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兄と婚約者の気持ち

 






 妹は昨日、初めての公務に臨んだ。


 自分も十二歳の時はそうだったが、初めての公務の後は、翌日までその疲れが尾を引いた。


 きっと今日はぐたっとしているだろう。


 疲れた時にたまに見せるリュシエンヌの溶けた姿を思い出して、アリスティードは小さく笑みを浮かべた。


 公務や授業などのない日は出来る限りティータイムを共にすることにしている。


 リュシエンヌは「お兄様もお忙しい身ですので無理なさらずとも……」と言われたが、家族の時間というのは大事にすべきだとアリスティードは考えている。


 実際、予定が合えば父と妹と三人で夕食を摂ることもある。


 リュシエンヌの離宮に到着すれば、騎士達が慣れた様子でアリスティードを中へ通した。


 いつもならばメイドがティータイムを行う場所まで案内する。


 だが、その日に限ってはそうではなかった。




「お兄様、ようこそお越しくださいました」




 宮の主人であるリュシエンヌ本人が出迎えたのである。


 アリスティードは当然驚いた。




「私が来るのを待っていたのか?」




 いつもティータイムの時間に合わせて来るが、それでもこうして出迎えられたのは最初の時以来だ。


 妹には当たり前のように、侍従兼護衛兼婚約者となったルフェーヴルが付き添っている。




「ええ、お兄様をお待ちしておりました」




「さあ、早く」と手を取って急かされる。


 そのようなことは幼少期の頃に数度されたきりだったので、アリスティードはまた目を丸くした。


 強くない力で引かれながら自然と笑みが浮かぶ。




「何だ、今日は随分と急かすじゃないか」




 アリスティードは笑い混じりについていく。


 リュシエンヌが振り返った。




「ええ、実はお兄様にお願いがあって。でもそれは後でお話ししますね」




 それはまた珍しい、と思う。


 リュシエンヌがアリスティードにお願いをしてきたことなど、片手で余るくらいしかない。


 大抵はルフェーヴルが叶えてしまうからだ。


 だがアリスティードに、ということは自分にしか叶えられない願いなのだろう。


 しかもこうして自分を待つほど重要なことだ。




「それは非常に気になるな」




 ご機嫌な様子で前を行く妹を見やる。


 こうしてリュシエンヌと手を繋いでいても、ルフェーヴルが割って入らないのも珍しい。


 チラとルフェーヴルを見れば微笑ましそうにリュシエンヌを見ながらついて来ているだけだ。


 しかしふとリュシエンヌが視線に気付いて振り向くと、照れたような、嬉しそうな笑みをルフェーヴルへ返す。


 いつもと少し違う様子に、アリスティードは昨夜か今朝、何かあったのかと思わず妹とその婚約者を交互に見た。


 リュシエンヌの先導で着いたのは、リュシエンヌの自室にほど近い、日当たりの良いサロンだった。


 既に様々な種類の菓子や軽食などが用意されている。


 促されてソファーへ腰掛ければ、リュシエンヌが少しだけ距離を置いて横に座った。


 妹付きの侍女が二人分の紅茶を用意する。


 それを飲み、一口大の小さなケーキを一つ食べる。


 アリスティードはそこまで甘味が好きではない。


 けれどもリュシエンヌとのティータイムは出来る限り一緒にするように心がけている。


 それが無理な時は、リュシエンヌの宮からティータイムの菓子や軽食がいくつか届けられる。




「それで、私の可愛い妹は何を頼みたいんだ?」




 最近では親友のロイドウェルにすら「君は少し妹好き過ぎないか?」と呆れ気味に言われるが、可愛い妹は可愛いのだ。


 アリスティードの問いにリュシエンヌが顔を上げる。




「その、お兄様は来年、学院に通われますよね?」




 もじもじとする妹にアリスティードは頷く。




「ああ、そうだな」




 学院には寮もあり、地方出身の者はそこに住み、王都に屋敷のある者は通いで学院へ向かう。


 アリスティードも来年、十五歳を迎えたら学院へ通うことになる。


