オリヴィエの苦悩
* * * * *
夜のセリエール男爵邸。
その一角にある部屋は酷く散らかっていた。
部屋の主人、オリヴィエ=セリエールの苛立ちをぶつけられた数々の物が壊されて床に転がる。
中には何度も執拗に踏みつけられた跡の残る物もあった。
その惨事を引き起こした当のオリヴィエは、唯一物の散らばっていないベッドの上でシーツに包まりながら爪を噛んで燻る苛立ちを抱えていた。
「何でアリスティードは手を差し伸べないの? あれは普通助けるでしょ? 可愛い女の子が転んで痛がってるんだから手ぐらい貸しなさいよっ」
原作では転んだヒロインの前にアリスティードが現れて、手を差し出してくれるはずなのに。
……分かりやすく目の前で転んであげたのに!
アリスティードは手を差し出すどころか、オリヴィエを騎士に任せたのだ。
これでは出会いイベントにならない。
騎士もオリヴィエをさっさと立たせると保健室へ行くからとオリヴィエの意思を無視して連れて行こうとする。
抵抗したけれど、騎士の方が力も強く、人目も多かったため、仕方なくその騎士に連れられて保健室へ行くことになってしまった。
思い出すだけでも苛立つ。
使用人がせっかく整えた爪が噛み癖によってボロボロになっていく。
どうせまた使用人が整えるのだからとオリヴィエは構わず爪を噛んだ。上手く整えられないような使えない人間はクビにするだけだ。
イベントを発生させるために、わざわざ昼時に昼食を抜いてまで学院中を歩き回ったのに誰とも出会わなかった。
図書室にも行ったがアンリはいないし、迷ったふりをしてうろついてもレアンドルは来てくれないし、敷地内の林を歩いてみたけれど木の上で降りられなくなった猫もいない。
しかも本来なら上級クラスに入るはずが、どういうわけか下級クラスに振り分けられてしまった。
「わたしはヒロインなのよ?!」
思わず包まったシーツに爪を立てる。
オリヴィエはこの世界のヒロインだ。
それなのに原作通りにいかないなんておかしい。
この世界は間違っている。
このオリヴィエ=セリエールを中心に世界が進まなくてはヒカキミの世界に生まれ変わった意味がない。
それに全員と友人関係で終えなければ……。
朝の光景がオリヴィエの脳裏に過ぎる。
「〜っ、あぁぁああぁっ!!!」
オリヴィエは頭を抱えると苛立ちをぶつけるようにサイドテーブルに置かれていたピッチャーを掴んで壁へ投げつけた。
それは派手な音を立てて砕け、硝子の破片と中身の水とが床を汚していく。
「何で何で何で何で何でっ!! どうして悪役王女がルフェーヴル様と一緒にいるのよぉおおっ?!!」
美しく手入れされた金髪がぐしゃぐしゃに掻き乱される。
オリヴィエの愛する、誰よりも欲しいと思っていたファンディスクの隠しキャラ、ルフェーヴル=ニコルソンが何故か学院に来ていた。
それも、ヒロインのオリヴィエが転んで地面に座り込んでいるというのに、彼は悪役王女のリュシエンヌに寄り添っているばかりでオリヴィエには全く関心を向けてくれなかった。
それどころかオリヴィエを見る目は酷く冷たいものだった。
悪役王女のリュシエンヌはそれが当然のように彼に身を寄せていたし、思い返せば彼はリュシエンヌの肩に触れていたような気もする。
思い出せば出すほど、頭が狂いそうなほどの怒りが込み上げてくる。
「そこは! わたしの!! 場所なのに!!!」
枕を掴み、激情のままベッドへ何度も叩きつける。
肌触りの良い布は弱く、あっという間に掴んでいた部分が裂けて中身の羽毛が飛び散っていく。
それでもオリヴィエの怒りは消えなかった。
「くそっ!! 原作でもムカつく女だったけど本当にヤなやつ!! アリスティードやロイドウェルだけじゃなくルフェーヴル様にまで手を出すなんて!!!」
羽毛が散るのも構わずに枕を殴る。
そして唐突にオリヴィエは気が付いた。
……もしかしてあのリュシエンヌも私と同じ転生者なんじゃないの?
