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9.「普通」のお手入れ(5)

 ソファに横になりながら、自堕落に焼き菓子を貪っていたデボラは、皿に突っ込んだ指がつるりとした底に触れたのに気付いて、ようやく顔を上げた。


「……やだ、からっぽ」


 いつの間に食べ終えてしまったのか。

 苛立つことが多いと、比例して間食の量も多くなる。


 未練がましく指に残った砂糖の粒を舐め取ると、デボラは短く溜息を漏らした。


「ああ、むしゃくしゃするわ」


 それは、もう四回目の独白だった。


 二度と会えないと思っていた王弟ルーカスに、なんの因果か巡り会えたのが昨日のこと。


 これは、哀れな自分に良縁を結べとの神のお導きに違いないと確信したデボラは、かといって男性の客間に単身押しかけるには恥じらいが勝ったため、とある作戦に出ていた。

 それ即ち、ものすごく早起きして、ルーカスが起きだすのを待ち伏せするというものである。


 早起きなどもう十年近くもしていない彼女が、それでも低血圧と戦って寝台を離れ、一人で着替えと化粧を済ませ、薄暗い廊下を進む。

 お目当ての部屋の隣――あの忌々しいふしだら猫の部屋――から、そっと少女が出てくるのを見つけたのは、その時のことだった。


 咄嗟に物陰に隠れて観察してみれば、自分より一つ二つ年下と見える少女は、お仕着せのメイド服をまとい、淡々とした佇まいで洗濯物を運んでいる。

 どうやら、客人という身分でありながら、洗濯を手伝おうとしているらしい。


 デボラは身分の高い娘らしく、平民侍女のその勤勉ぶりを、あら感心だこと、とあっさり受け流したが、同時に、平民侍女にだけ働かせて、己は悠々と眠っているのだろうイレーネには腹を立てた。


 これだから美人というのはいけない。

 怠惰で傲慢で、性格が悪いのだ。


 当て推量と思い込みのまま、盛大に相手のことを詰る。

 その勢いのまま、デボラはさらに想像を飛躍させた。


 あの女、イレーネはなぜ寝ているのだろう。

 もしかして、夜更かしをしたのだろうか。

 たとえば――殿下と?


 そう思うとますます怒りは募り、無意識に握った手のひらに爪が食い込むほどだった。


 腹が立つ。ああ、腹が立つ。

 美人なんて大嫌いだ。


 きれいな肌、大きな瞳、艶やかな髪を視界に入れるだけで、胃のあたりがそわそわする。

 だって、それらはそこにあるだけで、自分のことを嘲っているように見えるから。


 昨日ルーカスの恋人としてあの少女が伴われているのを見たときから、デボラは本能的に彼女への闘志を燃やしはじめた。


 美しい顔にほっそりとした肢体、王都育ちという出自。その全てが疎ましい。

 彼女たち美人は、ただ美しいというだけで周囲からの愛情を獲得し、おいしいところだけをつまみ食いしながら容易に人生を渡っていくのだ。


 そしてその嫌悪は、今朝のその瞬間にさらに激しく燃え上がり、デボラに行動を決意させた。

 彼女が嫌がらせのリストをしたためて、部屋に乗り込んで行ったのには、そんな経緯があったのだった。


「とうていこなせない量を押し付けて、ねちねち甚振ってやろうと思ったのに……ひどい計算違いだわ」


 だが、彼女の憂さを晴らしてくれるはずの嫌がらせは、実際にはまるで機能してくれていなかった。

 なぜなら、難癖を付けてやろうと屋敷内をうろついていたら、むしろ方々で、完璧な仕事ぶりを目の当たりにすることになってしまったからだ。


 彼女が向かうよりも早く床は磨かれ、花は活け変えられ、皮むきやシルバー磨きや服の整理は済まされていた。

 そしてそのすべてが、今までに見たことのない高い水準で完遂されていた。

 裏庭のドブ池までもが、青空のように澄んでいるのに気付いた時、思わず彼女は卒倒するかと思った。


(これが美人の、いえ、王都のクオリティというものなの……!?)


