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0.プロローグ

4月5日にKADOKAWAエンターブレインさまより書籍化される運びとなりました。

書籍化御礼に、第2部を始めさせていただきます…!

息切れするまでは、連日20時(と、序盤はもしかしたら朝8時も)の投稿を目指します。

お付き合いいただけますと幸いです。

 物憂げな満月の、夜だった。


 完全な円を象った月は、青白い腕を地上に向けて差し向けてはいたが、鬱蒼と茂る森の中は、ほとんど闇に沈んでいる。

 青年は、蔦性植物に足を取られ、一瞬バランスを崩すと、忌々し気に舌打ちを漏らした。


「邪魔な植物。硝酸で焼いてやろうか?」


 いまだ青年期の張りを残した、若々しい声。

 理知の色とともに、どこか狡猾さの滲む鳶色の瞳。


 ランタンをかざし、森を探索していたその人物は――若き日のホルストであった。


 彼は、普段なら悪戯っぽい笑みの浮かんでいる顔に、剣呑な表情を乗せ、周囲をくまなく見回していた。


「エルマ! エルマー! どこに行ったんだい? 出ておいでー!」


 それというのも、彼の大切な大切な「妹」エルマが、すっかり日が沈んだというのに、一向に監獄(いえ)に帰ってこないからだった。


「まったく、シャバ慣れしてない【暴食】が連れ出すと、これだから……。エルマみたいに小さくてかわいい子は一瞬で迷子になるから、よくよく気を付けろとあれほど言ったのに、森でかくれんぼだなんて……」


 独白には、焦りと苛立ちが等しく混ざる。

 もちろん、苛立ちのすべては、監獄を総動員して探索救助をさせることになってしまったエルマにではなく――だって、子どもが本気でかくれんぼをするのは、とても健全なことだ――、その保護監督を怠り、おめおめと彼女を見失ってしまったイザークへと向かっていたのだが。


 ハイデマリーが監獄を掌握して以降、ホルストやモーガン、男装時のリーゼルといった「一見一般的な」容貌のメンバーは、日常的に脱獄し、買い物や情報収集を楽しんでいた。


 イザークはあまりに目を引く巨漢ぶりから、滅多にシャバには下りないのだが、久々に森で身体を動かしたいというので、たまにはとエルマの相手を任せてみれば、とたんにこれだ。

 おかげで、エルマの保護者を自任するホルストたちは、かれこれもう三時間以上も、エルマを探して森をさまよっていた。


 ――キィ……ン。


 と、ホルストの足が、枝と枝の間に張り巡らされていた糸に触れてしまい、硬質な音が辺りに響き渡る。

 音の正体と、その奥に広がる光景を認めて、ホルストは眉を寄せた。


「……フレンツェルにまで出てきちゃったか」


 フレンツェル領。

 ヴァルツァー監獄を擁する北西の海岸に接した、ルーデン辺境の土地だ。


 冬には雨が続くが、一年を通じて気候は穏やかで、ワインの名産地として知られる。

 しかし同時に、瘴気を帯びた海と魔獣の棲む森に囲まれた厳しい土地でもあり、この、国境沿いに張り巡らされた「鳴鎖」は、そこに住む人間の涙ぐましい生活の知恵のひとつであった。

 磨いた鉄の棒が打ち鳴らされるときの高い音が、魔物を払うというのである。


「……ま、着眼は悪くないと思うけど。エルマが侵入しちゃってるかもしれないって時点で、効果は推して知るべしって感じだよね」


 獄内では、【色欲】と【憤怒】しか知らない、エルマの出生の秘密。

 しかしホルストは、その出産に立ち会い、かつ、その後も頻繁に彼女の診察をしていたがために、エルマの体質が常人とは異なることを、薄々理解してしまっていた。


 たとえば、膂力。

 たとえば、知力。

 免疫構造、強靭な皮膚、異様な学習能力。

 エルマのそれは、今までにホルストが見てきたどの人間とも、かけ離れている。


「全然いいんだけどね、元気でかわいければ、それで」


 ホルストは、軽く鼻を鳴らしてそう片付ける。

 かつて暴漢に襲われてから、ずっと寝台と魔石に繋がれていた妹を見ていた彼からすれば、自らの庇護する少女が健康で頑丈すぎるという事実は、なんの問題もなかった。


 問題なのは、フレンツェル領のほうだ。


「魔境を拓きし、聖酒の守り手――ね」


 神に捧げる飲み物とされる、ワイン。

 かつて魔族が栄えていた時代にもその干渉を跳ね除け、今も魔物を躱し、聖なるぶどう酒を造り続けている彼らは、おしなべて信念深く、魔に連なるものを毛嫌いしていると聞く。


 そんな場所にエルマが迷い込み――あげく、その「本性」に気付かれでもしたら、どうなるか。


 無意識に目を眇めたホルストは、そのとき地面に転がったなにかが、きらりとランタンの光を跳ね返したのに気付いた。

 駆け寄り、拾い上げる。


 蝶の形に宝石を嵌め込まれた、繊細な髪飾り。

 王都でもなかなか見ないだろう上等なそれは、先日エルマの四歳の誕生日に、おしゃれにうるさい【嫉妬】がプレゼントしたものだった。


 ふむ、と眉を寄せて、ホルストは思考を巡らす。

 ついでに視線も巡らせて、すぐそばの登りやすそうな木、そのふもとに落ちた食べかけの木の実までを認めたところで、彼は深々と溜息をついた。


 幼いエルマの行動傾向を知悉した彼が推測した内容は、こうだ。


 恐らく彼女は、その四歳とは思えぬ優れた身体能力と知恵を発揮し、【暴食】の探索を躱しながらここまでやってきた。

 しかしながら、あまりに長い間見つからないので、退屈してしまった。いや、不安になったのかもしれない。


 そこで彼女は、「迷子になったら、高い場所で動かず待機」、というホルストの教えを思い出し、森の中でもひときわ高いこの木に登り、ついでにお腹が空いたのか、木の実をもいで食べた。

 そうして足をぶらぶらさせながら、優れた視力でぐるりと周囲を見下ろし――


(視界に入るとしたら、闇に擬態している監獄よりも、火を灯しはじめただろう頃合いの、民家のほうか)


 ホルストは、独自に開発した小型の望遠鏡を取り出し、ふんと鼻を鳴らした。

 なだらかな葡萄畑の向こう側、曲がりくねった道の遥か先に、一等大きい灯りが見える。恐らく、領主の館であろう。


「……これでエルマになにかあったら、この土地と【暴食】を焼き殺してやるけど」


 不安をそんな軽口でごまかし、ホルストは軽く唇をゆがめる。

 それから、キィンと音を立てている鳴鎖をひょいとくぐり、迷いのない足取りで森を抜けていった。


 ――その後ろでは、鉄の立てる音に怯えて踏み込めぬ魔蛾が、恨めしそうに羽ばたきを繰り返していた。

なお、書籍情報詳細につきましては、活動報告をご確認いただけますと幸いです。

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