アリスティードやロイドウェルがオリヴィエになびかないのは、ストーリーを知っているリュシエンヌが攻略しているからではないだろうか。
……彼も、もし、そうだとしたら?
オリヴィエの心を怒りと憎しみが満たしていく。
「ここは
裂けた枕を二度三度と殴る。
あのリュシエンヌが自分と同じ転生者ならストーリーを知っているはずだ。
もしかしたら無理やりストーリーを捻じ曲げているのかもしれない。
だからオリヴィエの思うようにいかないのだ。
「そうよ! だからアリスティードもロイドウェルも私に振り向かないのよ!!」
……ありえない。
……ありえないありえないありえない!!
ヒロインの邪魔をするなんて同じゲームをやった者とは思えないほど腹が立った。
そこは原作通りにすべきだ。
原作こそがこの世界の正しい在り方なのだから。
ゲームをした時にも嫌いなキャラだと思っていたが、同じ転生者だとしたら今のリュシエンヌの方が原作以上に嫌いになった。
オリヴィエの愛する彼を奪うなんて許せない。
もはやその感情は憎しみ一色になっていた。
「どうにかして原作通りに出来ないかしら……。そう、リュシエンヌを破滅させれば、そうすれば、きっと攻略対象達もルフェーヴル様も目を覚ましてヒロインのわたしを見てくれるはず……」
使い物にならない枕をベッドの外へ放り投げる。
そしてオリヴィエは眠りに落ちるまで、ブツブツと今後どうするかについて考え続けたのだった。
翌朝、部屋の惨事を見た使用人達が泣く泣く掃除をしたのは言うまでもない。
* * * * *
深夜、月も大分傾いた頃。
荒れた部屋のベッドの上でむくりと影が起きる。
それはベッドから出ると足元に注意しながら慎重に部屋の中を縫って進み、テーブルに置かれたランプを手に取った。
ランプの灯りに照らされて現れた顔はオリヴィエ=セリエールであった。
しかし眠りに落ちるまでの、激情に駆られたオリヴィエとはどこか顔つきが違う。
悲惨な状態に部屋を見回して申し訳なさそうに肩を落とした。
「メイドのみんな、大変だよね……」
「ごめんなさい」と小さく呟いた。
そしてランプを手に机に向かう。
机の上は何とか無事で、オリヴィエはランプを机に置くと椅子に腰掛けた。
そして便箋と封筒を引き出しから取り出した。
「王太子殿下にあんなことするなんて、謝っても許してもらえるか分からないけど……」
ペン立てに入れられたままのペンを取り、インク壺を開けてペン先を浸す。
そして便箋にペンを走らせていく。
そこに綴られる文字は普段のオリヴィエのものと違っていた。非常に丁寧に書かれたのが見て取れる美しい文字だった。
オリヴィエ=セリエールの中には実は二つの人格が、いや、二つの魂があった。
一つは普段表に出ている我の強いオリヴィエ。
もう一つは滅多に出てこない裏のオリヴィエ。
いつから二つの魂があるのかは分からない。
気付いた時にはもうそうだった。
まだ小さな頃は裏のオリヴィエがよく表に出ていて、現在表に出ているオリヴィエはあまり出てくることはなかった。
どちらかが出ている時、もう片方は出てこられない。
しかし裏のオリヴィエは表のオリヴィエが出ている間も意識があったのだ。
どうやら表のオリヴィエはそうではないらしく、裏のオリヴィエが出ている間の記憶はないようだった。
成長するに従って何故か裏のオリヴィエは段々と表に出られなくなり、気付けばここ数年はほとんど出ることが出来なくなっていた。
今回も、表のオリヴィエの精神が乱れ、疲れ、深く眠っているおかげで表に出てくることが出来たのだ。
「私が私でいるうちに、とにかく殿下に事情をご説明しなければ……」
