6日目(2)
夜、月が天上を通り過ぎた頃。
言っていた通りルルは物置部屋に現れた。
突然人影が降り立ってももう驚かない。
毛布の上にいたわたしの目の前に、ルルは音もなく着地して、そのまま屈んだ体勢でわたしを見る。
「リュシエンヌ、良い子にしてた〜?」
その囁くように抑えられた声に頷き返す。
「うん」
「偉い偉い」
伸びてきた手がよしよしと頭を撫でる。
その手が離れ、懐をごそごそと漁った。
「ビスケットはまだ残ってる?」
「うん、つつみいっこと二枚あるよ」
「じゃあそっちは大丈夫だねぇ」
うんうんとルルは頷いた。
それから何かを差し出される。
手の平には小さな包みが一つあった。
形からして多分、粉薬の包みだ。
「これなに?」
とりあえず受け取る。
「それが痛み止め。苦いけど効くよぉ」
ルルが水の容れ物を片手に言う。
苦いの? しかも粉薬。
粉薬ってちょっと苦手。
でもルルがわたしのために用意してくれたものだ。
包みを開ければ白い粉が入っている。
目を閉じ、上を向いて口を開け、包みの中身を開いた口の中へサラサラと落とす。
口を閉じると手に水の容れ物を渡される。
それを一気に仰った。
水と共に苦味が口いっぱいに広がった。
必死に水で粉薬を流し込む。
全部飲むとルルがわたしの顔を上から覗き込んだので、ちゃんと飲んだと口を開けて見せた。
「うん、全部飲めたねぇ」
「……にがい……」
「薬はそういうものだよぉ」
開けた口にころりと丸いものが入る。
それは甘くてゆっくりと溶けていく。
あ、これチョコレートだ……!
リュシエンヌは初めて食べたはずだ。
思わず口を押さえてモゴモゴと味わっていれば、ルルが「美味しい?」と聞いてくる。
何度も頷くわたしにルルは笑った。
「やっぱり口直しはこれだよねぇ」
わたしがチョコレートを食べ終わると、小さな巾着袋みたいなものを渡された。
袋を開けて中を覗くと緑がかった丸い飴玉みたいなものがいくつか入っていて、ほんのりハーブみたいな匂いがする。
「薬草を使った飴で、これは眠くならないから、朝と夜に一個ずつ食べると口の中の傷が早く治るよぉ。それにちょっとだけ痛み止めの効果があるんだぁ」
え、何それ凄い飴じゃん!
驚いてルルを見上げれば、ルルが「今日の夜は食べちゃダメだよぉ」と言う。
さっき痛み止め飲んだもんね。
しっかりと頷く。
「リュシエンヌにちょっとでも魔力があれば魔法である程度は傷も治せるんだけどねぇ」
ルルが「仕方ないかぁ」と言った。
「まりょくがないと、まほう、きかないの?」
「効かないみたいだよぉ。前にリュシエンヌの傷を治そうとしたけど、魔法が弾かれちゃったぁ」
「そうなんだ……」
それって結構まずい気がする。
他の人なら魔法で治せるような怪我や病気も、わたしの場合は魔法に頼れない。
薬とか医術で治すしかない。
だけどこの世界の医療技術ってどれくらい?
大きな怪我を負ったら手術で治療出来る?
魔法で治療出来るってことは、その分、医学があんまり発達していない可能性もあるよね?
