16.「普通」の手当て(4)
ルーカスは、目の前で粛々と「殺菌」とやらを進めるエルマを、真剣な表情で見守った。
事情を呑み込めていないほかの団員たちが、もの問いたげな顔を向けてくるが、それを視線だけで封じる。
それほどに、現場には異様な緊迫感が満ちていた。
いや、異様といえば、真っ先に言及すべきは、エルマの恰好だろう。
彼女はルーカスとともに聖堂を飛び出し、まっすぐに東屋に向かうのかと思いきや、一度侍女寮に寄り、次に追い付いてきたときにはこの姿となっていたのである。
すなわち、全身を覆う長袖のエプロンに、ブリムではなくほっかむり、そして口布。
袖を捲りあげている両腕はともかく、顔に関しては眼鏡の部分しか見えない。
つまり、素顔はかけらも見えない。
全身白っぽい布で覆われているわけだが、なぜだかそれは、頑強な鎧のようでもあった。
彼女は銅のトレイのうえに、なにやら見慣れぬ器具をずらりと並べると、さらに清潔な布を敷いて床の上に置いた。
そうして、この場の最高責任者――ルーカスを、じっと見つめて告げた。
「それではこれより、テオ・フェルスター様の脛骨骨幹部骨折の手術を開始します。ご覧の通り開放骨折ですので、観血的整復術によってアライメントを戻し、かつ、筋肉内異物摘出手術、および靭帯断裂縫合術を行います。術後は速やかに抗生物質を投与し、感染症への罹患を防ぎます」
「――……は?」
「ですから、テオ・フェルスター様の脛骨骨幹部骨折……」
彼女はもう一度繰り返そうとしたが、少し考えて、
「つまり、傷口を消毒して開いて、呪具の破片を取り除いたり縫い合わせたり薬を処方したりします」
物言いを改めた。
ずいぶんざっくりとしたインフォームドコンセントだ。
だが、あまりに淡々とした自信に満ちたその様子に、誰もが言葉を失い、自然と患者の傍らの場所を譲りはじめた。
剣に手をかけていた副中隊長までもが、戸惑いながらもエルマの動向を見守っている。
彼女はその隙を突くかのように、滑らかな動きでテオの傍に跪くと、呻く彼にそっと話しかけた。
「フェルスター様。これより、右足全体に麻酔をかけます。十数えますから、吐き気を覚えるようでしたら教えてください」
「うう……あ……ま、魔水……?」
耳慣れぬ単語に、テオが困惑の呟きを漏らす。
エルマはひとまずそれを了承と受け止め、素早く右足に麻酔を注射した。
変化は劇的だった。
「――い、痛みがなくなった……!」
「動きませんよう。これからしばらく酸鼻な光景が続きますので、目隠しをさせていただきます。――副中隊長様、恐れ入りますがお願いできますか?」
「あ、ああ……」
エルマは、なるべく自分の手の滅菌状態を保ちたいらしい。
副中隊長に目隠しをさせ、テオの身体を固定させたほか、残りの騎士たちにも蒸留酒で手を消毒させ、ひとりひとつずつ医療具を握らせた。
「ではあなたは、私が『メス』と言ったらメスをください」
「お……おお!」
すっかり空気に呑まれた団員たちは、素直に従う。
呆然としていたデニスが我に返ったのは、そのときだった。
「お……おまえ……! さっきからなにをしているんだ!」
「オペですがなにか」
「なにか、じゃないだろう! 治療行為は医師か聖医導師の領分だ。侍女ごときが、なんの真似ごとか知らないが――」
自分は役に立たなかったが、だからといってそれは侍女の越権を許していいという理由にはならない。
デニスは激しく糾弾しようと息を吸い込んだが、
「――臭い!」
拳よりも攻撃力のある言葉によって殴り飛ばされた。
「…………!?」
物理攻撃ではないのに、心と頭をがつんと抉られたような衝撃だ。
デニスが思わず絶句すると、跪いたままのエルマが、ぎらりとこちらを見上げてきた。いや、ぎらりとしているのは眼鏡なのだが。
「恐れながらその香水、強烈に
「な……な、なな……なんて、無礼な……」
