7日目(1)
翌朝、目を覚ましてすぐにわたしは部屋の奥の机に向かった。
一番下の引き出しを抜き出し、その奥に隠していた包みと巾着袋を取り出す。
出入り口から見えない位置に移動して、そこに座り込んで包みを開け、中の食べ物にかじりつく。
まだ口の中はただれている。
固いそれが唾液で柔らかくなるまで待ってから少しずつ食べ進める。
時間をかけて二枚食べ切った。
それから巾着袋から一個だけ飴を出す。
口に入れ、包みと巾着を引き出しの奥へ戻して、引き出しを押し込んだ。
飴は甘いけれど、薬草の独特な青臭さや苦味がほんのりあって、ちょっと味の濃いハーブのど飴みたいな感じだった。
美味しいかと言われたらあんまり美味しくない。
でも薬草が効きそうだ。
魔力がないわたしに魔法は効かないらしい。
だからこうして薬で治すしかない。
……よし、なくなったね。
口の中の飴がちゃんと溶け切ったことを確認し、立ち上がる。
食べ物食べたし喉が渇いた。
物置部屋からこっそり出て井戸へ向かう。
廊下の角を曲がると運の悪いことに、王妃の側によくいる侍女と鉢合わせになった。
侍女はわたしを見ると目を細めた。
「ああ、丁度良かった。王妃様方がお呼びよ。ついて来なさい」
そう言って背を向けて歩き出す。
……喉渇いたんだけどなぁ。
井戸へ行くのを諦めて侍女について行く。
無視しても多分無理やり連れて行かれるんだろうし、無視したことを王子や王女達に報告されたら、きっと酷い暴力を振るわれる。
それなら従っていた方がいい。
廊下を抜けて中庭に出る。
わたしは普段井戸のある裏庭の方にしか行かないけれど、中庭はやはり裏庭よりも花の種類が多く、美しく整えられていた。
裏庭はあんまり花がないんだよね。
「連れて参りました」
中庭には王妃とその子供達が揃っていた。
庭先にテーブルやパラソルを出して、その下で優雅にお茶をしている。
空を見れば太陽は天井より少し傾いた位置にあった。お昼を過ぎた辺りだろうか。
昼食の後にすぐお茶会?
わたしが内心で呆れていると、王子や王女達が立ち上がった。
「やっと来たのね、遅いじゃないの」
「本当、グズは遅いわよね!」
「僕達王族を待たせるなんて、いつからそんなに偉くなったんだか」
第一王女、第二王女、第一王子が言う。
遅いと言われてもわたしは真っ直ぐここへ来た。
それに王族と言うのであれば、リュシエンヌだって本来は王族の一員である。
だがここで口答えすると三人が不機嫌になるのは分かっているので、黙っておこう。
侍女が王妃の側に控える。
代わりに王女達が近付いて来た。
「今日はいいことを思いついたんだ」
王子が嫌な笑みを浮かべた。
そして呪文を唱えるとわたしへ手を向けた。
同時にバシャンと頭上から水が降ってきて、わたしは全身びしょ濡れになってしまう。
王子があははと笑った。
「母上、ほら、僕も上手に魔法が使えるようになりました!」
わたしを指差して王子は王妃へ振り向いた。
王妃はそれを優しい眼差しで見る。
「素晴らしいわ。その歳でもう魔法をしっかりと使えるなんて、さすがわたくしと陛下の子ね」
王子が嬉しそうに笑った。
わたしは濡れたワンピースの裾を絞る。
魔法が効かないのは治療のことだけらしい。
……それはそうか。
魔法で出した水は水だ。
後はわたしに落ちるだけ。
どういうことなのかはよく分からないけど、もしかしたら、怪我を治すとかの体に影響を与える魔法が効かないのかもしれない。
今、王子が使ったのは多分水を出す魔法だ。
それはわたしの体に影響を及ぼすものではない。
王女達も何やら呪文を口にする。
すると小さな石の礫がベチベチと体に飛んできたり、髪の先に小さな火が灯ったりした。
慌てて火を叩いて消したが、その部分の毛先はちょっとだけ焦げてチリチリになっている。
「お母様、私達もできますわ!」
「私も魔法が使えます!」
自慢げな王女達に王妃も頷く。
「ええ、あなた達も素晴らしいわ。三人とも、とても努力したのね。偉いわ」
王女達も王子も自慢げに胸を張った。
そしてわたしを見やる。
……嫌な予感がする……。
三人がわたしを見ながら呪文を唱え出した。
魔法の呪文なんて分からないが、三人が魔法の標的にわたしを狙っていることだけは理解出来る。
思わず後退れば、三人の目は怪しく光る。
あれは何度も見た目だ。
リュシエンヌに暴力を振るう時の、愉悦と優越感に満ちた、嫌な目だ。
慌てて走り出せば、わたしのいた場所に火が現れたり石が落ちてきたりする。
「あっ、止まりなさいよ!」
「当たらないじゃない!」
王女達からブーイングが飛ぶ。
だが王子は楽しそうだった。
「あはは! ネズミみたいだ! もっと逃げてみろ!」
走るわたしへ水の球が飛んでくる。
それが水だけでなく、氷柱みたいなものも時々混じってくるので、わたしは足を止められない。
水の球はともかく氷柱みたいなのは当たったら痛いじゃ済まないかもしれない。
