0.プロローグ
ヴァルツァー監獄。
大陸一の覇権を握るルーデン王国の外れ、険しい山と切り立った崖に囲まれたその場所には、大陸中の、終身刑を言い渡された大罪人ばかりが多く収容されている。
周囲の森は瘴気すら帯びて陰鬱と茂り、昼なお暗いその獄からは、ときおり、獣の鳴き声にも似た、断末魔の悲鳴が響き渡るのだという。
それは、心無い看守が囚人を拷問しているからとも、または、囚人同士が釈放をかけて、酸鼻な殺し合いをしているからとも言われた。
囁かれる噂は多々あれど、その趣旨はおおよそひとつにまとめられる。
ヴァルツァー監獄は、この世の地獄。
虫が湧き、腐臭の立ち込める牢獄にひとたび鎖で繋がれようものなら、その無慈悲な虐待に、暗澹たる境遇に、殺人鬼すら涙を浮かべて死罪を請うのだと。
さて。
その忌まわしき監獄の一室で、今、ふたりの人物が夜の闇をまとい、冷ややかな表情で立ち尽くしていた。
ひとりは、女性。
かすかな月光しか差し込まぬ牢獄にあってなお、淡く輝く銀髪とまぶしいほどの肢体を持った、艶麗な女性である。
ただし、その身にまとった囚人服は大きく胸元を裂かれ、頬には殴られた跡があった。
もうひとりは、そんな彼女をかばうようにして立ち、長い足で「なにか」を押さえつけている男性。
獅子のたてがみのようにうねる黒髪、そして伸び切った髭に覆われてはいるが、高い鼻や印象的な空色の瞳が、精悍な容貌を窺わせる男性だった。
その彼は、靴すら許されぬ泥まみれの足を再度振り上げ、湿った床にうずくまる「それ」を大きく蹴り上げた。
「寝たふりか、看守殿」
「ぐ……ぉっ」
とたんに、先ほどまで男に踏みつけられ、今蹴り上げられた「それ」――看守と呼ばれる脂ぎった男が、わき腹を押さえて飛び上がる。
ぶよぶよとした腕で、教会の聖紋を縫い取った己のローブを手繰り寄せる看守に、男は淡々と片手を掲げてみせた。
「お探しのものは、これか?」
その男らしい大きな手の中には、不思議な色を放つ水晶の珠がある。
紐を通されたそれは、看守の職を任された導師が、緊急時に教会と連絡を取り合うための聖具であった。
「そ……っ、それを……! それをなぜおまえが持っているのだ! 下賤の罪人が触れていいものではない! 聖なる水晶ぞ! 返せ!」
権力と欲望を贅肉に変えて身にまとわせた看守が、目を見開いて叫ぶ。
しかし男は、飛んでくる唾を煩わしげに払うと、再び看守を床に押さえつけるだけだった。
「ぐっ――!」
「下賤の罪人? ほう」
耳に心地よい低音が、ふいに剣呑な響きを帯びる。
男はぐ、と足に力を込めながら、看守に向かって囁いた。
「賤しき罪人とは、誰のことを言うのか」
「ぐう……っ」
「国を裏切った勇者か? 魔族の子を宿した娼婦か? それとも――囚人を虐待し、身重の女を犯そうとする、神の
「……う……お……っ」
足を背にめり込ませた看守が、苦悶の表情を浮かべる。
冷や汗をにじませはじめた巨体に、男は甘さすら感じる声で続けた。
「罪人が罪人を裁く権利があるというのなら、当然俺にもおまえを裁く権利があるはずだ。そうだろう?」
「ひっ……」
ぎし、と骨の軋む不吉な音がする。
これ以上圧を掛けられたら、間違いなく骨が砕け、あるいは内臓が破裂するだろう。
真っ青になった看守が口の端から泡を滲ませはじめたそのとき、
「――待って、ギルベルト」
それまで沈黙を守っていた女性が口を開いた。
「助けてくれたのはありがたいけれど、ちょっとかっかしすぎよ」
「……しかし、ハイデマリー」
ハイデマリーと呼ばれた彼女は、乱雑に切られた銀髪を気だるげに掻き上げ、薄く笑みを浮かべる。
そうして、赤く腫れた自らの頬をつっと指で辿り、小首を傾げた。
