14.「普通」の探し物(2)
明くる朝。
ルーカスとイレーネ、そしてエルマの三人は、「散策」の名目で、フレンツェル領の外れ――森の奥深くにまで足を運んでいた。
広大で恵み豊かなぶどう畑から、ゆるやかに隆起していく森は、奥のほうともなると峻厳な山と表現したほうがよい。
獣道の横からは、ときおり切り立った崖が覗き、その下では、昼なお暗い色をした波が、岩肌に打ち砕かれ、飛沫を飛ばしている。
優しく恵み深い自然と、険しく脅威的な自然が緩やかに隣り合う――それがフレンツェル領の特徴なのだ。
慣れぬ山歩きに悲鳴を上げ、休憩を申し出たイレーネは、眼前に迫る崖下の光景に、ぞっと背筋を粟立たせた。
「も……森から一歩足を踏み外すともう海だなんて……この崖から落ちてしまったら――ああだめ、考えただけでゾクッとするわね」
「そうですね」
付き合いでイレーネの横に腰を下ろしたエルマは、まじまじと崖の先を覗き込み、頷く。
「実に激しい波です」
すると、さりげなく女性陣をかばうように自ら崖の側に立ったルーカスが、水で喉を潤しながら片眉を上げた。
「ほう、エルマ。おまえでも荒波に身震いするなんていうことがあるのか」
「それはもちろん。遠泳とはすなわち波との戦いです。暴れ馬のような波をどう宥め、どう泳ぎ切るのかを考えただけで、ぞくぞく来ますね」
「…………は?」
両者の会話は一瞬噛み合ったようで、その実、海溝のような深い断絶に隔たれている。
ルーカスたちが思わずぽかんとすると、エルマは懐かしむような声で続けた。
「今年こそ機会を逃してしまいましたが、遠泳といえば夏の風物詩ですよね。幼い頃は200マイルほどしか泳げませんでしたが、ときおりクラーケンやリヴァイアサンのちょっかいを躱しつつ、毎年少しずつ距離を伸ばしていったのも、いい思い出です」
「排他的経済水域まで越すのか!?」
「も、もしや、かつて食したクラーケンってまさかそこで!?」
両者がぎょっとして大声を上げる。
しかしエルマは、それも耳に入らぬ様子で、じっと崖の先の一点を見つめていた。
「あの先の、切り立った崖下の、門のような形をした岩をスタート地点に見立てて……懐かしいですね」
視線の先にあるのは、いくつかの峰を通り越した、山の頂上。最も鬱蒼とし、最も峻厳な表情を見せる、森の最奥であった。
最も高い崖を見下ろす、険しい辺境の土地。
昼なお暗く葉を重ねる木々の間からは、ほんの少しだけ、陰気な色をした建物が壁を覗かせる。
フレンツェル領の外れ、最も険しい場所――そう、そこには、大陸中の重罪人を集めた、ヴァルツァー監獄があるのだ。
「エルマ……」
遠い監獄の姿から視線を逸らさない友人に、イレーネが瞳を揺らす。
彼女は、眼鏡で素顔を隠したエルマから、それでも郷愁を感じ取り、そっと彼女の腕に触れた。
「懐かしんでいるのね。……それはそうよね。監獄とはいえ、あなたの家なのだもの。見れば懐かしくも感じるはずだわ」
「いえ、私はほとんど監獄から外出したことはなかったので、監獄の外観を見て懐かしいと思うはずはないのですが」
言われてみれば、そうである。
「――というか待て、『ほとんど』と言ったか? つまり、ときどきは脱獄していたということか? 遠泳の話も含めて、そういうことだよな?」
「それに厳密に言えば、監獄というよりは、先ほどから、このフレンツェル領を山から見下ろすたびに、懐かしさを覚えるのですよね。いったいこれはなぜなのか」
「おい、無視するな」
常識人ポジに収まりつつあるルーカスがツッコミを入れるが、エルマは首を傾げたまま頓着しない。
基本的に雇用主よりエルマに優先順位を置いているイレーネもまた、ルーカスの言葉には注意を払わず、労わるようにエルマの腕に手を置いた。
「教えてあげるわ。それってやっぱり、あなたはホームシックに罹っているということなのよ。私も初めて王都に出たときは、故郷の風景でなく、そこから連想されるすべてのものを見ては、懐かしさを抱いていたわ」
「そうなのですか」
イレーネが諭すように告げれば、エルマは素直に頷く。
そのあまりに純粋な姿を見て、イレーネは心を痛めた。
エルマ。
この万能で純粋で不思議な友人。
監獄は劣悪な環境だと聞くし、彼女の口から語られるエピソードも酸鼻なものばかりだが、それでもこの純真な彼女にとっては、監獄は故郷であり、家なのだ。
友人として、エルマを「真っ当な」環境に引き留めてやりたいという気持ちと、望む通り「家」に帰してやりたいという気持ちの、ちょうど半々に引き裂かれそうになりながら、イレーネは尋ねた。
「……帰りたいの?」
つい、無意識に友人の袖を引いてしまう。
エルマはことりと首を傾げると、小さく、
「そうですね」
と答えた。
それを聞いたルーカスとイレーネは、素早く視線を交わし合う。
罪悪感と、――ついでに言えば、エルマがダイナミック里帰りなど目指そうものなら、そのためだけに一国を滅亡させかねないという懸念を覚えたからだった。
「――ですが、今は帰れません。やはり、一度自分で決めたことである以上、皆さまから『普通』のお墨付きをもらってからでなければ」
