1.ゲーム開始
「――【貪欲】。ねえ、【貪欲】ったら」
優雅な声に繰り返し呼ばれ、ホルストはゆるりと瞼を押し上げた。
「――…………」
豪華なシャンデリアに、贅を凝らしたタペストリー。
繊細な細工を施した大テーブルと、完璧に配置されたティーセット。
なんの変哲も無い、いつもの「
ホルストが、くぁ、とひとつ欠伸を漏らすと、斜め向いに座っていたその女性は呆れた声を上げた。
「んもう、せっかく珍しく【怠惰】が紅茶を淹れてくれたというのに、冷めてしまってよ?」
ネグリジェのようなドレスをしどけなく着崩し、艶のある銀髪を肩に流した、美貌の女性。
傾国の元娼婦にして、この監獄の女王、ハイデマリーである。
「よいのですよ。本日用意したハニッシュは、冷えても美味しい銘柄ですから」
今日も今日とて、名家の執事のような出で立ちをした元詐欺師・【怠惰】のモーガンは、穏やかに笑みを刻む。
その横では、彼らの仲間たちが、すでに思い思いの格好で紅茶のカップに口を付けていた。
「なぁに? また徹夜で実験でもしてたの?」
細く整えた眉をからかうように上げてみせたのは、洗脳を得意とする元誘拐犯の【嫉妬】・リーゼル。
「なにやら、不穏な寝言が漏れていたが」
ハイデマリーの隣で足を組み、印象的な蒼い瞳を興味深そうに向けてきたのは、元勇者の【憤怒】・ギルベルト。
そして、会話に特に加わることなく、ひたすらスコーンにクロテッドクリームを塗りつけて貪っている巨漢が、【暴食】のイザークだ。
「……いや、ちょっと。十年くらい前だったかな。【暴食】を焼き殺してやろうかなと思った出来事を思い出してたみたい」
「む?」
エルマ迷子事件は、彼の中ではすべてイザークの責任として処理されている。
あのときの焦りと苛立ちを思い出し、腹立ちまぎれに呟くと、イザークは怪訝そうに顔を上げた。
その、凶悪でありながら朴訥とした――ひどい矛盾だ――面構えに、ホルストはふんと鼻を鳴らすと、意識的に話題を変えた。
「ま、いいよ。過ぎたことだ。――それよりこのソファ、最近クッションを替えたりした? やけに寝心地がよかったんだけど」
「まあ、今頃気付いて?」
ソファの感触を確かめるように掌を押し付けていると、向かいのハイデマリーが呆れたような声を上げる。
それから彼女は、繊細な鎖骨を見せつけるようにして肩をすくめた。
「前に言ったじゃないの。ちょっとした『臨時収入』があったから、獄内の家具を刷新するって」
「臨時収入?」
首を傾げれば、今度はリーゼルが呆れの溜息を漏らす。
彼は、女性のように美しく整えた手をひらりと広げ、処置なしというように告げた。
「だめよ、マリー。この子、クレメンスちゃんの入獄に伴うあれこれがあった間、ずっと実験室に籠ってたもの」
「クレメンス……?」
耳なじみのない名前に眉を寄せ、なんとか記憶を手繰り寄せる。
明晰な頭脳は、さほど興味のない情報でもすぐに引っ張り出してくれた。
クレメンス・フォン・ロットナー元侯爵。
王族暗殺未遂、および冤罪による人権蹂躙のかどで、つい先日監獄送りになった元宰相だ。
それがなぜ臨時収入に結びつくのか、と、寝起きの頭でぼんやりと考えていたら、それよりも早くモーガンたちが説明をしてくれた。
「このたび即位した新王は、元侯爵が冤罪を着せてきた獄中の『被害者』に、丁寧にも手紙を寄越してくれましてね。恩赦で釈放し、その後の生活にも便宜を図るつもりだが、いかがなものだろうか、とお伺いを立ててくださったので、我らが女王の意見を仰いだのですよ」
