7.「普通」のお手入れ(3)
「屋敷での雑用を手伝え、ですって?」
明くる朝。
ルーカスの領地視察のカムフラージュという役目も忘れて、しっかり食事を頂き、しっかりエルマとの枕投げまで楽しんだイレーネは、着替えを済ませるなり告げられた言葉に、猫のような目を見開いた。
「いいえぇ、手伝いだなんて。あくまで、王城で磨いてきたという侍女の腕を、わたくしの屋敷の至らぬ使用人たちに披露して、『指導』していただきたいだけよ」
曲がりなりにも客人の部屋に、朝っぱらから踏み入ってきたのは、誰あろうデボラである。
彼女は、朝早くにルーカスが馬を駆って出かけたことを察知するや否や、それまで辛うじて保っていた愛想すらかなぐり捨てて、こうしてイレーネたちのもとに乗り込んで来たのだ。
デボラはそのむくんだ顔に、意地悪な笑みを浮かべて続けた。
「ねえ、これってあなたのためでもあるのよ? だって、いくら殿下が遊び人とはいえ、未婚の娘と二人きりで外泊したって、ちょっとまずいんじゃないかしら。おっと、そこの眼鏡が一緒だとはいっても、そんなの、言い訳にもならないでしょ。ここであなたが侍女としてちゃんと働いている姿が見られれば、周囲もきっと安心するわ。『ああなんだ、単に使用人として連れてきたのか』ってね。要は、カムフラージュってこと」
実際のところ、ルーカスとイレーネの恋人設定こそがカムフラージュであるのだが、まさかそれを説明するわけにもいくまい。
なんとリアクションしたものかと、イレーネが一瞬躊躇ったのを、怯んだと取ったのか、デボラはますます唇を釣り上げた。
「ねえ、わたくし、一生懸命考えたのよ。あなた方――王都からの侍女ならば、きっとこれくらいのことは朝飯前だろうって。ほら」
そう言って彼女が突きつけてみせたのは、「お願いリスト」と題された一枚の紙だ。
そこには、豆拾いから洗濯、床掃除など、とうてい客には頼まぬような業務がこれでもかと書かれている。
さっと視線を走らせたイレーネは、次に顔を上げると、真っすぐにデボラを睨みつけた。
「お断りします。泊めていただく以上、なんらか恩義は返したいところだけれど、これって度を超しているわ。私たちは、この後感謝祭の市に出かける予定なのです。どうしてもと仰るなら、殿下をお通しくださいませ」
気の強い彼女らしく、きっぱりとした態度だ。
しかし、身分が下の者には強く出るタイプのデボラは、ふんと鼻白んだ様子で言い返した。
「まあ! 市にですって? 殿下とデートでもされるのかしら。寝泊りする部屋を貸している領主の娘の、ささやかなお願いをも差し置いて? それが昨今の王都の侍女、いえ、男爵家の娘の態度ということかしら」
「そんな、王都だとか男爵家だとかは、今は関係――」
「関係大ありよ。なるほど、ノイマン男爵家の娘は、フレンツェル辺境伯の娘を軽んじているというのね!」
「いえ、ですから――」
イレーネが努めて冷静に言い返そうとするのを、デボラは高慢かつ大仰な言い草で封じていく。
身分差まで持ち出してくるデボラに、傍らに控えていたエルマが思わず身を乗り出すと、それよりも早く、デボラ付きの侍女が、こっそりとエルマに話しかけてきた。
「ごめんなさいね。お嬢様ったら、お客様があんまりに美人だから、嫉妬しているのだわ」
「嫉妬、ですか?」
「そう。なにぶん、あのご容姿でしょ? ご自身がブスだということはわかってて、そのくせプライドだけは人一倍高いから、よくああやって、見目がいい女の子に突っかかったり、嫌がらせをしたりするのよ。おかげで、若くてかわいい使用人は皆辞めてしまったわ」
まあ、今はちょうど収穫の最盛期だし、その子たちの家族は助かってるでしょうけど。
そうこぼす侍女は、確かにエルマたちの母親くらいの年代だ。
