5.「普通」のお手入れ(1)
デボラ・フォン・フレンツェル辺境伯爵令嬢は、侍女に呼ばれ、不機嫌そうに寝台から身を起こした。
閉まっていたカーテンが開けられ、広く取られた部屋に真っさらな朝陽が降り注ぐ。
大地を温め、命を育む神聖なその光は、しかし同時に容赦なくデボラの顔立ちも明らかにしてくるので、彼女はいつもの習慣で、鏡に映り込む自分の姿からさっと目を逸らした。
「……着替えは自分でするわ。さっさと出ていきなさい」
低い声で侍女を追い払う。
彼女たちもデボラのそのような態度にはすっかり慣れているのか、無表情でひとつお辞儀をすると、さっさと部屋を去ってしまった。
この屋敷の使用人は、領主の娘に丁重に接してくるが、その顔や触れる手指はいつも冷たい。
デボラはふんと鼻を鳴らすと、のろのろとドレスに着替え、それから眉を寄せて鏡に姿を映した。
艶もなくパサついた麦わら色の髪に、だらしなく緩んだ肢体。
茶色の瞳は泥のように濁り、荒れた肌は青白く、顎の肉は重そうに垂れている。
いかにも不摂生と怠慢な性格を感じさせる、いつもの、「醜女令嬢」の姿だ。
デボラは忌々しげに舌打ちを漏らした。
「――……だって仕方ないじゃない、屋敷から出られないのだもの」
この姿を見ると、いつも思う。
なんて自分は不幸なのかと。
フレンツェル領は、かつて魔族が栄えていた時にもその干渉を退け、今も、豊かな自然に惹かれてやってくる魔物や魔蟲と戦いながら神聖な酒を作る、誇り高い土地。
魔に連なる者と長く渡り合って来た彼らは、自然と他の地の住民よりも、強い魔への耐性を身に付けた。
ぶどう畑の守り人には、魔獣の爪毒も届かず、淫魔の誘惑も効かぬという逸話も数多く残る。
その領主たるフレンツェル家は、とりわけ魔に強く、果敢で聡明な者が多かったが――しかし同時に、まるでその反動のように、魔に耐性を持たぬデボラのような子どもが、時折産まれてしまうのである。
瘴弱、と呼ばれるそれらの子どもたちは、文字通り、魔の発する瘴気にいたく弱かった。
デボラもたとえば幼少時、ぶどうの葉にかすかに残った魔娥の鱗粉に触れただけで、三日三晩高熱に魘されたりしたものだ。
魔族が滅び、すっかり魔の気配が薄まったかに思われる現代となっても、このフレンツェルの地には、未だ魔獣の類が跋扈する。
彼らが発する瘴気、ときどき風に乗って漂ってくるそれに大層弱いデボラは、だから滅多に外出もできないのであった。
「ああ、お母様が生きていてくだされば、きっと不憫なわたくしを可愛がってくださったのに」
ぱっと鏡から踵を返し、彼女は嘆く。
不幸だ。
まったくもって不幸だ。
そんな想いが渦巻いて、胸が苦しくなってきたため、デボラはベッド横の壺から砂糖菓子を摘み出し、頬張った。
甘美な菓子は心の安定剤だ。寝起きで苛立っていた哀れな彼女の心を宥め、そっと包み込んでくれる。
ごそごそと続けていくつかを取り出しながら、デボラはどさりと寝台に腰かけた。
ああ、不幸だ。
理解者を、優しく慰めてくれる母を早くに失ってしまったから、自分はこうして一人寂しく、甘味で心を慰めている。
彼女の母エリーザは、弟ケヴィンの出産時に命を落としてしまったのだった。
フレンツェルの太陽とも呼ばれていた、朗らかで可憐だったエリーザ。
彼女を失ってから、この家は実際、すっかり日を翳らせてしまった。
聡明な領主として、そして愛妻家として敬意を集めていたらしい彼女の父親ヨーナスは、家族の前ですら滅多に話さなくなり、自室に籠り、あるいは夜中にふらりと領内を徘徊している。
母が命と引き換えに産んだ弟は、瘴弱ではないが病弱で、しょっちゅう寝込んでは性格を拗らせているし、自分の身体は瘴気を溜め込んでご覧の有り様。
陰気で、不健康で、不健全な領主一家に注ぐ領民からの眼差しは冷たく、デボラはこの土地で日々を過ごすというただそれだけで、多大な苦痛を強いられているのであった。
「ああ、ずっと王都にいられたら、どんなにかよかったのに……」
唇の端についた砂糖を拭いながら、デボラはそんなことを呟く。
先日、新王即位の舞踏会に参加するために、初めて赴いた王都。
建物はどれも壮大で、空気には瘴の気配のかけらもなく、見るもの全てが美しかった。
とりわけ――
「ルーカス王子殿下……いえ、もう王弟殿下とお呼びするべきね」
うっとりとしながら、デボラは今度は飾り棚に向かい、そっと引き出しを開ける。