「お気持ちはありがたいけれど、今さら釈放なんてされても困ってしまうじゃない? 楽しい我が家は、もう『ここ』にあるわけだし。シャバに戻るつもりなんてさらさらないから、その旨上手く伝えてちょうだいと【怠惰】に一任したのよ」
すると、モーガンは元詐欺師の肩書に恥じぬ働きを見せた。
すなわち、「厚意には深く感謝するものの、もはや失われた年月は戻らないし、新王の御代に影を落とすのも本意ではないため、監獄の近くにひっそりと庵を結び、つつましく生活したい。ついては、その費用だけ手当てしてもらえるとありがたい」といった内容を、実に嫌味のない、説得力溢れる表現で伝えたのである。
端的に言えば――慰謝料の請求だ。
「……いくらもらったの?」
ちょっと気になったホルストが尋ねてみると、モーガンは穏やかに笑って、指を三本立ててみせた。
肝心の桁数は聞き出せていないが……いや、聞かなくてもわかる。相当な額を巻き上げたのだろう。
「……さすがだね、【怠惰】」
「いえ。ルーデンの新王が情け深い方だったというだけで。ついでに彼は、好きにしてよいとの手紙とともに、贈り物までしてくださいました」
「贈り物?」
「ええ、おもちゃです――無聊の慰みにとのことで」
それこそが、猿轡をかまされ、粗末な衣に身を包んだ、クレメンス・フォン・ロットナーだったのだ。
通常、高貴なる身分にあった者は、いくら囚人とはいっても、相応の人権が保障される。
しかしフェリクス王は、彼を「好きにしてよい」と被害者の巣に投げ入れることで、怨嗟の緩和を図ったのだ。
目を抉ろうと、腕をもごうと、好きにせよと書き添えて。
実に如才なく、意趣に富み――そして冷酷なやり口だ。
だが、ホルストは面白そうに、「へえ」と眉を上げただけだった。
「で、そのクレメンスさんとやらはどこに? 姿が見えないようだけど」
「それが――」
モーガンはちょっと困ったように笑って両手を広げる。
「ここに送られてきた時点で、あまりに愉快な仕上がりになっていたので、【嫉妬】に治療をしていただいているのですよ」
「なにそれ?」
ホルストの問いには、優雅に紅茶を啜ったリーゼル本人が答えた。
「なんかね、あたしの優秀な教え子がちょっと洗脳しすぎちゃったみたいで、頭のねじが数本飛んでたのよね。体は始終左右にスイングしてるし、ひも状のものを見ると興奮するしで、マリーが彼を一目見るや『こんなおもちゃ、いらないわ』って不機嫌になっちゃって。おかげであたしが駆り出されたってわけ」
リーゼルは、しょっちゅう些細なことでハイデマリーに突っかかるが、基本的には彼女と仲良しだし、頼られるのが好きなようだ。
よくわからないが、それがいわゆる「女子のノリ」というやつなのだろう。
ホルストは「ふうん」と頷き、受け流した。
「無事治ったの?」
「当然。緊急時にはあたしの命令に従うよう、洗脳もばっちり。まあ、なぜかごく一部の情報について話させようとすると、とたんに口が重くなるのが少し気になってはいるけど」
人差し指を唇に当てながら眉を寄せるリーゼルは、ちょっと不満気だ。
彼の洗脳は、「すべて、苛烈に、さりげなく」が基本。
対象のことはすべて把握したうえで、自死せよとの命令すら従うように徹底的に支配し、かつ、通常時は本人にもそれを悟らせないというのが彼の美学である。
にもかかわらず、「話せ」と命じてみせても抗おうとする気配がまだ残っている。それがリーゼルには不満なのだった。
「あら、珍しいこと。【嫉妬】でも洗脳に失敗するなんてことがあるのかしら?」