ぐるぐると考えているうちに巾着を強く握ってしまっていたようで、手の中で飴同士のぶつかる音がした。
……その辺は考えても仕方ないかなぁ。
極力大きな怪我を負わないようにするしかない。
部屋の奥の机に向かい、手探りで一番下の引き出しを引っ張り、その引き出しの奥へ巾着袋を仕舞う。
布に戻るとルルが小瓶を持っていた。
「はい、服脱いで〜」
そう言われて目を瞬かせてしまった。
別にルルに対して羞恥心はない。
リュシエンヌの体は子供だし、ルルには下着姿も見られているし、最初なんて傷の手当てもされたわけだし。
素直にボロ布のワンピースを脱ぐ。
ルルがわたしの体を検分する。
「ん〜、痣は薄くなったけどぉ、ここら辺の傷は残っちゃうかもねぇ」
トントンと軽く背中をつつかれる。
暴力を振るわれる時にどうしても顔やお腹など、体の前面を守るために背を向けるので、背中側に傷が出来やすいのだ。
王妃や王女達はヒールのある靴でわたしを蹴る。
靴の踵は木製なので、あれの角が当たると痛いし、あっという間に痣や傷になる。
ルルは小瓶を開けると床に置き、懐から小さな布の束を取り出すと一枚だけ残してわたしに持たせた。
小瓶を取り、その一枚を瓶の口に当て、傾ける。
中の緑色の濃い液体がゆっくりと流れる。
小瓶の中身を染み込ませた布をルルはわたしの背中にぺたりと貼った。
あ、前に手当てしてくれた時に見た薬?
微かに薬草っぽい香りがする。
その動作を繰り返して、ルルはわたしの体に薬の染み込んだ布を慣れた手つきで貼っていった。
でも前よりか布の数は減っている。
「……傷だらけだねぇ」
どこか感心したような、呆れたような、そんな声でルルが呟いた。
見下ろした腕や足、お腹などは確かに小さな傷がいくつもあって、痣も結構目立つ。
それでも顔だけは無事なんだよね。
もしかしたら顔は避けているのかも。
腕や足、体なら隠しようがあるけど、さすがに顔に傷や痣があったら隠せない。
「……あのね」
布を当ててくれているルルに声をかける。
するとルルが「ん〜?」と返事をした。
「わたし、外に出たらしたいことあったよ」
ルルの顔がこっちを向いた。
「なぁに?」
灰色の瞳が興味深そうにわたしを見る。
その瞳を見つめ返す。
「ルルに会いたい」
ルルの目が瞬いた。
「オレ?」
「うん、外に出てもルルに会いたい。食べものも、ふくも、これでいいの。でもルルに会えないのはイヤ」
灰色の瞳はジッとわたしを見る。
そして唐突にその瞳が揺れた。
それが何なのか理解する前に、気付くとわたしはルルの両腕でふわっと抱き締められていた。
ルルの肩にわたしの顔が埋まる。
こんなに誰かとくっついたのは初めてで、リュシエンヌの心臓がドキドキと早鐘を打った。
抱き寄せられた体はわたしより温かい。
暗殺者だからか、これと言った匂いはなく、抱き締めた腕にギュッと力が込められる。
「大丈夫、外に出ても会えるよぉ」
密着した体越しに声が響く。
「うれしい」
ギュッとルルを抱き締め返す。
背中を撫でられ、体が離れる。
少し寂しいがわたしも手を離した。
「このまま連れて帰りたいなぁ……」
そうルルが呟く。
でもそれは出来ないことだろう。
わたしはこんな扱いでも王族だから。
もしもルルがわたしを連れ出したとして、それがクーデターを起こす貴族達に知られたら、きっとルルの立場が悪くなってしまう。
だからわたしはルルの手を握った。
「ダメだよ、わたしがいなくなったら、ほかの人がおこられちゃう」
「別に他の人なんてどーでもよくない? こんなところで虐待されて過ごすより、オレと一緒の方が絶対楽しいよぉ?」
「いたいのはへいき。……ルルとずっといっしょだったらいいなって、わたしも思う。でもルルがわたしを外に出したらきっとルルがおこられるよ」
それに外に出てもルルと会えると分かったから、クーデターまでこの生活も我慢することが出来る。
いくらルルが凄腕の暗殺者だったとしても。
貴族や次の王族となるファイエット家に睨まれたら今後の仕事や生活に支障が出るだろう。
「リュシエンヌはオレが怒られるのは嫌?」
「いや」
「分かったぁ、じゃあやめるよぉ」
わたしが手を伸ばすとルルが首を傾げる。
「ルル、いい子」
ルルの頭をそっと撫でる。
灰色の瞳が丸くなる。
そしてふっとルルの雰囲気が柔らかくなった。
「そんなの初めて言われた〜」
ルルの短い茶色の髪はふわふわだった。
* * * * *
それからしばらく話すとリュシエンヌは眠ってしまった。
飲ませた痛み止めが効いてきたのだろう。
丸くなっている小さな体に、毛布をかけてやる。
そうしてルフェーヴルはリュシエンヌの寝顔を数秒眺め、ふと何かに気付いた様子で自身の手の平を見た。
誰かを抱き締めたいと思ったのは初めてだった。
暗殺者という職業柄、人と密着したり必要以上に距離を詰めることは避けていたはずなのに。
子供の頃は育った娼館の女達が時折抱き締めてくれたが、ルフェーヴルはそれに返したことはなかった。
……これはオレを選んだってことだよねぇ?
