13.「普通」の探し物(1)
深夜、ケヴィンは、喉の痛みと咳で目覚めた。
よくあることだ。
病弱な身では、昼夜の気温の変化すら堪える。
ケヴィンは喉をさすりながら、鈍い動きで寝台から身を起こした。
(ふん、主人が咳をしたのにも気づかないなんて、のろまな使用人たち)
肺の辺りにわだかまる苦しさを、苛立ちにすり替えてごまかし、罵る。
病弱なあまり、屋敷に籠って本ばかり読んでいる環境は、彼に年齢以上の語彙力と厭味ったらしい性格をもたらした。
いや、他人に対し生意気な口を利けば優位を取れると信じているあたり、むしろ幼さの証左といえようか。
さて、このまま寝台で待っていても、執事や使用人たちが水を持ってきてくれるわけでもない。
変わり者の領主と嫌われ者の姉のせいで、この屋敷の使用人は年々数を減らしてしまっているのだ。
水が欲しければ、自ら動いて使用人に声を届けねばならない。
ケヴィンはのろのろと熱っぽい身体を起こし、扉へと向かった。
なにかと倒れることの多いケヴィンの続きの部屋には、たいていの場合なら、使用人が待機することになっている。
彼らが人手不足のせいでほかの業務に当たっていなければ、水差しを持ってこられる人間がそこにいるはずだった。
(――いや、それとも、あの客人の世話に回っているか?)
ケヴィンの脳裏にルーカスの姿がよぎる。
ルーデンの誇る色男。
王弟にして、武芸に優れた精悍な騎士。
金髪の美少女を侍らせていることも羨ましかったが、それ以上に彼の頑強な身体が妬ましかった。
ルーカス王弟殿下は、色こそ多少好むものの、気さくな性格で人望もあり、身分に囚われず、方々を自由に歩き回っているのだという。
病弱令息として陰口を叩かれ、領地から滅多に外出しない自分とは大違いだ。
くさくさした思いで扉に手を掛け、しかし耳に飛び込んできた言葉につい手を止めた。
「――でね、本当にびっくりなのよ! あの醜女令嬢が、まさかこうなる!? って」
醜女令嬢。
姉のことだ。
どうやら続きの間では、侍女たちが噂話に花を咲かせているらしい。
ケヴィンはすぐに出ていくのをやめ、扉の前でじっと耳を澄ませた。
話し手の侍女の話を要約すると、デボラが今日一日で急激に痩せ、美しくなったということらしい。
なんでも本当に同一人物かと目を疑うような変貌ぶりとのことだが、ケヴィンは女特有の誇張表現だろうと内心で軽くあしらった。
同様に思ったらしい聞き手側の侍女が「またまた、さすがに言い過ぎよ」と苦笑を返す。
すると、話し手はますます声に力を込めた。
「信じてないわね? もう。あなたも明日の朝、デボラ様の部屋にお伺いしたらいいわ。そうしたらあなただって、美の使徒エルマエル様の聖なる御手にひれ伏すに違いないから!」
「なによ、美の使徒エルマエル様って」
随分と大仰な呼称だ。ケヴィンも思わず眉を寄せていると、侍女は誇らしげに続けた。
「だから、デボラ様に奇跡の御業を披露した教祖様のことよ。エルマ様に、
どうやらこの侍女は、時系列に沿って話をするのが苦手なタイプらしい。ついでにいえばネーミングセンスもちょっとアレだ。
彼女は話を、デボラがイレーネに嫌がらせを仕掛けたところまで巻き戻すと、今度こそ、デボラの身に起こった奇跡の数々と、それをもたらしたエルマなる少女の詳細について話し出した。
いわく、眼鏡の下には心臓が止まるほどの美貌が隠されている。
