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18.「普通」の探し物(6)

 ケヴィンは四つん這いになって、恐る恐る崖の縁を覗いてみる。


 遥か遠く、めまいを覚えそうなほどの高さを誇る崖の下では、黒い波がごう、と唸りながら岩にぶつかって砕け、とてもそこに降りていく勇気は持てなかった。


「母上の、形見が……」


 命と引き換えに自分を産んだという母。

 顔すら知らない彼女と自分を繋ぐ、指輪はたったひとつの絆だった。


 そしてまた指輪は、次期領主の座を示す証でもある。

 それは唯一、病弱で発育も悪いケヴィンに対し、領主の息子たることを認め、求めるものでもあったのに――。


「――…………っ」


 生意気そうなケヴィンの瞳に、じわりと涙がにじむ。

 しかし、彼はそれを零すことはしなかった。


 ――自業自得だ。


「……僕は領主にふさわしくない、ということか……」


 代わりに彼は、幼い唇に自嘲の笑みを刻んだ。


 ケヴィンが指輪を失ったのは、ほかに武器がなく、しかも冷静さを欠いていたためだ。

 ではなぜ武器がなかったかといえば、それは彼らを助けてくれたエルマに対し攻撃を仕掛けていたからであり、なぜ冷静さを欠いていたかといえば、自分が魔蛾を呼び寄せ、しかも姉を追い詰めてしまったせいである。


 どれもこれも、自分自身のせいであった。


「……取り乱して――攻撃して、悪かった」

「ケヴィン……」


 ごし、と目じりを拭い、ケヴィンがエルマに向き直って短く詫びると、デボラは驚いたように瞠目し、ついで眉を下げる。

 ルーカスやイレーネも素早く視線を交わし、後味が悪そうに肩をすくめた。


 が。


「――謝るのはこちらのほうでございます」


 なぜだかエルマはすっとその場に跪き、深々と首を垂れた。


「私がもう少し早く魔蛾を取り押さえておけば、防げる事態でございました」

「……いや、そんなことは――」

「ございます。つい、番わせるときに効率がよいようにと、オスとメスを別の袋に仕分けながら捕獲したことで、手間取ってしまい……大変申し訳ございませんでした」

「そんなことしてたのか!?」


 ついケヴィンはぎょっと叫んでしまう。

 しかしエルマはその突っ込みは聞き流し、ぐっと軽く拳を握った。


「お詫びに、指輪を探してまいります」

「はっ!?」


 これには、ケヴィンだけでなく、一同が驚愕の叫びを上げる。

 特に、デボラとイレーネは慌ててエルマを止めにかかった。


「な、なにを仰るのですか、エルマ様! 指輪は海に沈んだのですわ!」

「そうよ、まさか海へ飛び込むつもりじゃないでしょうね!」


 人、それをフリ(・・)と呼ぶ。

 エルマはきらりと眼鏡を光らせ、頷いた。


「はい、そのつもりですが」

「馬鹿ーっ!」


 イレーネは思わず罵声混じりの悲鳴を上げた。


「あなた、あなたね! わかってるの!? 海よ!? 海なのよ!? 海は広いの、大きいの! 見つかるわけがないでしょう――ってこら! 今すぐにでも崖から飛び降りようとしない!」


 と、思い立ったら即実践のエルマが、ぽいと靴や靴下を脱ぎはじめたのを見て、彼女はいよいよ恐慌をきたした。


「殿方の前で素足を見せないの! あああっ、裾を持ち上げないで!」

「――やめろ、エルマ」


 ルーカスも眉を寄せて、エルマの腕を取る。

 彼は至近距離から、険しい顔で低く告げた。


「ケヴィンには気の毒だが、おまえが探してやる義理はない。目を覚ませ、そもそもこんな崖から飛び降りて、無事でいられるわけがないだろう?」


 苛立ちは、心配に由来するものだ。

 エルマの驚異の身体能力は知っているし、突飛な行動だって何度も目にしているが、かといってそれは、目の前で少女が崖から飛び降りようとしているのを止めない理由にはならない。


 ごつごつとした岩肌がむき出しとなった、高い崖なのだ。

 身を投じたらその場で岩の壁に叩きつけられるかもしれないし、海面から突き出た岩礁に身を貫かれるかもしれない。

 濁流に引きずり込まれ、海の藻屑となってしまう恐れだってある。


 そんな中で、どこに沈んだともしれない小さな指輪を探そうなど、狂気の沙汰だった。


「ですが、私、泳ぎには少々覚えが――」

「だとしてもだ。いいか、言っておくが、海で数百マイルも泳ぐなどというのは『普通』ではないぞ。指輪を探すためにこの海を泳ぎ切ろうものなら、たちまち『普通』のお墨付きは消えてなくなることになるが、それでもいいのか?」


