1.「普通」のお茶汲み(1)
王宮付き侍女の朝は早い。
手狭ながら清潔な寮室に、陽気な鶏の鳴き声が聞こえてくるのを耳にしながら、エルマはむくりと寝台から身を起こした。
いまだ、朝陽も射さぬ時分。
慣れない者なら寝台から降りるのすら手間取る薄暗さだが、本日が初出仕であるはずの彼女は、淡々と身支度を整えていく。
お仕着せのメイド服に腕を通し、清潔なエプロンに長い黒靴下、磨き抜かれた革靴を身に着ける。
肩を覆うほどの黒髪はくるくると団子にまとめ、ブリムと呼ばれるヘッドドレスを着ければ完成だ。
支給品である小さな鏡を覗き込み、エルマはしばらく首を傾げていたが、やがて、城に唯一持ち込んだ布鞄の中から小道具一式を取り出した。
それをなにやら丁寧に顔に塗ったり描いたりし、さらには厚底の眼鏡まで装着したうえで、再び鏡を見つめる。
そこには、これといって美人でも不美人でもない、平凡な少女が映り込んでいた。
肌は十五という年齢にふさわしく滑らかだが、赤みに乏しく、どちらかといえばくすんで見える。
目は眼鏡の存在に引っ張られて、何色なのかすら判別がつきづらく、薄めの唇は血の気がなくやや陰気である。
衣服とて、清潔感はあるものの、サイズが合わないのかどこか野暮ったく、全体に冴えない印象が強い。
だというのに、彼女はぱっとしない己の姿をまじまじと見つめると、
「よし」
満足げに頷いた。
その声だけは、はっとするほど美しい。
続いて彼女は、寝台を片付けついでに、なにげなく窓の外を眺めた。
四階建ての寮室の、最上階。
ルーデン王国の建築技術の粋を集めた王宮だけあって、ここでは侍女の寮ですら高層建築の使用が許されている。
平民ならばまずご縁のない高所からの眺望は、王宮付きを望む娘たちの憧れであり自慢でもあったが、しかし昨日まで
「これを毎日上り下り……」
むしろその呟きには、迷惑というか、単純にうんざりとした響きだけが籠っている。
彼女は、眼鏡の奥で死んだ魚のような目になると、「帰りたい……」とぼやきながらしばらく地上を眺めていたが、やがて諦めたようにため息をつき、すっと窓辺を離れた。
と、寮室を出ようとしたそのとき、エルマが手をかけるよりも先に木造りの扉が開いた。
無言で顔を上げると、ずいっと人影が迫ってくる。
エルマと同じくメイド服を身に着けたその人物は、開口一番にこう言い放った。
「まあ! みすぼらしい黒ネズミだこと」
こぎれいに結わえた金髪に、釣り目がちな若草色の瞳。なかなかの美少女だ。
年はちょうどエルマと同じか、ひとつ上くらいだろうか。
状況を冷静に検分して、どうやら先輩のようだと結論付ける。
ついでに黒ネズミというのは、黒髪で貧相なエルマへの
すると相手は、嘲るように片方の眉を上げた。
「あら、自覚もなくって? あなたのことよ、
猫のようににんまりと笑ってみせた彼女は、腰に手を当てて名乗った。
「私はイレーネ。ノイマン男爵家の娘よ。侍女寮の東棟四階を預かる
「はあ」
侍女寮は、既婚者・未亡人を含む年長者が住まう西棟と、十八歳以下の未婚の子女が住まう東棟から成り、さらに四つの階にはそれぞれ代表者が置かれている。
イレーネは、その東棟四階の代表者、つまり階長であるらしかった。
男爵令嬢としてそこそこの実権を握っているらしく、イレーネの言動は高飛車だし、新人をいびってやろうという意思が前面に現れている。
だがまあ、朝早くから単身寮室に殴り込むガッツの滲むさまはどこか清々しかったので、エルマはことさら反撃態勢は取らずに、しおらしく頷いた。
が、それはイレーネの気に食わなかったらしい。
彼女は長い睫毛を上下させてエルマの全身を眺めると、ふんと鼻を鳴らした。
「愛想のない人ね。顔も、表情も地味。王宮付き侍女といったら、花嫁修業の最難関にして頂点のような役職なのに、あなたみたいな人がいたら私たち全体のレベル感が下がるじゃないの」
「はあ」
「まあいいわ。だからこそ、私たちが鍛えてさしあげなくてはね。よくて? あなたは今日から、私の言う通り、割り振られた仕事をまっとうするのよ」
「はあ」
先ほどから「はあ」の一言しか発しないエルマ相手に、イレーネは痺れを切らしたように、一枚の紙を突きつけた。
