燃やしてしまう必要があるんだ! わかってんだろう、領主様よ!?」
「それとも、あの噂は本当だってかい!? あんたは、俺たちの畑を魔蛾の糧にして、エリーザ様の魂を取り返そうってか!? ふざけるな……そうはさせるか!」
「あの」
ヨーナスがなにも言い返さないのに、ますます苛立ちを募らせたのか、男たちは一層声を荒げていく。
途中、小柄な侍女が、ひっそりと挙手をしたが、それが目に入らぬほど彼らは興奮していた。
「ああ、ならいいさ! あんたはそこで黙って見ていろ! 無許可がなんだ、後から重税を課せられようとも、もういい、今すぐ俺がここに火を放ってやるよ!」
「だが覚えていろよ、無能で怠惰な領主など、俺たちのほうから切り捨ててやる……!」
「あの」
興奮はいよいよ苛烈な意志へと転じ、男たちに革命を決意させる。
彼らは手にしていた鍬や鋤を、そのまま武器として振るいそうな気配すらにじませていた。
「ヨーナス・フォン・フレンツェル。聖なるぶどう畑の守り手として、俺たちを導いてきたフレンツェル家の栄光も、今日ここまでだ」
「我々は、おまえを魔に堕ちた罪人と断じ、ここに――」
「――あの」
「ふがっ!?」
彼らが剣呑なセリフで、領家との断絶を宣言しようとしたその瞬間――しかし、荒ぶる口はひんやりとした手で塞がれる。
ぎょっとして手の持ち主に視線を向ければ、そこでは小柄で冴えないなりをした少女が、真顔で眼鏡を光らせていた。
「そのくだりは、すでにやり尽くされている上に、このようにのんびりとおしゃべりをしている間にですね――」
彼女は、男たちの口を塞いでいた手をぱっと離し、すいと人差し指で空を差した。
「魔蛾、来ちゃいましたが」
韻を踏んだ指摘とともに、
――ざぁ……っ
まるで雨が降り出したかのような音を伴い、急に空が暗くなる。
己の頭上を覆うものの正体に気付いた男たちは、一斉に顔色を失った。
「魔蛾……!」
「こんな大群で……!」
視線の先には、空のもとの色が見えないくらいにびっしりと、緑の魔蛾が押し寄せていた。
「ひ……っ! ひぃ……っ!」
もはや熱すら感じそうな羽音、ときおりふわりと舞う鱗粉に、男たちが情けない悲鳴を上げる。
ルーカスは咄嗟に周囲に、全身を布で覆うよう鋭く指示を飛ばすと、忌々しげに上空を見上げた。
「すごい数だ……」
その規模たるや、昨日森で目にした群れの数十倍に及ぶ。
一匹一匹は魔獣に比べればかなり小柄とはいえ、これだけの大群で押し寄せられては、とうていすべてを躱すことなどできそうになかった。無論、袋に詰めるなど論外だ。
瘴弱のデボラや、肺に難を抱えるケヴィンも、真っ青になっていたが、この一日でよほど精神を鍛えたのか、彼らは健気にもその場に足を踏ん張り、民に向かって叫んだ。
「に――逃げなさい! こ、ここは、わたくしたちがなんとかします!」
「ま、魔蛾は、高い音や声に反応する。ぼ……僕が囮になるから、おまえたちは極力足音を殺して、屋内に逃げろ!」
「デボラ様……ケヴィン様……」
思わぬ相手から庇われた男たちは、戸惑いも露わに二人を見やる。
瘴弱の醜女令嬢に病弱令息。
フレンツェルの汚点とも噂された姉弟が、まさかこのような振る舞いを見せるとは思わなかったのだ。
そして、魔に堕ちた陰気領主と彼らが罵っていた、ヨーナスはといえば、
「――皆の者、下がれ」
周囲がはっとするほどの気迫を漲らせて、静かに魔蛾の群れを見据えていた。
「魔蛾は、音に反応する。その習性を明らかにすべく、この十数年というもの研究を続けてきた。今こそ、その成果を生かすべき時だ。魔蛾一匹にすら、大切なぶどうを襲わせるものか。そなたらは、可能な限り静かにこの場から離れろ」
