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26.「普通」の虫退治(3)

 ぶどう畑で、魔蛾の卵。

 それが本当なら、魔蟲をなにより厭うフレンツェル領にとっては緊急事態だ。


 ヨーナスが動揺し眉を寄せる。

 だが、そうしている間にも、次々と食堂に使用人たちが押し寄せてきた。


「大変でございます、旦那様! 少し待つようにと守衛が民に告げたところ、不安を爆発させた者たちが暴徒化し……! 屋敷の窓を割ったり、美術品を破壊したりと、手が付けられません!」

「守衛が抑えようとしましたが、かえってそれで緊張が高まり……!」

「旦那様! だめです、こちらまで民が――ああっ、こら! こちらはフレンツェル家の私的な――守衛! 彼らを止めてくれ!」


 叫ぶ彼らの背後から、暴徒化した民の一部が身を乗り出し、物を投げつけようとする。

 見る間に、食堂とそこへ続く廊下は、乱闘騒ぎになった。


「ふざけるなあ! 放せ! 放せよ……っ! おい! てめえらの主人はよ、俺たちのぶどう畑を見殺しにする気か!? ああっ!?」

「やめ……っ、落ち着いて――」

「おい! 聞いてんのか陰気領主! 魔蛾だ! 魔蛾の卵が、それもおびただしい量見つかったんだ! 枝も根もめちゃくちゃだ。どうしてくれんだ、ええ!? あんたが――あんたが、俺たちの再三の陳情にもかかわらず、なにも手を打たなかったせいだろうが!」


 暴れているのは、リーダー格の男たちであるらしい。

 声が大きく、体格も立派だ。


 目を血走らせて叫ぶ彼らに引きずられて、周囲はものものしい雰囲気をまといはじめた。


「鳴鎖を発明した神童がなんだ! 今やあんなもの、すっかり効果をなくしちまって、ただのうるさいガラクタじゃねえか! ガラクタだけ山の周辺にばら撒いて、おまえはずっとなにをしてた!? ああ!?」

「なにもしないどころか、夜な夜な魔の沼に向かっては、魔蛾に餌をやってたんだろうが! ああ? 飼ってんだろ!? 魔物と契約して、その糧をやってるんだろう!? 女一人のために、そこまで道を踏み外したのか、この野郎!」


 もはや事実と憶測とが入り混じり、すっかりヨーナスが魔と契約したことになってしまっている。

 いや、実際彼らにとっては、この事態を解決してくれぬ領主など、魔に堕ちたも同然なのだ。


 収穫祭を前にした魔蛾の襲来。

 下手を打てば、この一年分、いや、枝が回復するまでの数年分の実りが失われる。


 彼らはほとんど恐慌状態に陥りかけていた。


「なんとか言えよ! ああ!? おら、放せ! 掴んでんじゃねえよ!!」


 険しい表情を浮かべ、その場を去ろうとしたヨーナスに、守衛の拘束を振りほどいて男たちが叫ぶ。

 彼らがめちゃくちゃに振り回した腕が、壁に掛けられていた絵画や壺に当たり、あたりは一層騒然となった。


 ケヴィンは初めて目にする領民たちの怒号に呑まれ、すっかり青褪めてしまっている。

 壁越しに様子を窺っていたルーカスは、口を引き結んだ。


 ここで出ていくのは調査としては致命的だが、こうなってはもはや、誰かが制止に入るほかない。

 調査は切り上げ、彼らの前に踏み出ていくか、と、扉に手を掛けようとしたが――、


「――落ち着きなさい!」


 それよりも早く、凛とした声が一同の耳を打った。


 デボラだ。


 かつては「醜女令嬢」とあだ名され、高慢で世間知らずだったはずの彼女は、今やまっすぐに背筋を伸ばし、大きな瞳で物怖じもせずに男たちを見据えていた。


「聖なるぶどう畑の守り手が、虫ごときに取り乱してどうします! 非難より、対処を。あなた方――いえ、わたくしたちが攻撃すべきは、同胞よりも魔蛾でしょう?」


 きっぱりと言い切られ、男たちが気勢をそがれたように黙り込む。

 彼らはまじまじとデボラを見つめ、一様に困惑の表情を浮かべた。


「だ……誰だ……?」

「フレンツェル辺境伯爵が娘、ブランニュー・デボラですわ! 詳細後日! 今はとにかく、魔蛾への対処です」


 もはや慣れっことなったビフォーアフターへの驚愕をさらりと躱し、彼女はぐるりと周囲を睥睨する。 その鋭い眼差し、そして暴力的な巨乳には、見る者を精神的にも物理的にも釘付けにする迫力があった。


「あなた方の恐怖と焦燥は理解します。そのうえで、周囲への被害を防ぐべく、自らの畑を焼こうとした勇気、そして筋を違えず我が家に許可を求めに来た冷静さは、称賛されるべきでしょう」

