22.「普通」のお見舞い(1)
「やれやれ……」
ぐったりとしたエルマの身体を寝台に横たえてやりながら、ルーカスは疲労の溜息を漏らした。
少しずつ陽光が夕闇に取って替わられる時間帯。
エルマとイレーネの二人に宛がわれた客室である。
「娘一人を寝台に運びこむのに、こんなに苦労したことはないぞ……」
ルーカスはげんなりとこぼし、静かに眠るエルマの額をこつんと叩いた。
エルマが倒れて、はや二時間ほど。
慌ててその場でエルマの脈や呼吸を確認し、おそらくは眠っているだけと当たりをつけたルーカスたちだったが――奇しくも、しょっちゅう医者にかかっているケヴィンは、意識喪失と睡眠の区別が付いたのであった――、そこからこの屋敷内に戻るまでが大騒動だったのだ。
まず、自分が原因で倒れたらしいと考えたケヴィンが、ショックでほとんど機能停止。
その場でくずおれてエルマに詫びつづけ、横ではデボラまでもが嘆きの叫びを上げた。
イレーネはさすがに二度目とあって、多少の冷静さは残っていたようだが、それでもやはり親友のことを心配するあまり、しょっちゅう背後を振り返るので、下山中なんども足を取られかけていた。
結局、そのメンバーの中で唯一平静を保っていたルーカスが、エルマを背負い、魔蛾の詰まった袋を引っ提げ、ときおり嘆きのポエムを刻みはじめるフレンツェル姉弟を叱咤しつつ、なんとかかんとか屋敷にたどり着いたのである。
結局、魔蛾が群集しているらしい沼の件は手付かずのままだ。
今日はエルマの看病に専念し、明日以降再度山に向かうほかないだろう。
ちなみに、海水でずぶ濡れだったエルマは、イレーネとデボラによって清拭と着替えを済まされたのだが、顔を真っ赤にした二人が、「このままでは新しい扉を開けてしまう……!」と部屋から飛び出してきたため、同じく着替えを済ませたルーカスが看病を代わったというわけだった。
「寝ていてまで人騒がせなやつめ。手当たり次第に誘惑してどうするんだ」
男であるのに、なぜかエルマの「守り役」として見なされつつあるルーカスは、ふんと鼻を鳴らす。
だが――たしかに、素顔を晒し、長くつややかな髪を枕に広げた少女の姿は、美女を見慣れたルーカスにすら、強く訴えかけるものがあった。
その白く小さな顔は、ほんの少しばかり青褪めているように見える。
ルーカスは、無意識に眉を顰めた。
「くじらを乗りこなし、セイレーンすら従えるというのに、なぜ草の匂いなんかで倒れるんだ、おまえは……」
たとえばアレルギーというものの存在ならば、彼は知っているし、その恐ろしさも目にしたことはあるが、エルマの症状はそれともまた少し異なるようだった。
どちらかといえば、ひどく強い酒に酩酊したような――そう、ちょうど先日、蒸留酒を呷って昏倒したときと同じである。
呂律が回らなくなり、思考がぼやけ、気絶し、その後昏々と眠る。
「……奇妙なやつ」
ケヴィンが慌てて遣いを出した主治医は、いまだ屋敷に到着しない。
ルーカスは、不安や焦りを封じ込めて、エルマのことをそんなふうに、そっと詰った。
エルマ。
不思議な少女。
常軌を逸した能力と、人とは思えぬ美貌を有し、出会うものすべてを魅了してまわる、はた迷惑な娘。
そう、認めよう。
ルーカスは、この突飛で、意外に素直で、けれどいつもどこか盛大に空回っている、びっくり箱のような少女に、惹かれずにはいられなかった。
未知のものに興味を覚える彼にとって、女とは書物のようなものだ。
麗しい表紙絵や指に吸い付く肌触り、楽し気な内容を予感させるあらすじに、心弾ませながら手を伸ばす。
この女はどんな性格なのか、どんな思考の持ち主なのかと、わくわくしながらページをめくるが、読み終わってしまえば――あらかた理解してしまえば、途端に白けた気持ちがやってくる。
しかしエルマの場合、ページをめくるたびに思いもよらぬ一面が立ち現れて、けっして彼の心を離そうとしないのだ。
今はまだ序章。
まだ引き返せる。
けれど、あともう少し踏み込んでしまえば、この少女に、のめり込んでしまいそうな予感すらあった。
「……どうしたら、おまえみたいな女ができあがるんだろうな?」
自嘲気味に唇の端を持ち上げながら、そんなことを問う。
いや、一応答えはわかっているはずなのだ。
「監獄で育てられたから」。
これまでのエルマの話を繋ぎ合わせ、そこまでは推察できる。
美貌の娼婦の娘だから美しい。
元勇者に育てられたから正義感もある。
狂戦士に鍛えられたから魔物も倒せる、マッドサイエンティストに指導されたから手術もできる、誘拐犯の影響で洗脳もできるし、詐欺師に教わったから微表情も読める――。
だが、いくら彼らに教育されたからといって、一介の少女がそこまでの能力を身に着けられるものだろうか。
(こいつには、まだなにか秘密がある――)
それは推測ではなく、確信であった。
もしかしたら、監獄まで赴けば、その秘密はわかるのかもしれない。
けれど――
(気になる女の素性を知りたいからという理由だけで、実家に踏み込む男というのも、な?)