あまりの暴言に青褪める。
だが、デニスがぱくぱくと口を動かしていると、業を煮やしたらしいエルマが今度こそ吠えた。
「人体に触れようってモンが、香水かぶって指しゃぶってんじゃねえよ常識だろう!? 医導師の自覚があるなら出直してこい! ねえなら引っ込め!」
「ひっ!」
団員以上にドスの利いた恫喝に、思わず悲鳴を漏らす。
いや、団員の声も複数重なっていたかもしれない。
あたりに、針が落ちる音すら聞こえそうな沈黙が訪れる。
静けさの中、デニスはしばらくテオとエルマを見比べていたが、やがて拳を握ると、勢いよく走り去っていった――水汲み場の方角へ。
「失礼。取り乱しました。――眼鏡」
「は、はい!」
すると先ほどの怒声が嘘だったかのように、エルマが静かに告げる。
眼鏡担当の騎士はよい子のお返事をして、わずかに下がっていた眼鏡のブリッジを、横からそっと持ち上げた。
そうして、デニスが香水を洗い落とし、手指を清めて再度駆け付けたときには、手術はほぼクライマックスに向かおうとしていた。
「メス」
「はい!」
「汗」
「はい!」
「眼鏡」
「はい!!」
エルマが短く告げるたびに、それぞれの担当である騎士が腹から返事をして、従順に要望を叶えていく。
むくつけき男どもが、小柄な侍女に従う様子は異様の一言に尽きたが、当のエルマはといえば、こちらに背を向け、ただ黙々とテオの傍に屈みこみつづけていた。
自分だって、聖医導師だ。
治療の様子はきちんと把握している必要がある。
デニスは覚悟を決めて拳を握ると、恐る恐る、「おぺ」の現場に近づいていった。
(な……なんだこれは……!)
そうして、息を呑む。
視線の先では、恐るべき速さで侍女が骨の破片を繋ぎ合わせていた。
無残に砕かれていたはずの骨は、ヒビこそ走っているものの、本来あるべき姿でまっすぐに並び、ひどく裂けていたはずの肉も、繊維に沿う形を取り戻し、あとは縫い合わされるだけとなっている。
いや、それよりも異様なのは、侍女の腕の動きだ。
(な……っ! あまりに素早すぎて、残像しか見えない……だと……!?)
ピンセットとメス、そして鉗子を器用に操る様子はあまりに素早く、まるで手が四本、五本もあるようにも見える。
デニスは呆然としながら、何度も目を擦った。
これはおまじないに毛が生えた「女の手当て」などではない。
治療の域すら越している。
これはもはや――芸術だ。
デニスは言葉を失った。
聖力を伴わない手技など、子どもの手当ての延長のようにしか思っていなかった。
だが、今、彼女の手から繰り出される奇跡的な治療術の前に、ただ圧倒され、感服している自分がいる。
現に、施術を見守る周囲の顔色は格段によくなり、むしろ興奮に目を潤ませている者たちまでいることに、彼は気付いた。
「呪具、摘出。聖水」
「はい! 聖水をかけます!」
ピンセットで摘まみ上げた呪具の破片を、担当の騎士が持つ布の上に置き、即座にもう一人がそれに聖水を振りかける。
じゅっ……という小さな音が響き、破片が効力を失ったのがわかった。
「破片と馬蹄を照合し、完璧に一致するかを確認してください」
「完璧に一致しているな。破片はこれですべてのようだ」
「よし」
骨や肉を整えながら、呪具もばっちり摘出したらしい。
馬蹄を検分したルーカス王子が告げるのを聞き取ると、侍女は静かに頷いた。
「それでは縫合します」
「縫合? 糸で縫うのか? 針がないようだが」
「ああ。風で飛ばされそうだったので、眼鏡のつるに仕込んだままにしていたのでした。取っていただけますか。蒸留酒で消毒してください」
怪訝そうなルーカスが問うと、エルマは手を動かしたまま答える。
「…………なんだっておまえは、眼鏡のつるに医療用の縫い針など仕込んでいるんだ」
「え? 麻酔や針のたぐいは、エチケットとして誰だって持ち歩きますよね?」
――持ち歩かねえよ!