後宮の外に出た後もリュシエンヌはルフェーヴルに会いたいと口にした。
食べ物や服よりもルフェーヴルがいいと言った。
その言葉がどれだけルフェーヴルを喜ばせたか、きっとリュシエンヌは知らないだろう。
抱き締めた体は小さく、細かった。
腕の中にリュシエンヌを囲い込んだ時の感覚を、その感情の名前をルフェーヴルは分からなかった。
ただ負の感情ではなかった。
腕の中にリュシエンヌがいると心地が良い。
小さな腕が抱き返して来なければ、ルフェーヴルはもっと長い時間、リュシエンヌを抱き締めていただろう。
我に返って手離したが、体が離れると何かが欠けてしまったような感じがして少し寒い。
眠るリュシエンヌの頭を撫でる。
……オレに執着させるつもりだったのに、オレの方が執着しちゃってるなぁ。
だがそれが全く嫌ではない。
リュシエンヌに尽くしたいというわけではないけれど、リュシエンヌに何かをしてあげたいとは思う。
そうしてもっとルフェーヴルに堕ちればいい。
クーデター後、リュシエンヌはファイエット家の養女となる。
そして成人を迎えたらリュシエンヌはルフェーヴルのものになるだろう。
けれども、それまでの時間を離れて過ごすつもりはない。
リュシエンヌの成長していく姿を側で見る。
周りを牽制するためにも離れる気はない。
リュシエンヌについて調べたので、恐らく本人よりもルフェーヴルの方が詳しいだろう。
リュシエンヌ=ラ・ヴェリエ。
もうすぐで五歳を迎える第三王女。
母親はリュシエンヌの出産で命を落とした。
伯爵家の娘でその家は王妃によって没落してしまい、存在してないが、それでも歴史ある貴族と王族の血を引いた子供である。
魔力はないが、王族特有の琥珀の瞳を持つ。
そして王位を継承することが出来るのは、琥珀の瞳を持つ者だけだ。
王妃がリュシエンヌを殺さない理由は、もし琥珀の瞳を持つ第二王子に何かあれば、次に王位を継承する可能性があるのは琥珀の瞳を持つリュシエンヌだからだ。
現在、王族直系の子で琥珀の瞳を持つのは第二王子とリュシエンヌのみ。
王の姉で公爵家に降嫁した者もいるけれど、その子供達の中にも琥珀の瞳は現れていない。
もしもリュシエンヌに王位が回ってくれば、王妃はリュシエンヌを傀儡の女王にして、国を我が物とするつもりだろう。
側妃と王妃は仲が悪い。
特に王妃は琥珀の瞳を継いだ第二王子を疎んでおり、何度か毒を盛ったこともある。
それでも第二王子は生き延びた。
毒で殺せなかったことで、今度は暗殺者をけしかける気でいるらしい。
だがなかなか暗殺者を雇えないようだ。
……まあ、それもそうだろうねぇ。
明らかに捨て駒にされると分かっていて引き受けるような者はいない。
「……約十年かぁ」
正確に言えば、成人まであと十一年。
正式にリュシエンヌを手に入れるまで、それだけの時間を待たなければならない。
長いと言えば長いが待てないほどではない。
成長していく様を眺めながら待つというのは、それはそれで面白そうだ。
外の世界でこの子はどのように成長するだろうか。
……あ、いいこと思いついたかもぉ。
これならきっとリュシエンヌの側にいられる。
……早くクーデター起こしてくれないかなぁ。
ルフェーヴルはしばらくリュシエンヌの寝顔を眺めていたが、依頼主に報告をするべく、姿を消した。
* * * * *