そこには、王都で流通していた王弟ルーカスの姿絵が収まっており、彼女は愛しげに何度もそれを撫でた。
ルーカス・フォン・ルーデンドルフ。
武勇に富んだ騎士にして、次々と女性を渡り歩く、ルーデン一の色男。
舞踏会で目にしたその精悍な男ぶりに、デボラはすっかり心を奪われてしまったのであった。
「ダンスも華麗で……相手を巧みにリードしていて……本当にいるのね、あんな殿方が」
本当にいる、といえば、相手役を務めていた少女の美貌にも度肝を抜かれたものだったが。
やはり王都、あれほどの美丈夫や美少女も、平然と存在しているのであろう。
引き換えデボラなど、初の王都、初の舞踏会にすっかり逆上せてしまい、彼らのダンスが一区切り着いた時点で早々に、宛てがわれた部屋に帰ってしまっていた。
そういえば、その直後に侯爵が、ルーカス王子暗殺未遂という大罪を犯したかどで捕まったのだったか。
デボラは政治に疎いし、ついでに言えばその手の事件を細かに教えてくれる同郷の使用人にも恵まれなかったので、そんな曖昧な理解にとどまっていた。
(なんでも、毒を使って弑そうとしたのだっけ? お労しい王弟殿下! でもそれを、相手の娘が庇ったとかなんとか……あら、ということは、その娘は無事だったのかしら)
とかくルーカスの身の方が気掛かりで、彼が無事ということだけ確認したら、後の情報にはまるで注意を払っていなかった。
もしや身代わりに毒でも受けていたり、などと今更首を傾げたデボラだったが、少し考えた後、意地悪く唇の端を釣り上げた。
もしそうだったらいい。
美人で、王都住まいで、舞踏会では王族の相手も務めるだなんて、あまりに恵まれすぎている。
そのうえ危機を男に救われたりなんかしていたら、デボラは嫉妬でどうにかなってしまう。
あの少女も、少しくらい世の辛さを知ればよいのだ。
「いい気味。神様が、わたくしの代わりに釣り合いを取ってくださったのだわ」
デボラはそう嘯いて、今度は窓際に近付いていった。
大きく取られた窓からは、フレンツェル領の誇る広大なぶどう畑が見える。
なだらかな丘陵、抜けるような青い空、豊かな森。
この土地には、自然の美がすべてある。
同時に、醜さも。
「……今日は、あのおぞましい沼からの風は吹いてこないといいけど」
豊かな森の中には沼があり、さらにその先――斜面を登った先には、切り立った崖と海があった。
沼はすっかり瘴気に汚染されて濁り、崖のへりには「この世の地獄」と称される監獄が建っている。
そのどちらもが、フレンツェルの住民の心に暗い影を落とす存在であった。
ただ、瘴弱のデボラにとっては、両者のうちなら沼のほうが問題だ。
そこでは魔蟲がうじゃうじゃと繁殖し、腐臭と瘴気を充満させている。
ふと、デボラは自嘲的に唇を歪めた。
おぞましく醜いその沼のことを、使用人たちが自分の名前を重ねて、「デボラ沼」と称していることを、思い出したからだ。
「……ひどいわ。ひどすぎる。みんな、消えてしまえばいいのに」
不幸だ。
実に実に不幸だ。
神様はまったく仕事を怠けすぎている。
かの存在が真に慈愛深き存在ならば、美しいというだけで持て囃されるすべての女たちに罰を下し、哀れなデボラにルーカスとの縁を用意すべきだ。自分ならばそうする。
しばらく頭の中で、美少女をいたぶったり、ルーカスに口説かれたりする空想を弄んでいたデボラだったが、やがて溜息をついた。
とはいえ、この辺境の地。
まかり間違っても、王弟ルーカスと自分が言葉を交わす機会など、ありはしない。
そう思っていたのだが――
「――…………?」
ふと、見下ろしていた窓の外に、みすぼらしい馬車が停まったのを認めて、デボラは目を瞬かせた。
この屋敷に、見覚えのない馬車がやって来ることなど、珍しい。
(仕立てこそみすぼらしいとはいえ、……車輪の音は滑らかだったし、馬は随分立派だし……、あえて貧相に見せているのかしら?)
なんとなく気になり、窓に額をくっつけて検分する。
馬車から滑らかに、小柄で地味な侍女が出てきた後――それは激しくどうでもいい――、続いて地上に降り立った人物を見て、彼女は思わず声を上げそうになった。
「――…………!」
板に着いた仕草で、金髪の美少女の手を引き、馬車から下ろしてやっている、その人物。
豊かな黒髪に、精悍な顔立ち、しなやかな長躯。
なぜか質素な商人風の衣服に身をやつした――ルーデン一の色男、ルーカスであった。