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17.「普通」の探し物(5)

「――…………なっ」

「き、きゃあああああっ!」


 ケヴィンはぎょっと目を見開き、瘴弱のデボラは青褪めてその場に尻もちを突く。


 通常の蛾よりも二回りほども大きな、禍々しい模様を描く緑の翅。繊毛に覆われた胸部や触覚。

 そして、まるで雪のようにふわりと舞い落ちる、大量の鱗粉。


 瘴気を帯びた粉を撒き散らすそれは、まさしく――魔蛾の群れであった。


「な、なぜこんなに大量の魔蛾が……!」

「どうやら近くにあるという沼に、本当に大量群集していたようですね」


 ケヴィンが呆然として呟くと、エルマが冷静に解説する。

 その傍らで、デボラはがくがく震えながらエルマの服の裾に縋った。


「た……助けてくださいませ! わ、わたくし、過去にあの鱗粉をわずかに浴びただけで体中が腫れ、腫れあがり……っ」


 その瞳には、うっすら涙まで浮かびはじめていた。


「瘴弱でなくとも、この量を浴びれば、通常の人間とて皮膚がただれ、肺が腐るやも……針に刺されれば、即死するやもしれません……!」


 その恐ろしさ、そして見た目のおぞましさに、イレーネも震え上がる。


「そ、そんなことを言ったって、こんなに大量に来られたら、どう躱せば……!」


 だが、雲のごとく空を覆う魔蛾の群れはあまりに多く、逃げようもないのであった。


「ひとまず服で全身を覆え! 群れは俺とエルマで対処する。エルマ、できるか!?」


 ルーカスがイレーネとデボラを引き寄せ、己の上着をかぶせてやってから、鋭くエルマに問う。エルマは即答した。


「もちろんでございます」


 そうして、魔蛾の群れる宙を見つめ、なぜかすっと喉を押さえたのだが――


「ひ……っ、くっ、来るなああああっ!」


 背後に響いた幼い悲鳴に、眉を寄せ振り返った。

 見れば、まるでちょっかいを掛けるように、群れから抜け出してこちらに近付いていた一匹の蛾相手に、ケヴィンが恐慌をきたしているのであった。


 肺が弱く、ついでに言えば精神的にも脆いケヴィンは、全身を強張らせ、再び尻もちを突いている。

 過呼吸を起こしそうなほど息を乱し、その呼吸の合間に耳ざわりな罵声を飛ばしていた。


「く、来るなっ! おぞましい! 来るなあああああっ!」


 しかし、魔蛾には高い音に反応する習性でもあるのか、かえって興味を惹かれたような様子で、数匹、また数匹と、複数の魔蛾がケヴィンへと近寄っていく。


 くすんだ魔蛾の群れが、一角からざあああっと形を崩してケヴィンに襲い掛かるさまをみて、デボラが悲鳴のような怒声を上げた。


「この、馬鹿……!」


 そうして、せっかく掛けてもらった上着を蹴り飛ばし、瘴弱の身にもかかわらず立ち上がる。


「その口を閉じなさいと言っているでしょう!」


 言葉とは裏腹に、彼女は弟の身体の上に覆いかぶさった。


「姉上――」

「口を閉じなさい! しばらく息を堪えて!」


 思ってもみなかった姉の行動に、ケヴィンが瞠目する。


 が、その見開いた視線の先、デボラの背からわずか腕一本分ほどの距離に魔蛾が迫っているのを見て取り、彼はとっさに、握りしめていた指輪を投げつけた。


「来るな……っ!」


 恐らくそれは、彼が初めて、自分以外の誰かを守るために取った行動だった。


 だが、やはり錆びていたからいけなかったのか、それとも銀が魔を祓うなどということ自体が迷信だったのか、魔蛾は警戒すらしない。

 指輪の軌道に沿ってすいと滑らかに身を躱すと、群れはそのままケヴィンたちに襲い掛かろうとした。

 素早い動きとともに、鱗粉もまた舞い落ちる。


 このままでは、ふわりと揺れる魔の粉が、あるいは魔蛾の繊毛に隠された毒針が、ふたりに触れてしまう――!


 ――ざっ……!


 そのとき、一陣の風が巻き起こった。


 え、と思う間もなく、急に視界が明るくなって、ケヴィンはとっさに目を眇める。


 理由は後からわかった。

 暗雲のように空に大挙していた魔蛾が、鱗粉ごと宙から一掃されていたからだ。


「え……――!?」


 ケヴィンは呆然と呟く。

 今、いったいなにが起こったのか、目を開いていたはずなのにわからなかった。

 

 そのとき、視界の隅で、ちかっとなにかが光った気がして、彼はとっさにそちらを振り向いた。

 そこには、分厚い眼鏡で陽光を弾く、小柄な侍女の姿があった。


 彼女はなぜか――巨大な布袋をふたつ、両手のそれぞれに携えている。


「…………?」


 すっかり停止してしまった思考を、ケヴィンは、ぎぎ……と動かしはじめた。


 彼女が持っている巨大な袋。

 あれはなんだろう。

 やけに大きく膨らんで、いや、ところどころ、内側からなにか(・・・)がぶつかっているかのように、ぼこぼこと揺れ、……なにやら羽音も聞こえるような――


「――…………!?」

「エルマ様!! 魔蛾を捕獲してくださったのですね!?」


 ケヴィンが袋の中身を理解するのと、恐る恐る顔を上げたデボラが、ぱっと喜色を浮かべて叫んだのは同時だった。

 デボラはどんと弟を突き飛ばし、その場で両手を組んでうっとりとエルマを見上げた。


「ああ! ああ! 感謝いたしますわ! ありがとうございます! すごいわ、こんな、鱗粉ひとつ漏らさず袋に取りまとめてしまうだなんて! さすがはエルマエル(・・・・・)様……!」