オリヴィエの中に魂は二つあるが、本来この体の持ち主は現在表に出ているオリヴィエだ。
身勝手で我が儘放題なオリヴィエは、オリヴィエの中に居候している、別の魂に過ぎない。
裏のオリヴィエは表のオリヴィエの記憶も知っているため、何故表のオリヴィエがあのような行いをするのかも、その心も知っている。
知りたくなくても伝わって来てしまう。
何枚もの便箋に自分の事情を綴りながら、オリヴィエはぽろぽろと涙をこぼしていた。
本当のオリヴィエは穏やかで心優しい少女だ。
だからもう一人のオリヴィエが使用人につらく当たったり、両親から買ってもらった物を粗末に扱ったり、爵位が上の男性達に不用意に近付いたりするのは、本当のオリヴィエの意思に反していた。
ずっと、ずっと、何年も本当のオリヴィエはもう一人のオリヴィエ越しにそれを見せられ続けていた。
その度に傷付き、やめてと叫び、目を覆ってしまいたかったが、叫びは届かなかったし、目を覆うことすら許されなかった。
両親の愛を一身に受けるもう一人のオリヴィエが羨ましくてつらかった。
……お父様とお母様は私の両親なのに。
ゴテゴテとしたドレスを着るのも嫌だった。
男爵という爵位に相応しい格好か、もっとシンプルなものの方が本当のオリヴィエは好きなのだ。
何より、王太子殿下や公爵子息などといった高位の人々と関わること自体、オリヴィエは望んでいない。
「皆様に、なんて申し訳ないことを……っ」
オリヴィエは王太子宛に手紙を書くと、封をして、急いで部屋を出た。
控えの間にいたメイドは突然やって来た主人にギョッとしていたが、オリヴィエは申し訳ないと思いながらも持っていた手紙を託す。
「これを明日の朝一番に送ってほしいの」
メイドは目を瞬かせながらも手紙を受け取った。
宛名を見たメイドが困ったような顔をする。
「不敬なのは分かってるわ。でもとても大事なことなのよ。それで、もし返事が来ても、私が欲しいと言うまで持って来ないで。絶対によ?」
もし王太子から返事が来ても、もう一人のオリヴィエが受け取っては意味がないからだ。
本当のオリヴィエが受け取らなくては。
だから本当のオリヴィエが欲しいと言うまで、渡さないように厳命する。
メイドは戸惑いながらも頷いた。
オリヴィエは自室に戻ると扉を閉め、その場に蹲った。
「……何で私の中には、別の私がいるんだろう……」
もしもう一人のオリヴィエがいなければ。
そうしたら本当のオリヴィエがこんなに苦しむことはなかっただろう。
……もしも私が私だけの意思で動けたなら……。
パッと頭の中にとある人物の姿が浮かぶ。
もう一人のオリヴィエが親しくしている人物だ。
本当のオリヴィエは一言も話したことはないが、それでも、ずっと見てきたから知っている。
……彼にはもう婚約者がいる。
もう一人のオリヴィエは彼を恋愛対象には見ておらず、利用しようとしていて、それが本当のオリヴィエには悲しかった。
本当のオリヴィエは彼のことが好きだから。
「……女神様、どうか、どうかお助けください……」
もう一人のオリヴィエを止めて欲しい。
もう一人のオリヴィエが周りに迷惑をかけるのをやめさせたい。
そして彼を利用するのを止めたい。
彼はもう一人のオリヴィエに恋をしている。
本当のオリヴィエのふりをしたオリヴィエに。
悲しくて、悔しくて、寂しくて、切なくて。
本当のオリヴィエは蹲ったまま、しばらくの間、そこで声を押し殺して泣き続けた。
……どうか、あの手紙が無事に王太子殿下に届き、信じてもらえますように。
握り締めた両手が白くなるほど、強く、本当のオリヴィエは祈り続けたのだった。
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