「わたくし、これでも三国一高い女と言われていたの。頬を腫らした代償に豚の死体を押し付けられても、詫びには到底足りないし、困るだけだわ」
だから、と呟き、ちらりと優雅に視線を背後に投げかける。
背骨を折られかけている状況も忘れて、看守は元高級娼婦に見入っていたが、その背後の扉が開いたのに気付き、顔を強張らせた。
「おまえたち、は……」
重い石と鉄柵でできた扉を開け、やってきたのは、四人の男たち。
あどけなさを残した少年に、屈強な熊のごとき巨漢、中性的な青年に、穏やかそうな壮年の男。
国籍も罪状も様々な四人の男たちは、頑強な鎖で繋がれていたはずの腕や足をぷらぷらと振りながら、実に陽気に牢屋に踏み入ってきた。
「な、なぜ、おまえたちまで、封じの鎖を……!」
「封じの鎖って、これ?」
呆然と呟く看守に向かって、最年少の少年がふふっと鉄の破片を摘まみ上げる。
「『聖なる鉄』ごときが王水に敵うわけないっていう、単純な科学の勝利だよね?」
ねえ、と彼が他の面々に呼びかけると、三者三様の答えが返った。
「……そんなもの、使わずとも、引き千切れば、それで」
「やぁねえ、他の看守を平和裏に洗脳したに決まってるじゃない」
「皆さん穏やかでないですね。このくらい、『説得』で十分ですよ」
看守は素早く、囚人たちの
人体実験を繰り返した年少の狂博士に、禁域で希少動物を大量虐殺した狂戦士。
王侯貴族の子女を集団洗脳した誘拐犯、横領で国家規模の公庫を破綻させた詐欺師。
それぞれ、己の
「な、な、な……」
どうやって監視の目を潜り抜けたのか、とか、なぜこの場に集まってきたのか、とか、看守が確かめるべきことは多くあったはずだ。
しかし、そのどれかを口にする前に、麗しの娼婦・ハイデマリーがうっそりと微笑んだ。
「初めての方ですもの。
「な……」
うっすらと血を滲ませた己の頬の傷を、細い指が撫でる。
「ヴァルツァー監獄。この素敵なお城だけで、手を打って差し上げる。あなたには、そのための
声は、鈴を鳴らすようだった。
「なんだと……?」
「飲み込みの悪い豚ねぇ。今この瞬間から、ヴァルツァー監獄はハイデマリー以下、あたしたちが掌握するってことよ」
看守が呆然と声を上げれば、すかさず中性的な青年が呆れたように言い捨てる。
――掌握する。
その単語が時間を掛けて脳に染み込んでいくと、看守は引き攣った笑みを漏らした。
「……ば、馬鹿を言うな。ここはヴァルツァー監獄、この世の地獄だぞ? 掌握どころか、私を小指の先ほどでも傷つけようものなら、とたんに監獄中の守衛や聖獣が駆け付け、おまえらを八つ裂きに――」
「守衛? それはどこにいるのだろう」
しかし反論は、淡々とした男の声に遮られる。
看守は背中に乗った足の重みを意識しながら、必死に耳を澄ませ――廊下から物音ひとつしないことに気付いて愕然とした。
そんな馬鹿な。
四人、いや、この自分の背中を踏みつけている男も含めれば、五人もの犯罪者が独房から出歩いているというのに、なぜ誰も、なにも、異常事態を知らせようとしないのか。
「そんな……馬鹿な……二百の守衛ぞ……五十の聖獣ぞ……たった男五人で、この広大な監獄を掌握など……」
「五人?」
とたんに、男――ギルベルトが、背中を押さえ込んでいた足を大きく振り上げ、同じ場所に叩き落とす。
つぶれたヒキガエルのような声を上げた看守に、彼は淡々と告げた。
「ハイデマリー以下と言ったろう。六人の誤りだ」
「あら、それも違うわ、ギルベルト」
すると、ふふっと口元を綻ばせたハイデマリーが、そっとギルベルトのたくましい腕に手を添える。
彼女は、宥めるように男の腕に触れながら、もう一方の手で、優しく自らの腹を撫でた。
そうして、いっそ慈愛すら感じさせる微笑をもって、這いつくばる看守に言い放った。
「――七人よ」