「それは……」
相槌に悩み、二人とも曖昧に頷く。
ルーカスは一応、「今回の特命を無事こなせれば、義兄上からすぐにお墨付きがもらえるはずだ」などという慰めめいた言葉を口にしかけたが、しかしその瞬間、劇的ビフォーアフターし、エルマ信者と化したデボラの顔が脳裏をよぎり、それを引っ込めた。
着任早々、美容革命を起こして人ひとりを隷属させた人物に向かって、まさか自信をもって「無事こなせる」などの言葉は掛けられない。
というか、掛けたらそれすなわち、フラグになる気さえする。
ちなみに、昨日からこちら、デボラはエルマに濡れ落ち葉のごとくまとわりついていたが――そのせいで、結局エルマは市に出かけられなかった――、今朝一番にエルマ本人によって撒かれたため、この場にはいなかった。
「……まあ、今日こそは『普通』に過ごせるよう、頑張れ」
結局、牽制の意も込めて、無難にそう言葉を掛ける。
それからルーカスは改めて二人に向き直った。
「さて。浸っているところ恐縮だが、監獄見物は今日の主眼ではない。この先に、『デボラ沼』とあだ名される沼があるはずだ。民の噂では、瘴気すら漂う泥沼らしいが」
そう、彼は昨日収集した情報をさっそく活かし、とある場所の視察に来ていたのであった。
ルーカスがその精悍な容貌を惜しみなく発揮し、町の女性陣から聞き出した内容としてはこうだ。
フレンツェル領主ヨーナスは、昔は才気あふれ、たった十歳で鳴鎖なる道具を発明して魔蛾を追い払った神童であった。
長じて得た妻・エリーザは「フレンツェルの太陽」と呼ばれる美貌と陽気な性格を兼ね備えた女性であり、領主一家の人望は厚く、領の未来は輝いていたかに見えたという。
状況が一変したのは十年ほど前。
エリーザが息子ケヴィンの出産で命を落としてしまったことに端を発する。
愛妻家であったヨーナスは人が変わったように無口になり、妻が命と引き換えに産んだ息子のことも、まるで領民から隠すように屋敷に籠らせ、自らも距離を置くようになった。
娘デボラは瘴弱の症状をこじらせて高慢な醜女令嬢と化し、息子ケヴィンも身体の弱さを理由に、領の運営にも参加せず屋敷に引き籠もる日々。
領主一家の凋落と同期するように、畑では時折、鳴鎖に耐性を付けたらしい魔蛾の姿が目撃され、民は不安を募らせていた。
フレンツェルは王都にすら頼らぬ独立の土地。
通常なら領主に陳情し、解決を図るところだが、今のヨーナスでは到底当てにならない。
あげくの果てに、ここ数年、ヨーナスは夜になるたびにふらりと屋敷を抜け出し、森の奥深くへと向かっているのだという。
森の奥とはすなわち、魔獣が跋扈し、瘴気の漂う、魔の領域。
こっそりと後をつけていった人物の証言では、ヨーナスは領主としてそれらを始末するどころか、森の最奥にある沼で、魔蛾をその身に引き寄せながら跪いていたというのである。
周囲に魔蛾の鱗粉を漂わせ、祈るように沼に手を浸す様は、まるでなにかの儀式を行っているかのよう。
彼は死した妻の反魂を試みるべく、魔と契約を交わそうとしているのだと噂が立つまで、そう時間はかからなかった。
「魔族はとうに滅びただろう、とか、目撃者もその場で問いただせよ、といった諸々の突っ込みは正直抱かざるを得ないが、この問題の根幹は、むしろ領民の魔蛾に対する不安と見た。彼らは、魔蛾が大切なぶどうを根絶やしにしてしまわないかと心配で、その不安や不満の捌け口を、領主一家に求めているようだ」
ルーカスは冷静に分析してそう告げる。
「そして、領民の不安の源泉であり象徴であるのが、その沼だ。彼らは、領主が沼に魔蛾を飼っているのではないかとすら疑っている。とはいえ、もともと魔をなにより嫌う気質の民だ。自ら確かめにいくことも憚られ、結果憶測が憶測を呼び――と、まあこんな感じだな」
「昨日の午前中だけで、よくそこまで情報を仕入れましたね。さすがですわ」
イレーネが感嘆して告げれば、ルーカスは軽く口元を歪めて、肩をすくめた。
「お褒めにあずかり、どうも」
女癖こそ少々悪いが、結局のところ、彼というのはまじめで有能な男なのである。
ルーカスは、ちらりとエルマの方にも視線を向けてみたが、彼女からは特になんのコメントもなかったため、少しだけ物足りなそうな表情を浮かべ、再び崖の先、沼のある方角に向き直った。
「――とはいえ、俺が話を聞いて回ったのは、主には町の娘たち、つまり領民の側ばかりだ。公平を期すなら、沼を見る前に領主側の言い分も聞きだしておきたかったところだが、これは俺の手落ちだな」
ついでに彼は、職務に関することでは、自分に厳しい男でもあるのだ。
ルーカスが素早く今後の計画を頭に描きながら、
「デボラ嬢があれだけエルマに懐いたのなら、近々、彼女をこっそりこの場に呼び出すことにするか」
と呟くと、エルマがすっと立ち上がった。
「かしこまりました」
「は?」
怪訝な顔をしたルーカスをよそに、彼女はぱちんと指を鳴らす。
「デボラ様、カモン!」
するとすぐ傍の茂みがガサッと揺れ、ひとつの人影が勢いよくルーカスたちの前に躍り出た。
「お待たせいたしましたわ、エルマ様ぁ!」
デボラである。