その素性が気になる相手がいたなら、本人から聞き出すべきというのがルーカスの信念だ。
まして、エルマがなんらかの罪を犯したというのならまだしも、むしろ彼女は周囲を救ってまわってばかりである。そんな少女のことを、不用意に調べて回るというのもどうなのか。
(ヴァルツァー監獄だって、なにも全員が異能の犯罪者というわけではない。エルマに諸々を仕込んだのは、話に出てきた彼ら六人だけ。その彼らの
人はそれを、フラグと呼ぶのだが。
ルーカスはこっそりと肩を竦めてから、眠りつづけるエルマの前髪を払ってやった。
「……早く、目を覚ませ」
眠る顔は、いつまでも見ていたくなるような美しさだが、しかしやはり、起きて突拍子もないことをしでかす彼女の魅力には敵わない。
それに、まぐろと対峙できるくらい頑強な彼女が、こういつまでも眠りつづけていると、本当に大丈夫なのかと不安になってしまう――。
呼吸を確かめようと、ルーカスがエルマの口元にすっと身をかがめたそのとき、
――コン、コン
扉がノックされ、声がかかった。
「エルマさんがお休みなのは、こちらの部屋ですか?」
医者がようやく到着したのだ。
ルーカスはわけもなく動揺し、慌てて身を起こした。
「ああ、そうだ」
そうして扉を開けて入ってきたのは、ひょろりとした身を白衣に包み、分厚い眼鏡をかけた青年であった。
年の頃は、ルーカスより一回り上、といったところか。
医者、それも辺境伯爵家の主治医を務めるにしては随分と若い。
ついまじまじと見つめてしまうと、相手は委縮したのか、長い前髪で顔を隠すように俯いてしまった。
「その……早速診察いたしますので……。服をくつろげる場面もございますから、差し支えなければ……」
「あ――ああ、すまない」
青年がもごもごと告げた内容に、ルーカスははっとして頷く。
男が少女の診察に立ち会おうなど、野暮の極みだ。
「それでは、同僚の侍女を呼んでこよう」
「いえ……、時間が掛かるかもしれませんし……それには及ばないかと……」
遠慮がちに告げるので、ルーカスは「では、隣の部屋にいるので終わったら合図してくれ」と付け加えた。
そうして、眠りつづけるエルマに、思わし気な一瞥を向けてから、とうとう部屋を後にした。
「――……」
残された青年は、ふ、と静かに息をつく。
それからおもむろに、ぐるりと部屋中を見渡した。
広い寝台の横には、小ぶりの棚。
そこに置かれた、水盥やタオル、気付けの香油や、回復祈願の銀の置物。
聖水に、見舞いの花、祈りを込めた編み飾り。
窓辺にも、見る者を励ますような、明るい色の花々が活けられている。
すべて、倒れたエルマを気遣うがために用意されたものたちだ。
彼はそれらを一通り見て取ると、
「――まったく」
と呟いた。
「ここの連中は、
言うが早いか、彼は迷いのない手つきで、活けられた花から香りの強いものを選び出し、ばさりと窓から投げ捨てていく。
さらには、香油も匂いを嗅いでから、無表情で投げ捨てる。
聖水も嗅いでみて、こちらは放置することに決めたようだった。
その堂々たる態度には、先ほどの委縮した気配などかけらもない。
彼は、目を閉じて横たわる少女を見つめると、愛おしげに髪を撫でた。
「ほんとに……魔族の娘に、聖なる香りを嗅がせて看病のつもりだなんて、気が知れないよね」
そうして、分厚い眼鏡を取り外し、目にかかっていた前髪を掻き上げると、彼は小首を傾げて問いかけた。
「だいたい、普通、女の子が倒れてしまったときに必要なのは、おまじないなんかよりも、
その、少年のようないたずらっぽい笑みと、狡猾な瞳。
夕闇の迫るこの部屋にやって来た、彼の正体は――
「――そうだよね、僕の可愛いエルマ?」
ホルストであった。
お兄様、登場。
そして感想返信ですが、本日分(3月4日20時以降のもの)から再開させていただきます。
臥せっている間に感想をくださった方、ありがとうございます!そして返信できずすみません…!(血涙)