いわく、指の一振りで十人分の仕事をこなしてしまう技量の持ち主である。
いわく、その手が触れるとたちまち万物は生命力を吹き返し、爛漫の頃を迎えるという、聖なる御手の持ち主である――。
「もうね、すごいの。すごかったのよ。人ならざる速さで繰り出したのが、瘴気を帯びた池の藻から作り出した『コウソジュース』とかいうもので、それで新陳代謝がドーシャでアーマで、最初穏やかにもみほぐしていたかと思ったら、そこからのチャクラ開放でサットヴァなわけ。結果、傲慢でブスだったお嬢様が、たちまち清楚で美人に魔改造よ。わかる?」
「さっぱりわからないわ」
ケヴィンにもさっぱりわからなかった。
が、侍女の話の中には、看過できない情報があった。
人ならざる速さ。
瘴気。
魔――。
フレンツェルの民は、魔蛾をはじめとする、魔族の眷属との戦いの末に土地を切り開いてきた者たちだ。
魔族が滅びた今となっては、昔ほど敬虔に魔を疎む人間も少なくなってきたものの、その中枢に近い人間であればあるほど、魔に連なるもの、異質なものを排除したがる傾向にある。
ケヴィンは領主の息子として、「人ならざる」動きを見せたというエルマなる少女に、本能的な嫌悪を抱いたのであった。
古参であるらしい聞き手側の侍女も、似たような感覚を覚えたらしい。
彼女は、はしゃいでいる同僚に同調するのではなく、警戒をにじませた声で尋ねた。
「大丈夫なの、それ? お嬢様が王都からの侍女の手を借りて美人になったのだとして――あまりそれが過激すぎると、魔のものと契約でも交わしたんだ、とか噂になったりしない?」
彼女はむしろ忌々しそうに、鼻を鳴らしさえした。
「陰気で夜になるたび徘徊する領主に、高慢で引き籠りのご令嬢に、嫌味で頼りないご令息。ただでさえこの屋敷の一家は、領民から人気が無いっていうのに、そこでデボラ様が魔と契約しただなんて噂が立ったら、あたしたち、もう街に下りられないわ。天使だなんて浮かれてる場合じゃないわよ」
「そりゃ、そうだけど……」
話し手側は、ようやくそのことに思い至ったらしい。
「でも、魔族なんて現代にはいないし、それに、変貌後のデボラ様は本当にいい感じで――」
と、小さく反論しようとしたが、それよりも深刻な声ですぐに遮られてしまった。
「魔族がいるかいないかが問題なんじゃない、そういう怪しげな噂が立つってことが問題なのよ。あなたはデボラ様付きで、滅多に屋敷の外に出ないから知らないんだろうけど、領地の不満はなかなかよ。特に、最近の魔蛾対策不足については、相当な不信感を抱いてる。畑で魔蛾の卵でも見つかろうものなら、正直、一揆だって起こってもおかしくないと私は思ってるわ」
ケヴィンは静かに息を呑む。
彼はデボラよりは、少しは領地のことに関心を持っているつもりだった。
が、結局彼とて病弱であることを言い訳に屋敷にこもりがちで、外のことを十分把握できているとはいえないのだ。
ケヴィンは喉の痛みも忘れ、ぐっと拳を握りしめた。
(もしかして、ルーカス殿下はこのことを確かめにきたんだろうか――)
彼のひととなりであれば、お気に入りの娘を連れて田舎の領地に遊びに来る、というのは十分あり得たが、それでもやはり、王家と対立的な辺境の地に足を伸ばすというのには、少々違和感があった。
だがそれも、外遊を兼ねて領地の視察をしているということならば、しっくりくる。
(確かめにきた……というより、むしろ揺さぶりをかけにきた可能性もある、のか……?)