 卑怯とは承知しつつも、エルマにとって一番有効な切り札をちらつかせてまで、制止する。

 エルマはちょっと顎を引き、唇を引き結んだ。恐らく、眼鏡の奥の瞳はじっとこちらを見上げていることだろう。


 ルーカスは、つくづく今、彼女が眼鏡をしてくれていてよかったと思った。

 あの美しい夜明け色の瞳で、拗ねたように上目遣いなどされた日には、「だから仕方ない、俺が代わりに飛び込もうか?」などとうっかり口走ってしまいそうだから。


「……………………かしこまりました」


 長い、長い沈黙のあと、結局エルマはそう答えた。

 ルーカスも、傍で聞いていたデボラやイレーネたちもほっと胸を撫でおろす。


 しかし、次の瞬間、エルマは思いもよらぬ言葉を放った。


「では、それ以外の方法で、指輪を探します」

「はっ!?」


 まだ諦めないというのか。

 眉を寄せたルーカスの隙を突き、エルマは腕を振り払って数歩後ろに後退する。


 いったいなにを、と見守る周囲の前で、彼女は軽く予備動作を付け――


「はっ!」


 勢いよく、崖の向こうに飛び込んだ!


「――…………っ!」

「きゃああああああっ!」


 男性陣は息を呑み、女性陣は絶叫する。

 慌てて崖に身を乗り出した彼らの視線の先で、エルマは落下しながらくるくると宙返りを決め、滑らかな入水(ノースプラッシュ)を決めた。


「あの、馬鹿……っ」

「エルマあああああっ!」

「水しぶきひとつ上げない、完璧なリップクリーン・エントリー! 痺れますわ! ってそうではなくて……エルマ様……っ!」


 約一名、完全にエルマに心酔しているデボラだけは、心配しながらもつい彼女を称える言葉を口にせずにはいられない様子だ。

 ケヴィンは、青褪めて崖下を覗き込む三人の背後から、呆然と海を見つめた。

 そして、自らも手で口を覆い、さあっと血の気を引かせた。


 崖にぶつかって砕け、飛沫を残しながら唸る黒い波。

 小舟くらいなら丸ごと海底に引きずり込んでしまいそうな、獰猛なうねり。


 今そこに、人が飛び込んだのだ。

 年上とはいえ、成人もしていない小柄な少女が。自分のために。


「――…………っ」


 ケヴィンはひゅ、と喉を鳴らした。


 なんてことを。

 なんということを。


 彼女は、自分は、いったいなんということをしてしまったのだ。


「馬鹿め、波間に落ちたわけではないとはいえ、この濁流だ、溺れない保証はないぞ……! くそっ、俺は山を下りてボートを用意する。イレーネ、おまえはそこからエルマの姿を探して、俺に向かって叫んでくれ」

「は……はい……っ!」


 イレーネは両手を組み合わせたまま、何度もこくこくと頷く。


「は、早く、エルマを引き上げてやってくださいませ……!」


 うわごとのように叫ぶのは、いつまで経ってもエルマが海上に出てこないからだ。

 深くまで沈み、それから浮かび上がってくるのだとしても、時間が掛かりすぎている。


 まさか、勢いよく入水したはいいものの、その先で溺れているのではないか。

 水面下にあった岩にしたたかに身体をぶつけたのではないか。水に棲む魔物に襲われたりしているのではないか。


 瞬時にいくつもの、恐ろしい可能性が脳裏を駆け巡り、イレーネは震えた。


「エルマ……っ、『普通』でなんかなくていいから、泳いで私たちのもとに、帰ってきて……っ」


 関節が白く浮き出るほどの力で両手を握り合わせ、祈る。

 と、そのとき――


「ああっ!!」


 横で四つん這いになり、崖下に教祖(エルマエル)の姿を探していたデボラが叫んだ。


「ご覧くださいませ! あそこ……!」


 喜色の滲む声に、イレーネだけでなく、山を駆け降りようとしていたルーカスまでもが慌てて振り返る。

 彼らの視線の先、渦巻く波の間には、


「――エルマ!!」


 波間から上半身だけを覗かせた、エルマの姿があった。


 彼女は周囲で飛沫を上げる波をものともせず、眼鏡の角度すらずらさぬまま、悠然と片手を上げている。

 そのほっそりとした手の先には、きらりと光るなにかが握られていた。


 細い鎖に繋がれた、陽光を弾いて輝く輪。

 ケヴィンの――母の形見の指輪だ。


「エルマ……!!」


 宣言通り指輪を取ったどーしてみせたエルマに、イレーネやデボラは感嘆を滲ませた叫びを上げる。

 しかしルーカスは、あることに気付いて眉を寄せた。


「…………?」


 エルマは一見、波間にぷかぷかと浮かんでいるだけのように見える。

 見えるがその実、滑らかにこちら側へと移動していた。

 いや、滑らかでありながらも、ぐんぐんとかなりのスピードで近づいてきている。


 崖との距離が縮まるにつれ、徐々に海面上に全身が持ち上がっていき、それに伴い、エルマが今どういう状態であるのかが明らかになってきた。


 彼女は、ペナントのように三角形をしたなにか(・・・)に捕まっていた。

 いや違う、ペナント状の取手を一部に持つ大きななにか(・・・)の上に立っていた。


 流木ではない。

 漂流していた舟の残骸でもない。


 なにかもっと、ぬらりと艶やかな体表を誇る、巨大で、ダイナミックに全身をうねらせている――




 くじら。


「――――!?」


 ルーカスは思わず、崖に噛りついて絶叫した。


「おまえ、いったいなにに乗っている――――!?」

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