「過分なお言葉、恐縮に存じます」


 高貴なる身分の辺境伯爵令嬢に全力で称えられても、エルマは眉ひとつ動かさない。

 淡々、としか表現できない様子で、手際よく魔蛾を納めた袋を縛り上げていた。


「さすがだわ、エルマ……! どうもありがとう! けれど、今その袋はいったいどこから出てきたの?」

「え? 普通にバッグからですが」

「……なぜそんな大きな袋を持ち歩いていたの? とか、どうしてそんな大きな袋がその小さな布鞄に収まっていたの? というのは、きっと愚問なのでしょうね……」

「え? 普通、山歩きの際には持ち歩きませんか、大きめの袋?」

「…………」


 イレーネも、最初こそ感激もあらわに叫んでいたが、相変わらずのエルマのいかれっぷりに、つい沈黙を選ぶ。

 魔蛾を閉じ込められるほど頑丈な、しかも人間用の寝袋を十人分繋ぎ合わせたくらいのサイズの袋を、それも二枚も、いったいなにに備えて持ち歩くというのか。


 ルーカスもまた一瞬遠い目をしかけたが、助かったのは事実だと頭を切り替え、エルマに呼び掛けた。


「感謝する、エルマ。だが俺にも少しくらい仕事をさせてくれ。魔蛾を袋ごと焼き払ったあとに、灰に聖水を撒くから、それを貸してくれないか。後は俺がやる」

「え?」


 しかし、責任感溢れるその言葉に、エルマはむしろ怪訝そうな様子で眉を寄せた。


「……燃やしてしまうのですか? せっかく捕まえたのに?」

「……退治するために捕まえてくれたのだろう?」

「いえ、まさか。山で生物と出会ったら、まずは穏やかに退場願って、それでもだめなら捕獲の上、ありがたく活用する方法を検討する、というのが山の掟ですよね? それに従っただけなのですが」

「おまえはどこの世界線における山の話をしているんだ!?」


 監獄における山の話である。


 頭に手を突っ込まんばかりにして叫ぶルーカスに、イレーネもまた青褪めた。


「か、かつ、活用するって、……まさかその魔蛾も飲みものにする気じゃないでしょうね……!?」

「え?」


 エルマは嫌そうに顎を引いた。


「いやですね、普通、魔蛾なんて飲むわけないではありませんか。番わせて蚕にし、繭玉を茹でて絹を作ろうとしているだけですよ」

「魔蛾の幼虫を茹でようとする発想がすでに普通じゃないわよ!」


 ついでに言えば、この友人にだけは「普通」を説かれたくないと思ったイレーネだった。


 さて、助けられたケヴィンはといえば、先ほどから唖然としたままやり取りを見守っている。

 すっかり会話に取り残されていたが、


「――ということで、ケヴィン様、ならびにデボラ様。屋敷の調理場と鍋をお借りしてもよろしいでしょうか。あと、番わせる小屋を作るための木材も」


 袋を握ったエルマがくるりと向き直り、まっすぐにこちらを見つめてきたことで、彼は我に返った。


「あ……いや、ええと……」


 返りはしたが、しかし言葉が出てこない。


 本当にこの小柄の侍女が、あれだけの量の魔蛾を仕留めたのか。

 いや、目の前で蠢いている袋を見ればそうなのだろうが、そんなことって可能なのだろうか。

 なんだか害意はなさそうだが、やはり彼女は魔性なのだろうか。

 というか茹でるってなんだ、我が家に魔蛾を持ち込むのか、鍋まで使うのか、うわその鍋二度と使ってほしくない――


 思考がいっせいに噴出し、ぐるぐると脳裏を巡る。

 結果として、押し黙ってエルマを凝視するだけのケヴィンに、デボラがそっと囁いた。


「――ケヴィン。しっかりなさい。少なくとも、エルマ様に救われたのだということはわかったでしょう? まずは、あなたも感謝を。そして、失礼な態度を取ったことを詫びなさい」

「あ…………」


 姉に言われて、ようやくぎこちなく身体を動かしはじめる。

 そのとき、無意識に手は懐に吊るしてあるはずの指輪を探り――それから彼ははっと目を見開いた。


「――――!」


 ない。


 そうだ、銀の指輪は、先ほど魔蛾に向けて投げつけてしまったのだ。

 ケヴィンは息を呑み、慌てて周囲の茂みを掻き分けた。


 地面の上には――ない。

 木の根元には――ない。

 葉の陰にも、人の足元にもない。

 指輪はおそらく、魔蛾が群れを成していた宙を通り抜け――崖の向こう側へと落ちてしまったのだ。恐ろしい波が飛沫を上げる、岸壁の向こうへと。


「ああ……母上の指輪が……」


 ケヴィンは青褪め、絶望の呻き声を上げた。

次話、エルマの探し物無双(前編)。

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