領主の娘付き、ということは、侍女の中でもリーダー格に近い存在なのだろうが、そんな彼女が主人を「ブス」と断言しているあたり、この屋敷における雇用者と被雇用者の関係は、かなり破綻しているようだった。
「逆らえば逆らうほど悪化するし、あれでなかなか悪知恵は働くから、大人しく従っておくのが身のためよ。手伝ってあげられたらいいけど、ごめんね、正直こちらも人手が足りなくて。適当にやり過ごしてくれればそれでいいから」
侍女は、エルマが同じ平民の出と見込んでか気安く話してくる。
それでも、この状況に手を差し伸べるつもりは無いようだった。
本来人のよさそうな彼女の顔には、主人に対してすべてを諦めきってしまったような、冷え冷えとした表情が浮かんでいる。
視線の先では、たるんだ顎を震わせながら、いよいよデボラが語気を強めてイレーネを詰っていた。
「ああ、最低。本当に最低だわ。ノイマン男爵家がどのようなものかは知らないけれど、このようなふしだらな娘を育て上げるくらいなのだから、お察しよね。王城で侍女を務めているからって、お高く止まって。辺境の地では、哀れな同年代の娘のために、その技術を披露することすら惜しいとでも?」
「ですから――!」
「かしこまりました」
とうとうイレーネが、苛立ちを前面に出して反論しようとしたとき、差し水をするように、凛とした声が響いた。
少女のものにしては、ほんの少しだけ低い、耳に心地よい響き。
エルマだ。
眼鏡姿の冴えない侍女――のはずの彼女は、やけに美しい姿勢で、デボラに告げた。
「僭越ながら申し上げます。先ほどデボラ様は、『あなた方、王都からの侍女』と仰いましたね。つまり、これはイレーネに対する嫌がらせなどではなく、あくまで私ども――私とイレーネ二人の日頃の働きぶりを見てみたいと」
「……ふ、ふん。先ほどからそう言っているじゃない」
もちろん眼鏡侍女のことなど眼中になかったデボラだが、エルマの放つ気迫に圧され、辻褄を合わせるために頷いた。
「もちろん、あなたたち二人にお願いしているつもりよ。まあでも、どちらかといえば、あなたは別にどうでもいいっていうか――」
「では、私とイレーネの二人で、さっそく取り掛からせていただきます」
「は?」
低姿勢ながらきっぱりと言い切ったエルマに、デボラは怪訝そうな視線を向けた。
「なんですって?」
「ですので、豆拾いに床磨きに洗濯、花瓶の花の差し替え、野菜の皮むき、ベッドメイク、化粧瓶の補充に水差し交換、ランプの煤取り、シルバー磨きとクローゼットの整理まで済ませました上で、市に出かけさせていただくことにします」
膨大な量の仕事を、メモを見ることすらせずに諳んじられ、デボラはその隈の目立つ目を大きく見開いた。
「え?」
「いえ、お気になさらず。さして時間はかからないと思いますし、宿泊の恩を労働で返すというのは、古典や童話でもしょっちゅう描かれる、実に『普通』なことだと思いますので」
「え?」
淡々と告げられた内容に、デボラが戸惑う。
しかし、彼女はそれを単なる強がりと捉えたのか、やがてふんと鼻を鳴らした。
「あらそう。さすがは王都からの侍女ね。今日一日でどこまで済むか、楽しみにしているわ」
そうして嫌味にも、
「ちなみに今日は、市の開始を記念して、評判の大道芸団が来る予定だけど。まあきっと、昼前までには終わってしまうでしょうから、あなた方には関係のないことね」
そんなことを吐き捨て、踵を返す。
デボラ付きの侍女も、こっそりとこちらに向かって肩をすくめて、去っていってしまった。
後には、エルマと、いまだ憤慨したままのイレーネだけが残された。
イレーネはその猫のような目をきっと釣り上げ、両手を広げた。