先端が鋭く尖っている。
走って逃げていると目の前を火の球が横切った。
「っ?!」
ビックリして後ろへ仰け反れば、バランスを崩して尻餅をついてしまった。
そこにまた水の球がバシャリと当たった。
お尻の痛さよりも、早鐘を打つ心臓の方が痛いくらいで、思わず止めていた呼吸を何とかする。
火の球はわたしの顔の半分近くあった。
……あんなものが当たったら……。
ゾッとするわたしを他所に王女達は少し離れた位置から、さっさと立てと喚いている。
いくら全身ずぶ濡れだと言っても火の球に当たれば服や髪は燃えるだろうし、火傷だってするだろう。
何かあってわたしが死んでしまってもいいと思っているんだ。
その時、ムクムクとわたしの中に湧いてきたのは「死にたくない」という気持ちだった。
この人達に殺されたくない。
この人達の良いようにされたくない。
頭の中に浮かんだのはルルの姿だった。
「早く立ちなさいよ! グズ!!」
「あっ?!」
第二王女の声がして火の球が当たった。
体が濡れていたから燃え広がることはなかったけれど、とっさに出した腕は熱かったし、触れた服の袖は少し焦げ臭い。
慌てて立ち上がったわたしに王女達はまた魔法で攻撃してくる。
だからわたしは走った。
今まで、こんなに走ったことはないというくらい、とにかく走り続けた。
* * * * *
眼下の光景をルフェーヴルは後宮の屋根の上から眺めていた。
その瞳は不愉快そうに眇められている。
よく晴れた空の下、整えられた庭の中で、可愛いリュシエンヌが必死になって走り回る。
その小さな体へ向けて、王子や王女達が魔法を放つ。
魔法自体は大したものじゃない。
初級のウォーターボールやファイヤーボールといったものなので、リュシエンヌに当たっても、精々びしょ濡れになるか少しばかり火傷を負うくらいだ。
それでも、その行為が不愉快なのは変わりない。
王子や王女達が放つ魔法の中で、確実にリュシエンヌに当たりそうなものだけを選んでルフェーヴルは風魔術を操り、ほんの僅かに軌道を逸らす。
ギリギリ、リュシエンヌには当たらない。
ああでも、とルフェーヴルは思う。
必死になって走るリュシエンヌは可愛い。
細い手足が一生懸命動いて小さな体が風を切って走る。
茶色の長い髪は手入れをしていないのであまり靡かないが、きちんと手入れをすれば、あの長い髪は柔らかく風を含むだろう。
それをすぐに見られないのが残念だ。
今行われている
もっとリュシエンヌに魔法が当たっていれば憐れさは増すだろが、あの可愛らしい顔に傷が出来るのは許せない。
それにただでさえリュシエンヌは傷だらけだ。
これ以上傷を増やす必要はない。
……あ、転んだぁ。
びしょ濡れのリュシエンヌが前方に倒れ込む。
同時にビシャリと水が降り注いだ。
第一王子の歓声が響く。
けれど転んだリュシエンヌは立ち上がった。
前髪で表情は窺えないけれど、真っ直ぐに立ち上がり、王子や王女達の様子を冷静に見ている。
王子や王女達は魔法に飽きたらしい。
初級魔法と言ってもあれだけ馬鹿みたいに放っていれば、それなりに魔力を消費したはずだ。
「沢山魔法を使ったらお腹が空いたわ」
「あー、楽しかった!」
「母上、これからもたまにやってもいい?」
王女達がスッキリした顔でテーブルへ戻る。
王子の問いに王妃は笑顔で頷いた。
「ええ、いいわよ。いつでも、好きな時に
王女達が無邪気に明るい返事をする。
ルフェーヴルも裏社会で様々なクズを見てきたが、王妃やその子供達はそれまで見てきたクズとは違った。
……まあ、どっちみちクズだけどねぇ。
人身売買の商人ですら商品の子供にそこまで酷い扱いはしない。
奴隷商人だって、重罪人でもない限り、ある程度は人としての尊厳を奴隷に残している。
王妃やその子供達はそれらよりももっと酷い扱いをリュシエンヌに行っていた。
隷属の首輪をつけてはいないものの、リュシエンヌはまるで王妃達の所有物のようだった。
それも不満の捌け口にされている。
今までリュシエンヌの生い立ちは調べて知っていたが、話で聞くのと、実際に目の当たりにするのとでは全く違う。
……すぐに
ルフェーヴルにとって「死」とは「逃げる」ことと同義であった。
死ぬことはとても簡単だ。
水が僅かにあれば、縄が一本あれば、ナイフがあれば死ぬには事足りる。
そうして死んでしまえば己の罪や責任から、ありとあらゆる苦しみから逃げることが出来る。
死の苦痛は一瞬だ。
たったそれだけで済ませるのか。
リュシエンヌは五年近くも苦しんでるのに。
布の中に隠れたルフェーヴルの口が歪な弧を描く。
……そんなの面白くないよねぇ。
一瞬の恐怖と痛みだけで済ませるなんて。
ただ処刑するなんてつまらない。
憎まれていると言ってもいい。
それなら、もっと苦しんで、痛みにのたうち回って、屈辱の中で絶望しながら死ぬべきじゃない?