 王城からなので移動手段は馬車である。




「わたしも三年後に通うことになりますが、実は、飛び級制度を利用したいと考えているのです」


「飛び級制度を? しかしあれは……」




 そこまで言いかけて、リュシエンヌのお願いが何なのか理解した。


 試験は各学年の期末試験と同程度のものが出題される。


 例えば一年の試験を合格すれば二年に飛び級を、二年の試験を合格すれば三年に飛び級をといった形で入学出来る。


 ちなみに三年の試験を合格しても、最低一年は通学が義務付けられているため、あまり意味はない。


 リュシエンヌが飛び級をしたいのであれば、各学年の勉強を学ぶ必要がある。


 そしてアリスティードにお願いするということは、答えは一つ。




「はい、入学時に飛び級制度専用の試験を受ける必要があります。……お兄様が入学されたら、授業の内容を教えていただきたいのです」




 飛び級は半ば形骸化された制度である。


 だがいまだに存在している制度でもあった。




「何故飛び級制度を使おうと思ったんだ?」




 確かにリュシエンヌは優秀だ。


 アリスティードよりも学習のペースは昔から早かったし、飲み込みも早く、記憶力も良い。


 きちんと学べば飛び級も可能かもしれない。




「わたしは十六歳になればルルと結婚するのでそれに合わせて卒業したいのと、お兄様と一緒に同じ教室で学びたいと思うのです」


「……そうか、私が一年と二年の授業を教え、リュシエンヌが試験に受かれば三年で同じ教室で学べるのか」


「はい」




 リュシエンヌが入学するのはアリスティードが三年に上がる時だ。


 だから本来ならば共に同じ教室で学ぶことはない。




「わたしはどうしてもお兄様やロイドウェル様と並んで授業を受けたいんです。たった一年だけの学院生活ですから」




 リュシエンヌは十六歳でルフェーヴルと結婚する。


 学院に通うことになるので、誕生日当日に降嫁とはいかないが、二年に上がる際に学院を途中で退学する格好になってしまう。


 その後は離宮を出て、ルフェーヴルの用意した家で暮らすらしいが、どこで暮らすか二人は誰にも話していない。


 父には話しているかもしれないが。


 リュシエンヌに訊いても「ルルに秘密にするよう言われているので」と教えてくれない。


 ルフェーヴルを問い詰めても「王都の外だよぉ」「リュシーとオレが暮らせる場所かなぁ」といつものへらへらした様子で答えにならない答えを口にするばかりである。


 この二人、聞くところによると、街に出ている時に自分達が暮らす家で使用する家具を一緒に選んだりしていたらしい。


 騎士達が何とか探ろうとしたが、下手に探りを入れるとルフェーヴルに殺気を向けられてとてもじゃないが調べられないという。


 何度も街に出ては結婚後の家について話していたそうだ。


 もしかしたら、もう住む場所を決めて屋敷を建て始めているか、既に購入予定にして金を支払っているかもしれない。


 まだ気が早いと思うがこの男ルフェーヴルならばやりかねない。




「分かった、私が習ったことは教えよう」




 学院生活はリュシエンヌと共に過ごせる最後の一年間でもある。


 それならば、少しでも一緒にいられる時間を、思い出を増やしておきたい。


 リュシエンヌの表情がパッと明るくなる。




「ありがとうございます、お兄様!」




 笑顔の妹にアリスティードも微笑み返した。









* * * * *










 リュシエンヌには前世があるらしい。


 リュシエンヌがリュシエンヌとして生まれる前に、別の人間として生きた人生。


 しかも別の世界で。


 裏社会には変人や頭のおかしい人間もいたが、そんなのは聞いたことがない。


 でも不思議なくらいストンとルフェーヴルの中にそれは収まった。


 リュシエンヌは最初から子供らしくない子供だった。


 そして不思議な雰囲気を持つ子供だった。


 聞いた時には冗談かと思ったけれど、震える体やきつく握り締められた拳を見たら、その考えもすぐに消えた。