「――言葉の選び方には気を付けなさいよね。誰が失敗したっていうのよ。対象領域によって隷属の度合いが異なるのは当然のことだし、あたしのチェックが人一倍細やかだから、常人では気づかないその差異に気付ける、っていうだけでしょ。言っとくけど、本人が洗脳された記憶どころか、あたしに会った記憶すら持たないほどに意識を操るっていうのは、相当繊細な技術なんですからね」
それから滑らかに、クレメンスの現在の様子に話を戻した。
「ふふ、実際、ずいぶんしおらしくて、知的な、いかにも聖職者っぽい感じになったわよ。ちょっと【怠惰】にタイプが似てるかしら。……うふん、でも、腹の底の黒ぉい感情がちょっぴり滲んじゃってるあたり、【怠惰】よりもずっと可愛げがあるわぁ」
「失礼な。私から溢れる可愛げを認めていただけないとは」
リーゼルがにやりと笑うと、横でモーガンが大仰に胸を押さえてみせる。
静かにやり取りを聞いていたギルベルトは、くすりと笑みをこぼし、
「たしかに。ポーカーフェイスは【怠惰】のほうが
そう言いながら、傍らに座すハイデマリーの髪を一筋掬い上げた。
「しばらくは、ここも賑やかになりそうだ」
彼は、愛する女性に娯楽が提供されたことを、歓迎している様子である。
「あら、そうかしら」
ハイデマリーは、そんな献身的な恋人のために、美味しそうに焼かれたパイを取り分けてやろうと、ナイフを手に身を乗り出す。
が、ふとなにかに気付いたように顔を上げた。
――ビン……ッ
ついで、なんのためらいもなく右手を振るい、背後に向かってナイフを投擲する。
丁寧に磨かれた銀の刃は、がっ……と鈍い音を立てて、部屋の奥の扉に突き刺さった。
「――……でも、ギル」
彼女は、目を伏せたままちらりと扉を振り返り、ゆっくりと唇を引き上げた。
「なりそう、ではなく、『なった』のほうが、正確のようよ?」
ナイフの勢いに圧されて、ゆらりと開いた扉のその向こう。
そこには、すぐ目の前に刺さったナイフを凝視し硬直している――クレメンスの姿があった。
「――…………な」
「盗み聞きなんて寂しいわ。どうぞ遠慮せず、中に入って」
動揺する元・老侯爵を笑顔で封じ、ハイデマリーは優雅に片手で室内を指し示す。
動けずにいるクレメンスを、イザークに合図して強引に部屋へと引きずり込むと、彼女はそっと笑みを深めた。
「ようこそ、クレメンス。わたくしたちは、あなたを歓迎するわ」
蜜を溶かしたような甘い声で、告げる。
警戒しながらも、悲鳴を上げたり腰を抜かしたりしない相手に、彼女は満足そうに目を細めると、「紅茶をどうぞ。ゆっくりおしゃべりでもしましょう」と、席を勧めた。
「――……私を、いったいどうするつもり――」
「どうか肩の力を抜いて。ここはとても静かで、快適で、退屈な場所。少しだけ、わたくしたちの相手をしてくださいな」
低く問うたクレメンスに、ハイデマリーは娼婦そのものの蠱惑的な視線を投げかける。
彼女は、辛うじて平静の表情を保っているクレメンスをとっくり見つめ、それから「そうねえ」と小首を傾げた。
「カードの類は、お好き?」
なにやら、ちょうどよい遊びを思いついたらしい。
彼女の決定は、この監獄の掟にして法律である。
ハイデマリーが笑みを含んだ視線を寄越すと、ただそれだけで、物憂げに紅茶を楽しんでいた男たちはゆらりと身を起こした。
詐欺師が、誘拐犯が、マッドサイエンティストが、狂戦士が、堕ちた勇者が、それぞれ真意を窺わせない表情で、じっとクレメンスを見る。
「――…………」
気圧され、つい言葉を失ってしまった彼に向かって、ハイデマリーは「さあ」と優雅に微笑みかけた。
「――新しいゲームを始めましょう」