「あれが誉ある辺境伯のご令嬢だなんて、信っじられない! もう、エルマ! どうしてあんな理不尽な命令を受け入れてしまうのよ! さすがにあれが嫌がらせだということくらいはわかったでしょう!?」
どうやら、デボラに対してだけでなく、彼女にあっさり従ってしまったエルマに対しても苛立っているらしい。
ぷりぷりと怒りを露わにする同僚に、エルマはことりと首を傾げた。
「いえでも、イレーネも出会った頃の様子はあんな感じでしたよね」
「うっ」
「それに、理不尽というにはささやかすぎる要望ですし、怒るほどではないというか。私一人でも数十分で片付く案件だと思います」
「えっ」
イレーネは、己の過去の所業に顔を強張らせたり、相手の突き抜けた能力にドン引きしたりと忙しい。
ひとしきり懊悩した後、イレーネはちょっと拗ねたようにエルマに告げた。
「……ねえ、私、あなたのそういう能力の高さだとか、意外にも図抜けた寛容さを心底すごいとは思うけど、ちょっと心配でもあるわ」
「心配?」
「そうよ。いくらあなたにとっては問題のないことでも、客観的に見て理不尽であるなら、あなたは腹を立てるべきだわ。躱してしまえば、相手は肩透かしを食らうだろうし、あなたも楽なのだろうけど、あなたが搾取されている事実に変わりはないもの。そういうのには、ちゃんと怒って、抗わなきゃいけないわ」
怒って、抗う。
不思議そうに繰り返したエルマの頬をぎゅっとつまみ、イレーネは続けた。
「私に売られた喧嘩を、あなたが大人しく買ってしまってどうするの。私を庇おうとしてくれたのは嬉しいけど、それなら一緒に、ちゃんと怒って。ほら、速やかに復唱! 『ぷんぷん』!」
「ふんふん」
エルマが頬を引っ張られたまま素直に従うと、イレーネはようやく手を離した。
「今日はこのくらいで勘弁してあげましょう。……ありがとうね、エルマ」
最後にちょっと顔を逸らして付け加えるあたりが彼女らしい。
イレーネは短く息を吐き出し、気持ちを切り替えると、きびきびと外着――町に下りるからと、珍しく私服を着ていたのだ――からメイド服へと着替えた。
「エルマ、悪いけど本当に手伝ってくれる? 私とあなたで業務を分担しましょう」
そう言ってぐるりと部屋を見回し、窓際に飾られた花瓶を見つける。
まずは花の取り替えを、と、それに手を伸ばし、そこで彼女は悪戯っぽく目を輝かせた。
「そうだわ」
活けられていた秋の花を何本か取り出し、くるくると器用に輪っかに編み上げていく。
あっという間に二つの花冠が出来上がった。
「これは……?」
「収穫祭の時期に女の子が付ける花冠よ。本当は、専用に使う花があるのだけど、代用」
イレーネが上機嫌に告げると、エルマはまじまじと花冠を見つめた。
「これを付けると防御力が向上する、といったアイテムではなさそうですね。祭りの王者を明確化するツールですか? それとも、着用者の興奮を盛り上げる、向精神作用があるとか」
「……その中では、最後がまだ近いかしらね。豊穣の女神の象徴たる花を髪に挿したり、冠にして身につけることで、お祭り気分を盛り上げるのよ」
「なるほど」
さほど興味なさそうに頷いていたエルマだが、
「仲良しの友達は、こうして同じ花で冠を作ったりするの。友情の証のようなものね」
とのイレーネの補足に、少しだけ顔を上げる。
そして、
「――そうなんですか」
思いのほか慎重な手付きで、イレーネが掲げた花冠をひと撫でした。
恐る恐る、といった様子で匂いまで嗅いでから、ぽつんと、
「いい匂いがします」
と、ちょっとはにかんだように呟く。
「……ま、作業中に花冠をするわけにもいかないし、一旦この棚の上に置いておくとして」