不思議そうに問い返すエルマに、デニスは思わず叫び出しそうになった。
そして彼女の肩を揺さぶってやりたかった。
まさか持ち歩かないのこの人、みたいな雰囲気を醸し出さないでくれと。
トイレにハンカチを持っていくのとはわけが違うのだから。
そしてその思いは、さすがにその場の騎士全員に共通するものだったらしい。
ルーカスはじめ、一同が微妙な表情に顔を引き攣らせていた。
「……そもそも聞きたかったんだが、これらの膨大な医療器具をおまえ、いったいどこに隠し持っていたんだ」
「もちろん鞄の中にですが」
それを聞いてつい視線を向けてみれば、たしかに彼女の傍らには小ぶりな布鞄がある。
どうやら、侍女寮から持ってきたものらしい。
だが、明らかに質量保存の法則を無視するような大きさだったので、ルーカスは眉間にしわを寄せた。
「……なんでこの量が、こんな小さな鞄に収まるんだ?」
「女性は収納上手であれ、と育てられたのですが、もしやそれは普通ではないのでしょうか」
余談だが、ヴァルツァー監獄内では、「マリーの谷間か、エルマの鞄か」という格言がある。
どちらも四次元に繋がっていて、突拍子もないアイテムを引き出してくるので、彼女たちがそこに手を突っ込んだときは注意せよという意味だ。
だが、そんなことを知るはずもないルーカスは、答えになっていない返答に曖昧に頷きつつ、追及を諦めたようだった。
順調に進んでいる「おぺ」の邪魔をしてまで問いただす内容ではない。
「まあいい。針を取るぞ。どちら側のつるだ?」
「右です。レンズとの連結部分に小さな突起がありますので、それを――」
「ま……待ってくれ!」
そのまま縫合に移行しそうな展開に、デニスは慌てて待ったをかけた。
エルマがゆっくりと振り返る。
真意の見えない眼鏡の奥の瞳に、デニスは必死に話しかけた。
「待ってくれ。……その、ここからは、僕の出番だ」
「…………」
「いや、領分や資格がどうというのではなく……呪具がない以上、骨を繋ぎ、肉を閉じることならば、糸で縫い合わせるよりも、癒術のほうが早い」
また怒鳴りつけられるだろうか。
ここまでまったく役に立たなかったではないかと、嘲笑われるだろうか。
だが、デニスとて、最年少の聖医導師として認められたプライドがある。
ここで逃げ出したら終わりだと思ったし、――苦しむ
デニスが言葉を選びながら訥々と語ると、
「――……はい」
侍女は意外な返答を寄越した。
「もとよりそのつもりでした」
「…………は?」
「準備は整えました。聖医導師様。なにとぞ治療をお願い申し上げます」
そう言って立ち上がり、テオの隣の位置を譲るではないか。
デニスはぽかんとしていたが、エルマに再度声を掛けられ、慌てて彼女が座っていた場所に跪いた。
祈りを唱えようと両手をかざすと、隣からほっそりとした腕が伸び、自分の手を取る。
エルマは丁寧に、蒸留酒を染み込ませた布でデニスの手指を清めてくれた。
「癒術には必要ないのかもしれませんが、念のため。――爪、きれいに切っていらっしゃいますね」
「あ……ああ。その……おまえ……いや、あなたの言う通り、患者に触れるには、自分が清潔でなくてはと、思ったので」
一本一本を拭き取る、エルマの指は繊細で白い。
そんな場合ではないのに、しかも全身を布で覆った異様な格好だというのに、ほっそりとした手指を這わされて、デニスはどぎまぎとしてしまった。
慌ててひとつ咳払いする。
「で……では、祈りを」
そう仕切り直して、改めて患部を直視する。
肉が割り開かれたそこは、しかしあまりにエルマが美しく施術していたので、もうグロテスクだとは思わなかった。
(こんなに……複雑な構造なんだ)
そっと手を近づけながら、そんなことを思う。
自分がただ「癒すべき傷」としか考えていなかった部分には、骨があり、筋肉があり、それに張り巡らされた神経や血管があった。
どれもが機能と役割を持ち、複雑に絡み合いながら「足」という一つの部位を形成している様は、豊かであり、美しさすら感じられた。
デニスは静かに目を閉じ、聖言を唱えはじめた。
「天より降り注ぎたる、至高の光よ」
光が傷口に降り注ぎ、穢れを祓っていくところをイメージする。
「我が祈りに応え、その気高き慈愛の灯を差し伸べたまえ」
傷ついた筋肉の繊維や骨をそっと温め、ゆるやかに、元の形へと溶け合わせていく。
「憐れなる地上の子を包み、癒して、祝福を授けたまえ」
ぴんと通った骨を、頑強な筋肉が包み込み、神経、血管、そして皮膚が、繊細にそれを囲みこむ――。
ふわ、と光が溢れる。
周囲に、「おお……!」という感嘆の呟きが漏れたのは、それと同時だった。