すっかり斜に構えることが習いとなったケヴィンは、目を眇めてそんなことを考える。
フレンツェルはその歴史ゆえに王都と仲が悪い。
フレンツェルの民には、魔を払いぶどう畑を守ってきたという自負と、独自のルールがあるのだ。
それを王都側が面白く思っていないことは、補助金の少なさや、領土の端に、腹いせのように建てられた監獄の存在からも明らかだった。
一方で、フレンツェルの産出する良質のワインは、近年ますます需要が高まっているようである。
(たとえば……ワイン欲しさに、領民と僕たちを不仲にさせて、その隙を突いて領地を併合してしまおう、とか)
フェリクス新王がどのような人物かはまだわからないが、先王ヴェルナーの治世では、たびたびそのようなちょっかいを出されたことがあった。
王都は、欲張りなのだ。
――もっとも、その辺りの駆け引きを、父ヨーナスはけっして息子に教えてくれようとしなかったので、ケヴィンとてその内幕を知っているわけではないのだが。
とにもかくにも、ケヴィンは拳を握る手に力を込めた。
十歳の少年なりに、いや、十歳だからこそ、自らの正義感と責任感の正しさを確信し、領地を守るべきだと決意を固めた。
(民に一揆なんて、起こさせるものか……)
すぐに病で倒れ、成長も遅い自分。
背も低く、外見では十歳どころか、八歳くらいにしか見えず、それを周囲が頼りなく思っていることを、ケヴィンは知っていた。
けれど、知恵を使えば。
同年代の少年よりかは多少秀でたこの頭脳を用いれば、民の不満をやわらげ、王都からの干渉を払いのけることだってできるかもしれない。
いや、領主の息子ならば、そのくらいできなくてはならないのだ。
(魔蛾への不安は、僕が抑える。魔だのなんだのの噂で、民の心を搔き乱したりはさせない)
まずは、ルーカスの真意を探り、牽制をすべきだろう。
いや、その前に、人ならざる動きとやらを見せて、フレンツェル家に奇妙な噂を立てようとした
なにが聖なる御手だ。
どうせ姉に取り入って、道化のような化粧でも施して少々きれいにしてやっただけのことだろう。
あの姉は、攻撃的なわりに騙されやすい性格をしているから。
ケヴィンは寝間着の胸元に手をやり、きゅっと布ごと握りしめた。
そこには、母の形見である指輪が吊るされている。
命と引き換えに、自分を産み落としたという母。
彼女の指輪は、ケヴィンにとって原罪の象徴でもあるが、それでも、この屋敷の中で唯一、彼に愛の存在を感じさせてくれるものでもあった。
――ケヴィンの周囲には、距離を置いてばかりの父親と、自分の哀れさに酔った姉と、彼を侮る使用人たちしか、いなかったから。
(距離を置いて、というよりは……憎んで、と言う方が正確かな)
布越しに感じるざらりとした肌触りに、ケヴィンはふとそんなことを思う。
フレンツェル領において、指輪は領主の証として、その母の結婚指輪を受け継ぐのが習わしであった。
出産時に命を落としたとはいえ、習わしは習わし。
指輪は埋葬されることなく、ケヴィンが物心つくまでの間、父ヨーナスによって保管され、数年前にようやく手渡されたのだが――その銀の指輪は、ひどく錆びて、刻まれた文字も読めぬ有様だったのである。
ケヴィンはそれにショックを受けた。
なにしろ、次期領主の身分を保証し、息子のなによりの財産になるはずの指輪である。
新品同様に輝いていることはないにせよ、せめて大切に保管くらいはされているものだと思っていた。
が、実際には、指輪はまるで故意に痛めつけでもしたように、錆びている。
そこに、自分に対する父親の敵意を読み取って――それでもなお、母との唯一のよすがを手元に置きたいという願いが勝り、結局ケヴィンは、指輪を指に嵌めることなく、鎖に通して胸に下げているのであった。
次期領主の証を堂々と周囲に見せられない、そのささやかな事実が堪らなく嫌で、それも手伝い屋敷の奥深くに閉じこもっていたのだが、もはやそれが許される状況ではない、とケヴィンは思った。
(明日の朝、領地の視察に行こう。それから、エルマとかいう侍女も、問い詰めないと)
父ヨーナスは、息子が人前に出たり、領主の仕事を手伝おうとするのをひどく嫌がる。
自分が今回出しゃばることで、彼は嫌な顔をするかもしれないが、知ったことか。
ケヴィンは鎖を手繰り寄せ、指輪にひとつキスを落とすと、結局水差しを頼むことはせず、そのまま寝台へと引き返した。