その声は領主としての貫禄に満ち、また、この聖なる畑を守り導いてきた一族の責任と、気概とに溢れていた。
まさしく彼こそ、この辺境にして豊潤な土地の長。
その場にいた誰もが、つい先ほどまでの憎悪すら忘れ、無意識にヨーナスに縋るような視線を向けた。
「――エルマ、と言ったか」
ヨーナスは、魔蛾の群れが徐々に距離を詰めつつあるのにも動じず、冷静に、傍らの侍女へと問う。
「先ほど、超音波を使うと言っていたな。そなたも、魔蛾の習性に気付いていたのか」
「はい。鳴鎖とは、すなわち魔蛾の嫌う特定の高さの音を出し、追い払う道具。また、ケヴィン様のお声を平均律音階の周波数に当てはめた結果、四四十の倍数ごとに魔蛾が強く反応を示していることを確認しましたので、理論上周波数を該当倍数で極大化すれば、より強く訴えかけることが可能と推察いたしました」
「なるほど、よくわかった」
周囲には、まったくもってわからない。
だが、ヨーナスとエルマの二人は、完全に理解しあった研究者同士のように、そのままぺらぺらと会話を続けた。
「魔蛾の特性の内、音への反応、とくに超音波の可能性については随分昔から気付いていた。が、十分な強度と粒子加速度をえられる超音波の発生方法に長らく悩み、今年になってようやく圧電効果の存在を思いついたところだったのだ」
「なるほど、圧電効果を使ったランジュバン振動子ということですね」
「その通りだ。だがそれだと携帯という点で――」
彼らの口からは、流体力学的キャビテーションだとか圧壊だとか音響インピーダンスだとか、意味不明な単語が次々飛び出す。
それを余すことなく二人は理解し合い、まるで幾多の実験を共に乗り越えてきた仲間というくらいに阿吽の呼吸を見せていたが、
「――して、エルマ。そなたが持っているその犬笛。それで超音波を発生させようというのだな?」
「え、これはあくまで手慰みに作った、予備ですが」
しかし、その歩調が突如として乱れた。
「……予備?」
ヨーナスはえ、と戸惑った表情を浮かべて、エルマの手元を見つめる。
そこには、先ほど彼女が盗み聞きをしながら彫り進めていた、木彫りの笛があった。
ただ、笛というには拳のような形をしていて、先端には振り回すのにちょうどよいような、絹糸を鎖編みにして作った持ち手が付いている。
ヨーナスは眉を寄せた。
「それを振り回すことで、超音波を発生させるのではないのか?」
「いえ、この緊急事態に、普通、そんなまどろっこしいことはしませんよね?」
真顔で問い返され、研究室気質の領主が「え」とまごつく。
エルマはそれを怪訝そうに眺め、それからふと上空を見上げた。
「おっと、そうこうしているうちに、だいぶ距離が狭まってきてしまいました」
それから彼女は、枯れ枝や藁が詰まれ、小山となっている部分にひょいと飛び乗ると、なぜかおもむろに眼鏡を外しはじめた。
「――おい待て、なぜそこで眼鏡を外す!?」
展開に取り残されていたルーカスたちが、はっとして問い質す。
周囲は、突如として目の前の侍女が絶世の美少女に転じたことに、ぎょっとして何度も目を擦っていたが、エルマはどこ吹く風だった。
「割れてしまいますので」
「は!?」
意味が分からない。
だが、魔蛾の接近を前にしたエルマは、詳細の説明を省くことにしたようだった。
じっと群れを見つめながら、すうっと大きく深呼吸をする。
まるで演奏家が己の愛器をそっと撫でるように、喉に軽く触れると、
――ああ……――
次に彼女は緩く両腕を広げ、歌声を紡ぎはじめた。