 いや、そんなはずがない。さすがにそれは人智の域を超えている。

 きっと屋敷の使用人が、イレーネたちのことを総出で手伝ったのだ。

 だがそうだとしたら、それはそれで腹立たしい。

 あの女狐は使用人たちを誘惑したということだし、使用人たちはデボラを裏切ったということだ。


「服を台無しにして足止めするくらいじゃ生温い、殿下があの娘の本性に気付けるように、下男をけしかけでもすればよかったのだわ」


 菓子がなくなってしまったので、デボラは苛々と爪を噛む。

 瘴気を避け、日光も浴びずに屋敷に籠り続けた結果、最近ますます体はどっしりしてきたというのに、感情はゆらゆらと揺れて、一向に落ち着かない。

 とにかくなにもかもが腹立たしくて、仕方がなかった。


 一か所に佇むことすらできず、そわそわと部屋を歩き回り、たまたま扉の前を通りがかった時、彼女はふと気になる音を耳にした。


 ガシャーン。


 なにかが割れる音。

 使用人の誰かが、花瓶でも落としたようである。


「エルマ! お願いよエルマ、落ち着いて!」


 音を追いかけるように、少女の懇願の声が響く。イレーネのものだ。


 エルマと呼ばれる平民侍女はなにかを答えたのか、わずかな間の後、イレーネの声はさらに必死さを募らせた。


「――ええ、そうね。そうだわ、あなたは落ち着いてる、その通りだわ。だから――お願い、落ち着いて! せめて眼鏡を掛けて! 髪をダサくまとめて! その顔を隠して頂戴、視界の暴力だわ!」


 ガターン!


 今度はモップを取り落としたような音がする。

 どうやら、徐々にこちらに近付いてきているようだ。


「ほら!」


 イレーネの悲壮な叫びが聞こえた。


「耐性のない人たちの呼吸と心臓に、甚大なご迷惑を掛けてるじゃないの!」


 視界の暴力とはなんなのだろう。

 文脈から察するに、エルマなる平民侍女が、イレーネの制止を振り切って、ひどい姿でこちらに向かっているということか。

 それで、その姿を目撃した使用人たちが取り乱していると?


 首を傾げたデボラの目の前で、


「――失礼いたします」


 やけに美しい声が響き、同時に扉が開いた。


「――…………っ」


 ノブに手を掛けている人物を認めた瞬間、デボラはがつんと殴られたような衝撃を受けた。


 そこには、天使かと見まごうような、美貌の少女がいた。


 結んでいた名残か、緩やかに波打つ長髪は漆黒の輝き。

 濡れた瞳は、夜明けの空を溶かし込んだよう。

 完璧な左右対称に整った小さな顔、ほっそりとした肢体に、幼さを少しだけ残しながらも、わずかな色香を漂わせた佇まい。


 肌の色が全体的にくすんでいるように見えるのだけが残念だが――いや、捲り上げた袖からちらりと見えた腕が、はっとするほどに白く透き通っていることにデボラは気付いた。


「あ……――」


 言葉を失った喉とは裏腹に、頭では目まぐるしく思考が駆け巡る。


 自分はこの少女をどこかで見たことがある。

 いや、忘れられやしない。

 彼女はまさしく、舞踏会の場でルーカスと踊っていた美少女――。


 なぜ彼女がここに、と、今更ながらの疑問が脳裏をよぎったところで、目の前の娘が口を開いた。


「デボラ・フォン・フレンツェル様。なぜあのような仕打ちをなさったのですか」


 少女にしては低めで、まるで透明な湖のように涼やかな声だ。

 すっかり魅了されてしまったように、ぼんやりと声の紡ぐ内容を反芻し、しばらくののち、デボラはようやく自分が彼女に糾弾されているのだという事実に気付いた。


 どうやらあの冴えない平民侍女の正体は目の前の美少女で、彼女はイレーネに嫌がらせをした自分に対して怒りを覚えているのだ。


「……なにを言っているのか、よくわからないわ」


 デボラは引き攣る喉を叱咤して、なんとか、しらを切った。


 呼吸が止まるほど美しくとも、相手はただの侍女、それも平民ではないか。

 自分が萎縮するだなんておかしい。


 すると相手――エルマは、すうっと剣呑に目を細めた。


「さようですか。破片に付着した指紋と、先日デボラ様の召し上がっていた紅茶のカップから検出された指紋の特徴点十二点は完全に一致。現場に残されたガウージ痕の入射角から算出するに、身長5.4フィート、体重170ポンド、平均的腕力を持った人間が5.3フィートの高さから時速32.78マイルの速さで振り下ろしたものとお見受けしますが、それでもお心当たりはないと」