「デボラ、様……」


 自身の恐怖に理解を示され、かつ英断を認められたことで、男たちにわずかな安堵が広がっていく。

 災害における最大の敵は、魔蟲それ自体よりも、恐怖と、焦りだ。

 デボラはこっそりと拳を握って震えを抑え込みながら、確実に彼らの心を掌握しようとしていた。


「父に代わって、わたくしが許可します。多少の犠牲はやむをえません。火器を使用し、該当の畑、および周囲半マイルに渡る焼却を――」

「ならん!」


 しかし、その指令を、ヨーナスの鋭い声が遮った。


「火器の使用は許さぬ! 魔蛾を焼いてはならん!」

「なぜですの、お父様!?」


 デボラが愕然として聞き返す。

 彼女には、とうてい父の主張が受け入れられなかった。


「魔蛾ですのよ! いくら卵とはいえ、かの存在は確実に枝を腐らせる。のみならず、そこから孵化してしまえば、たちまち周囲――いえ、領地全体の畑に、毒の鱗粉が撒き散らされるのですよ!? 今焼かなくてどうするのです!」

「――ならん! 卵を付けられた枝は、焼いたところで今更元には戻らぬ。とすれば、孵化さえ止められればよいのだ。私が該当の枝ごと撤去し、適切に処理する。そうすれば、周囲の畑をいたずらに焼く必要は――」

「卵の付いた枝を、一本も漏らさずに運び出すなど不可能ですわ! それに、卵をそのままにしておけば、親の魔蛾が引き寄せられて、またさらに卵を産みつけていく。一刻も早く、焼き払うことが肝要なのです。そのくらいご存知でしょう!?」


 デボラの反論は、もはや悲鳴混じりだった。


 なぜ父は、頑なに魔蛾への攻撃を禁じるのだ。

 これではまるで、本当に、魔蛾を守ろうとしているようではないか――。


 領民たちの手前、彼女は辛うじてその非難を飲み込んだが、しかしその努力虚しく、男たちは再び表情を険しくしはじめた。


「あんたやっぱり……」

「魔蛾の――魔の側に下ったのか……!」


 空気が、唸りすら聞こえるような緊張を帯びる。

 一歩間違えば、この場で革命すら起きそうだ。


 ルーカスは壁越しに、焦りの独白を漏らした。


「伯はなにを考えている……? 魔蛾の卵の発生を許したばかりか、それへの攻撃を認めないなど、普通ならありえない暴挙だ」

「恐れながら、殿下が介入してしまってよい場面なのではございませんか? 魔蟲への攻撃を躊躇うだなんて、門外漢の私から見ても、もはやヨーナス様は普通ではないように思いますもの」


 イレーネもまた、眉を顰めて指摘する。


 彼女もまた、男爵家とはいえ領地を治める側の人間だ。

 その責任の重さは重々承知しているし、今のデボラが感じているであろう戸惑いや絶望も、手に取るようにわかった。


 立ち聞きしていることが露見するのはまずかろうが、それよりも今は土地の安寧だ。

 恐慌を起こしかけている民にとっては、指揮慣れしている、そして王弟の権力を持つルーカスの存在は救いになるだろう。


 だが、イレーネがそうけしかけたとき、


「――そうでしょうか?」


 ひどく静かで、冷涼とした声が響いた。

 振り向けば、エルマが彫刻刀を置き――いつの間にか内職は、編み物から彫り物へと変わっていたらしい――、淡々と眼鏡のブリッジを押し上げているところだった。


「魔蛾を一刻も早く追い払いたいという、デボラ様の本能的な反応は理解しますが、かといって魔蛾に火を放つのが普通だとは、私は賛同いたしかねます」

「え?」

「というか、虫を追い払うのに火って、かなり前時代的ではございませんか?」


 意表を突かれて黙り込む二人をよそに、エルマはすいと前へ出る。

 そうして、完成品らしい笛のようなものを、先ほどまで編んでいたレースの鎖に通すと、それを首に下げ、「よいしょ」と遠慮会釈なく隠し扉に手を掛けた。


「失礼。扉が開きますよ」

「のわああああ!? どこから出てきたおまえ!?」


 いきなり絵画の向こうから現れたエルマたち一行に、領民たちが度肝を抜かれて叫び出す。

 腰を抜かした者もいたが、エルマはそれには頓着せず、ぎょっとしてこちらを見ているヨーナスに向かって一礼した。


「侍女、エルマ。僭越ながら、ヨーナス様のお考えを推察し、ここに賛意を表明いたします」

「は……?」


 いきなり支持された当の本人もぽかんとしていたが、エルマはただ、眼鏡をきらりと光らせ、頷いた。


「今のご時世、害虫駆除も省エネ、クリーン、省コスト。やはり普通、魔蛾を追い払うと言えば、火や殺虫剤なんかよりも――超音波ですよね?」

「――ちょう、おんぱ…………?」


 武器まで取り出そうとしていた男たちが、ぽかんと口を開けた。

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