慈悲を乞う様を笑いながら殺せばいい。
……ん〜、それはなさそうかもぉ。
喜びはしないけど、多分、悲しみもしない。
リュシエンヌを見る限りは王妃達を憎んでいる様子はなかった。
だが好いているということもなくて。
恐らく無関心という言葉が当てはまる。
これはこういうものだとリュシエンヌの中に刷り込まれて、暴力を受けるのも、日常の一部と化している。
もしかしたら、リュシエンヌは普通の生活を知らないかもしれない。
ルフェーヴルも普通の暮らしなどしたことがないが、暴力のない、穏やかで平和なものだということくらいは知っている。
行動力のある子供だけど、ある意味では行動力がないとも言える。
けれども、それで良かったのだ。
もしもリュシエンヌが一人で後宮を抜け出したとしても、五歳に満たない子供がたった一人で生きていけるほど、今の外の世界は優しくない。
あっという間に奴隷か人身売買の商人に捕まって売り払われる。
それか、王族に恨みを持つ者達に嬲り殺しにされるか。
あれほど美しい琥珀の瞳を見れば、この国の者であれば誰だってリュシエンヌが王の血を濃く引いていることは分かる。
暴力を振るわれても後宮にいたのは正解だ。
眼下を見れば、放置されたリュシエンヌが泥だらけのまま立ち尽くしていた。
色鮮やかで豪華なティーセットに、食べ切れないほど並べられた見た目にも美しい菓子や軽食を王妃達はリュシエンヌに見せつけるようにゆっくりと楽しむ。
勝手に下がることも出来ず、リュシエンヌはぬかるんだ土の上に裸足で立っている。
今日は天気が良いが、びしょ濡れのままではさすがに肌寒く感じるだろう。
……あーあ、仕事中じゃなかったら今すぐにでもリュシエンヌを綺麗にしてあげられるのになぁ。
あのゴテゴテと飾り立てた王妃達だって、仕事に関係がなければ殺してしまいたいくらいだ。
しかし一瞬で殺すつもりはない。
殺気を抑えて眺めていると、不意にリュシエンヌが僅かに顔を上げた。
風が吹き、長い前髪の間から琥珀の瞳がこちらを見た。
距離はあるけれど、確かに視線が絡み合う。
太陽の光を反射させてリュシエンヌの琥珀の瞳がキラリと輝いた。
……あ。
リュシエンヌは笑っていた。
口は真っ直ぐに結ばれていたが、その瞳が細められ、屋根の上にいるルフェーヴルを見つめた。
時間にしたら数秒もない。
ほんの瞬きの間の出来事だ。
それでもルフェーヴルはリュシエンヌの琥珀の瞳が喜色に染まったのを見逃さなかった。
リュシエンヌは視線を外し、王妃達に顔を戻した。
思わず屋根の上でルフェーヴルは天を仰ぐ。
片手で目元を覆ったけれど、瞼の裏に琥珀の輝きがちらついたままだった。
屋根の上にルフェーヴルを見つけてリュシエンヌは喜んでいた。
助けてくれないと怒ることも悲しむこともなく、ただただルフェーヴルが見える場所にいたことに気付いて嬉しそうに瞳を揺らした。
その瞬間だけリュシエンヌの雰囲気がパッと明るくなるのが遠目にも分かった。
………あー、かわいすぎ。
あんなに純粋な好意を向けられて喜ばない奴がいるのだろうか。
ルフェーヴルは吐き出したい溜め息を呑み込み、眼下へ視線を戻す。
リュシエンヌは一時間ほどそのまま立たされ続けた。
水気を含んでいた服は泥が乾いてきて、あれでは洗っても綺麗に落ちないと思った。
走り続けて疲れただろうにリュシエンヌは一度も座ることはなかった。
そうしたら理不尽な目に遭うからだろう。
お茶を楽しみながら王妃達は心行くまで憐れな姿のリュシエンヌを嘲り、井戸で体を洗ってから戻れと中庭から追い出した。
追い出されたリュシエンヌは急ぎ足で中庭を離れて行く。
王妃達はお茶会を続行するらしい。
ルフェーヴルは屋根の上を伝ってリュシエンヌの後を追った。
* * * * *