エルマにつられて気恥ずかしくなったらしいイレーネは、そそくさと花冠を棚の上――先ほど脱ぎ畳んだ外着の隣に置くと、今度こそぐるりと肩を回した。
「さあ、ちゃきちゃき働きましょ。昼前には出発するわよ! まずはこの部屋の床磨きを――って、きゃあ!」
気合を入れて宣言した途端、ぶわりと巻き上がった風に悲鳴をあげる。
咄嗟に顔を庇ったイレーネが、おずおずと腕を下ろすと、目の前にはぴかぴかに磨かれた床が出現していた。
「――…………!?」
「こんな感じでいかがでしょう」
風を巻き起こした犯人は、どこからか、いつのまにか取り出したモップを片手に、くいと眼鏡のブリッジを押し上げている。
分厚いガラスと、滑らかに磨き上げられた床が、まっさらな陽光を浴びてきらりと光った。
「少々気合を入れて、ニス塗装加工にしてみました」
「なにそれ!?」
のっけから大いに想定速度と質を上回る仕事ぶりに、イレーネはぎょっと目を剥いた。
シフトこそなかなか重ならないものの――なぜなら、エルマは大抵単身で業務をこなしているから――、この同僚の仕事の速さは方々で噂されている。
それをしょっちゅう耳にしているイレーネは、エルマの万能ぶりを、この数ヶ月でよくよく理解しているつもりだった。
つもりだったが――、人伝てに聞くのと実際に目にするのでは、衝撃が段違いだということを、彼女は思い知った。
「さ、さすがね……。じゃ、じゃあ、私はリネンを洗濯に出してこようかし――」
「あ、柔軟仕上げにしたのですが、外干しと内干しどちらがいいでしょうか」
「いつの間に!? じゃ、じゃあ、私は皮剥きの手伝いのほうに――」
「こっそり皮の残りを使ってチップフライにしてみたのですが、いかがですか」
「だからいつ!? はっや! そしてうっま!」
瞬く間にあらゆる業務が、しかも完璧を超越した水準でこなされてしまい、イレーネの出る幕がない。
呆然としていると、エルマはこともなげに、
「実は少々早く目が覚めてしまったため、イレーネが寝ている間にこっそりと、自主的なお手伝いをしておりました」
と告げた。
イレーネは、デボラが残していったメモを慌てて辿り、なんとか自分のできそうなミッションを確保する。
「わ、私にも少しくらいやらせてよね!」
そうして、部屋を飛び出して屋敷中の花の交換を済ませ、次に廊下でエルマとすれ違った時には、彼女は既に十近くの作業を完了させていた。
「こちらは花の差し替えが完了したわ。エルマは?」
「お陰様で豆拾いにベッドメイク、化粧瓶の補充とランプの煤取り、シルバー磨きとクローゼットの整理が完了しました」
「いい加減、神がかってるわよ……!」
「ついでに、池に虫が湧いていたようなので、浚っておきました」
「だから神かよ!」
動揺のあまり、ついイレーネの口調が乱れる。
ふと見渡してみれば、領主一家の人となり同様、どこか陰気な佇まいであった屋敷内が、いや、庭の池までもが、どこもかしこも美しく輝いていた。
「眩しい……!」
「恐縮です」
エルマはあくまで淡々としている。
これにて、無事に彼女たちの突発的業務は完了したわけだった。
いったいどんな奇跡を起こせばこんなに早く仕事をこなせるというのか。
同僚の肩を揺さぶって全力で問いただしたい気もしたイレーネだが、しかし実際にやり方を教えてもらったところで、とても再現できまいと冷静に判断する。
彼女は再度意識的に気持ちを切り替え、エルマとともに部屋に戻った。
「ありがとう、エルマ。これだけ済ませれば、さすがのデボラ嬢も私たちの外出に文句なんて――」
勝ち誇った笑みとともに、ドアノブに手を掛けたが、
「――……なにこれ」
しかしイレーネは、そこで言葉を失った。
なぜなら、窓際に生けなおしたはずの花瓶が倒れ、粉々になって床に散らばっていたからである。