「ほら、黒ネズミさん。これが今日のあなたの仕事よ」
支給品であるらしい上等な紙には、余白がほとんど残らないくらいに文字が書き連ねられている。
エルマがまじまじとそれを眺めていると、イレーネはふふんと唇の端を引き上げた。
「あなた、字は読めて? 一度だけ私が音読してさしあげる。二度は言わないから、一度で覚えてちょうだい。まず、六つの鐘が鳴る前に鶏小屋に行って――」
イレーネは早口で膨大な量の仕事を読み上げていく。
苗字も持たない、つまり字も読めないであろう下層民ならば、間違いなく悲鳴を上げる情報量だ。
しかもその内容とは、卵の受け渡しや厩舎への差し入れ、東庭の手入れや騎士団への手紙の配達、さらには妃への茶の準備など、王宮内のどこになにがあるのかもわからぬ新人には、過酷にすぎるものだった。
「厨房の端にある食堂で夕食を済ませたら、あとは聖堂の清掃と図書室の返却本の整理、それから――」
「あの」
「ちなみにどの仕事も、遅刻は厳禁よ。三回までは食事が抜かれる程度だけど、あなたの評判は一気に失墜するからそのつもりで。さて、図書室のあとは――」
「あの」
「なによ、うるさいわね。べつにこれ、いじめじゃないわよ? グラーツ夫人に後見されていようと、ルーカス王子殿下に直接お言葉を頂く女だろうと、実力主義の私たちは、ちやほやなんかしないっていうだけ。仕事の押し付けなんかじゃなくて、あくまで、これが普通の業務量なのだからね?」
明らかに嘘だ。
エルマはかすかに眉を寄せた。
「……新人が、ユリアーナ前妃殿下のお茶を用意するというのも、
ユリアーナというのは、先月まで側妃としてヴェルナー前王に仕えていた女性だ。
ヴェルナーの崩御に伴い後宮を離れ――この崩御というのが、エルマがここにいる契機でもあるのだが――、王宮内の大聖堂内に居室を構えて隠居生活を送っている。
いくら今は妃ではないとはいえ、新人に茶の準備をさせるには、あまりに高貴な身分にすぎるのではないか。
エルマが首を傾げると、イレーネはわかりやすく視線を泳がせた。
「……そ、それは、まあ、多少は珍しいかもしれないけれど、侍女がお茶汲みをすることに、なんの不思議があって? 侍女はお茶を淹れ、主人の心に寄り添う。これって、実に当たり前のことだわ。そうでしょ?」
「……当たり前」
「え、ええ、そうよ。だいたい、あなたはまだ仕えるべき主人が決まっていないのだから、
「……普通」
イレーネの言い分は苦し紛れ以外の何物でもなかったが、エルマはふと顔を上げ、それから静かに頷いた。
「承知しました」
「そりゃあ、ユリアーナ前妃殿下にお茶を振舞うなんて、正直私だったらごめんだけれど――なんですって?」
必至に言葉を重ねていたイレーネは、ぎょっとして聞き返す。
だが、エルマは淡々と繰り返すだけだった。
「承知しました、と」
「ほ……本気なの……?」
「ええ。それが
「普通……。そ、そうね。ええ、至極普通のことだわ」
意表を突かれながらも、イレーネは内心で自分に言い聞かせた。
そうとも、侍女が茶を淹れるのも、新入りが先輩の命に従うのも、至極普通。当然のことだ。
ただ、ユリアーナ前妃殿下が求める茶のレベルが異様に高いことや、茶の淹れ方が気に食わないという理由でこれまで何人もの侍女がクビになってきたこと、そもそも、それまでにこなすべき業務が尋常でなく多いことというのは、……少しだけ、特筆すべき事項かもしれないが、別に、異常というほどではない。
思いきり破綻した論理で己を宥めていると、無表情の新人がすっと脇をすり抜けていく。
「ど、どこへ行くのよ!?」
「時間があまりないようなので、さっそく業務を開始しようかと。念のためお聞きしますが、書かれていた業務が完璧にこなせるならば、多少作業順が前後しても構いませんね?」
「は……、メモも持たずに、ずいぶんと大口を叩くこと」
「ああ。すべて覚えましたので、メモはお捨て置きください。または裏紙として再利用を」
イレーネは愕然とした。
「――は?」
だがエルマは、真新しい陽光が降り注ぎはじめた廊下に、真顔で頷きかけるだけだった。
「朝は空気が澄んでいますね。――これがシャバの空気の味ですか」
「――……は?」
イレーネは、豆鉄砲を食らった鳩のような顔つきになった。