「なにを言っているのか、さっぱりわからないわ!?」


 本当にさっぱりわからなかった。


 この美少女は、もしかして自分のことをからかっているのだろうか。

 だとしたら、平民の分際でなんと無礼な――


 デボラは身の内で渦巻く怯えを無理やり怒りに変換し、ぎっと少女を睨みつけた。


「な……なんなの、あなた! わたくしが花瓶を割っただなんて言いがかりを付けて、失礼じゃないの!」

「私は『花瓶』などとは一言も申し上げておりませんが」

「はう!」


 お手本のような鎌かけに引っかかってしまった。

 デボラは小太りの体をぶるぶる震わせながら口を押さえた。


 だめだ。

 どうも冷静な思考ができない。


 この、神秘的な夜明け色の瞳を覗き込んだ瞬間から、もう少しマシだったはずの、取り繕ったり嘘をついたりする能力がまるで機能してくれない。


「お答えを頂いておりません」


 すっ、と、睫毛が触れ合うほどまで顔を寄せられて、デボラは一層パニックに陥った。


「なぜ、私たちに嫌がらせを仕掛け、祭りへの参加を妨げたのですか」

「そんなの……」


 妬ましかったからに決まっている。

 相手から視線も逸らせずに、硬直してしまったデボラは、まとまらない思考の中から、一番に浮かび上がってきた言葉を口にした。


「あなたたちのような美人を見ていると、うっかり誰かをめちゃくちゃにしたくなるくらい、息苦しくなるからだわ……」


 ぽろっと溢れるようにして出てきた内容の苛烈さに、自分でも驚く。

 しかし、口にしてみると、まさしくそれが真実なのだということに気付いて、デボラは熱に浮かされたように続けた。


「美人っていいわよね。それだけで愛されて、恵まれて、人が寄ってくる。ただ顔が、皮膚一枚の美醜が違うからというだけで。そんな不公平って無いわ」


 そうだ、そうとも。

 デボラはずっとそれが不満だった。


 騒動を聞きつけ、今更ながら部屋に駆け付けてきた侍女たちを視界に入れながら、彼女は思った。

 あの侍女たちも、もし自分がこの娘くらいに美しければ、競って側にいたがっただろうに。


「ひどいわ。わたくしのなにが悪かったというの? 醜いのはわたくしのせいだと? 仕方ないじゃない、瘴弱なのよ。全身が浮腫んでいるのも、肌や髪が荒れているのも、顔色が悪いのも、全部体質のせいよ。この領地に漂う瘴気がいけないの。なのにあなたは、そんな哀れなわたくしを責めるの?」


 デボラとて幼い頃は、フレンツェルの太陽と呼ばれた母に似て、なかなかに愛らしい少女だったのだ。

 しかし、ある日領内のぶどう畑で、たまたま瘴気を放つ魔蛾に触れ、三日三晩寝込み、ぱんぱんに全身が腫れ上がった。

 以降、肌も髪もスタイルも、徐々に徐々に、理想とはかけ離れていってしまったのだ。


 ああ、哀れだ。

 実に、実に、哀れだ。


「だいたい、あなたたちに配慮が足りないからいけないのよ。可哀想なわたくしは、瘴気を恐れて、風がない日にしか町を出歩けないというのに、来て早々楽しく殿方と外出しようだなんて、無神経だわ!」


 じっとこちらの話に耳を傾けているらしい相手に、デボラは自説の正しさを確信し、ますます熱を込めた。


「そうよ、あなたたちがいけないのよ! 傲慢で、無神経なあなたたちの仕打ちに比べたら、わたくしのしたことがなんだというの? せいぜい男爵家の娘の服を濡らしたのと、ああそうね、みすぼらしい花冠も壊したかしら――」

「――口を閉じなさい、このお肉」


 唐突に放たれた衝撃の罵倒に、デボラは文字通り硬直した。


「――……お、にく……?」


 少女の背後では、侍女たちがばっ! と口元を覆い、我慢大会を始めている。


「――ぶっ……! ちょ、エ、エルマあなた、そんな言い方……!」

「はい。腹立ちを言語化するにあたり、口汚い言葉の使用も検討しましたが、なにしろ私は落ち着いておりますので、婉曲に相手を非難する表現を選択してみました」

「結果最高にクリティカルな言葉選びになってるわよ!」


 イレーネが目の前の少女を窘めてくれているようだが、それすらも耳に入らなかった。

 呆然と立ち尽くしているデボラに、美貌の少女はぐいと顔を近づけ、囁いた。


「デボラ様の主張を要約しますと、ご自身は瘴弱――つまり、魔に弱い体質のせいで不美人なのであり、かつ不美人は美人に嫌がらせを仕掛けても当然ということですね?」

「あ……う……」


 なにか。

 なにかを言い返したい。


 しかし、先ほどの暴力的な発言と、この暴力的な美貌を前に、体はすっかり麻痺してしまったようだった。

 少女の神秘的な夜明け色の瞳を見つめていると、頭の芯が痺れ、言葉がどろりと溶けてしまうような感覚さえ抱く。


「よろしい。ならばその主張、根底から覆して差し上げましょう」


 美貌の少女が、きっぱりと言い切った。

 それから彼女は、すっと細い両腕を持ち上げ、手を組むと、おもむろに骨を鳴らしはじめた。


 ――ごきっ! ごきゅごきゅごきゅっ!


「ひっ……!」


 まさか、自分に向かって手を上げようというのか。

 咄嗟に腕で顔をかばったデボラだったが、その予想は外れたようだ。


 なぜなら、


「これより、デボラ・フォン・フレンツェル様の、トータル・デトックス・トリートメントを開始します」


 彼女はそんなことを言って、なぜだか眼鏡を再び装着しはじめたのだから。

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