デニスが自分の手にこれまでにない熱を感じ、驚きながら目を開けたとき――そこには、すっかり元の通りに回復した足が出現していた。
「神よ……!」
「テオの足が戻ったぞ……!」
騎士たちから次々と歓声が上がる。
それに囲まれながら、デニスもまた、信じられない思いでテオの足を見つめていた。
傷跡ひとつ残っていない、「完治」。
こんな完璧な癒術ができたのは、初めてだ。
「テオさん。足首を曲げられますか。右、左。上、下。はい。ありがとうございます」
横ではエルマが冷静に、回復ぶりをチェックしている。
痛みも違和感もなく、足全体が完全に元通りになっていることを確認すると、彼女は感嘆の溜息を漏らした。
「――素晴らしい」
そうして、デニスに深々と頭を下げてくるではないか。
「さすがでございます。聖医導師様」
その、心底感服したかのような仕草に、慌てたのはデニスのほうだった。
「……な、なにを言うんだ。彼を治したのは、おま、あ、あなたじゃないか……!」
「なにを仰いますやら。私は単に異物を取り除くお手伝いをしただけ。リハビリも経ずに完全な機能回復を得る――まさに神の御業をもって彼を救ったのは、あなた様でございます」
「り……りはびり?」
耳慣れぬ単語に目を白黒させるが、エルマは頓着しない。
淡々と道具を片付けはじめた姿を見て、デニスは心を決め、口を開いた。
「あ、あの……エルマ。……エルマ、さん」
権力、身分、美しいコレクション。
デニスはそういった、わかりやすいものばかりに平伏する性根の持ち主だ。
だがそれはつまり、「すごいもの」「自分より強いもの」と認識した事物に対しては、素直にしっぽを振る性格だということでもある。
デニスは今、医学の粋を軽々と超えるような手技を見せ、あまつ、自分に栄誉を譲り、褒めてくれたエルマに対して、純粋な敬意を持つに至っていた。
「僕の癒術がこれだけの仕上がりになったのは、あなたが肉体の構造を示してくれたからだ。そもそも、呪具が食い込んだ状態では、癒術なんて無意味だった。彼を救ったのは、あなただ」
「……いえ。私はそんな。ただ、『皆様の力を借りて』、『少し器用な侍女として普通の範囲で』あくまでお手伝いをしただけで」
しかしエルマは、妙にあちこちを強調しながら、ぼそぼそと言い返す。
彼女は彼女なりに、「ひとりで手術を完結させるのが異常なら、みんなでするのは普通なのだろう」とか、「呪具を摘出するのは、まあ、目に入ってしまった睫毛を取ってやるようなものだろう」といった理論武装を経てこの手術に臨んでいたので、それを否定されたくないという思いがあったのである。
負けず嫌いと踏んだデニスを焚きつけて、仕上げを彼に譲ったのもそのためだ。
あくまで、自分は侍女として「手伝い」をしただけだと。
しかしそんな理屈が、デニスに通用するはずもなかった。
「いったいなにを言っているんだ! 少し器用なんてものではないだろう」
「いえ。このくらい普通です」
「普通の人間が、あんなに滑らかに肉を開いたり骨を繋ぎ合わせたりできるものか! 縫合までしようとしていたくせに。あんなの、僕でも見たことがないぞ」
むきになったデニスが言葉を重ねると、エルマは、「そんな」と、ちょっとむっとしたような、困惑したような雰囲気を漂わせた。
「普通ですよね? だって、積み木や針仕事の一環ですよ」
その、心底「なぜそう言われるのかわからない」といった物言いに、そばで聞いていたルーカスは「あ」と思った。
これは、来るぞと。
「普通、女子というのは、骨格標本の積み木で手指を鍛え、針仕事がうまくなるようにとの願いを込めて、三歳の誕生日には針をプレゼントされるものではないのですか」
「は……?」
「私の初オペは五歳のときでしたし、あれくらいの手術なら、少しの器用さがあれば誰でもできると思うのですが……まさか、シャバの方というのは、そのくらいのこともできないのですか? 医師でも?」
その場にいた全員が、ぽきっと小枝が折れるような音を聞いた気がした。
それはたぶん、暴言に頭と心を抉られたデニスが、今とどめに天狗鼻を折られた音だった。
「…………っ! …………っ! …………っ!!」
デニスが涙目になって拳を握りしめている。
ルーカスはそっとその肩に手を置いてやりながら、小声でぼやいた。
そこまで言ってやるなよ、と。
だが、それでかえって奮起した少年医導師が、進んで平民たちの治療をこなして人体への理解を深め、やがて稀代の聖医導師として大成することになるとは、――そのときはまだ、誰も予想さえしなかったのである。