 何より、その前世の記憶とやらがあったおかげもあって後宮を生き延びられたのかもしれないと思えば、むしろそれがあって良かった。


 もしもルフェーヴルがリュシエンヌに興味を感じなかったら。


 もしもリュシエンヌが飢えや寒さで死んでいたら。


 もしもリュシエンヌと出会わなかったら。


 きっととても退屈で無価値な日々をルフェーヴルは過ごすことになっただろう。


 誰かを殺して、間諜をして、たまに用心棒紛いな仕事が舞い込んできて、それらを淡々とこなす。


 当てもなくふらふらする日々。


 昨日話した奴が今日は死んでいる。


 今日話した奴が数時間後には敵になる。


 ルフェーヴルは毎日、体の内側に空いた穴の寒さを少しのチョコレートで慰める。


 想像するだけで死にたくなるほどつまらない。


 以前の生活に戻りたいとも思わない。


 大事なものを得る楽しさを知った。


 己が決めた唯一を守る充実感を知った。


 他人の笑顔の眩しさを知った。


 誰かと触れ合う喜びを知った。


 リュシエンヌの体温を、リュシエンヌの存在を、その笑顔をいつでも欲しいと思う。


 しかし肉体関係が欲しいわけではない。


 この腕の中に閉じ込めて誰の目からも隠し、綺麗なものだけを見せて、美味しいものだけを与えて、ルフェーヴルがいなければ何も出来ない。そんな存在にしたい。


 リュシエンヌはルフェーヴルがいなければ生きている意味がないと言う。


 ルフェーヴルが死んだら後を追うと言う。


 それをルフェーヴルはかわいいと思った。


 もしルフェーヴルが死にそうになったら、真っ直ぐにリュシエンヌの下へ行くだろう。


 そうして自分が死ぬ前にリュシエンヌを苦しまないように殺してから、自分も死ぬ。


 毒は用意してあげたが、加護を持つリュシエンヌには恐らくあの毒では効果が薄い。


 それでも渡したのはリュシエンヌの覚悟が本気だと分かって嬉しかったから。


 リュシエンヌが死ぬ時にはルフェーヴルに抱かれて、ルフェーヴルが死ぬ時には腕の中にリュシエンヌを抱いているだろう。


 いっそのこと、そのまま溶けない氷の中に二人で閉じこもり、永遠に共に寄り添い続けるのも良いかもしれない。


 死んでも離さない。死んでも離れない。


 他人に引かれるほどの執着だと理解している。


 もはや互いの存在に依存している


 だがそれでいい。


 複雑な感情は要らない。


 ただ互いが必要だと分かればいい。


 リュシエンヌが秘密を明かしてくれた時、ルフェーヴルがどれほど嬉しかったかリュシエンヌは知らないだろう。


 長年抱え込んでいた秘密を、悩みを、ルフェーヴルだけに打ち明けてくれた。


 自分を信じ、頼り、話してくれた。


 しかもリュシエンヌはルフェーヴルの職業を最初から知っていた。


 知った上で最初から、あの態度だったのだ。


 ルフェーヴルはそれが嬉しかった。


 依頼をしてくる人間は多いが、ルフェーヴルが人殺しだと知ると、大抵の者は距離を置くか離れていった。


 中には罵倒してくる者もいた。


 好意的に接してくる人間は少ない。


 だから余計にリュシエンヌに固執しているのだろうと自分で分かっている。


 リュシエンヌの秘密を聞いた今、前世の記憶とやらが気になった。


 今のリュシエンヌは前世のリュシエンヌを合わせて、そうなっているのだ。


 それなら前世についても知りたい。


 どんな世界で、どんな人間として生まれ、どんな人々に囲まれて、どんな暮らしをしていたのか。


 リュシエンヌが話してくれるなら聞きたい。


 リュシエンヌの全てを知りたい。


 けれども今はまだこの感情を抑えられる。


 リュシエンヌと結婚するまでは大丈夫だ。


 結婚したら我慢はしない。


 そしてルフェーヴルを知って欲しい。


 誰かに自分を知って欲しいと思ったのは初めだった。


 ──それを愛と言うならば。




「オレはリュシーを愛してるんだろうなぁ」




 愛し愛されるのもそう悪くはない。










 

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