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5日目

 





 起きると大分日が高くなっていた。


 昨日は口内を火傷してしまって、ずっと部屋に引きこもって眠って過ごした。


 彼が氷や蜂蜜をくれたおかげなのか、口の中は相変わらずただれているものの、水ぶくれはない。


 ふと自分の手や足を見下ろした。


 ……汚い。


 そういえば前に体を拭いてから五日くらい経っている。


 立ち上がり、適当なボロ布を掴むと、それを片手に扉へ向かう。


 そっと扉を開けて人気がないことを確認したら、廊下へ出て、井戸を目指す。


 誰にも会わずに井戸へ辿り着く。


 今日は風もなく、日差しが暖かく、気温もさほど低くないらしい。


 ……これなら水浴びしても平気そう。


 一瞬、外で服を脱ぐことを躊躇ったものの、どうせ後宮ここにいるのは女性ばかりだし、体は五歳なので見られたところでそれほど恥ずかしくない。


 それにワンピースの下には下着がある。


 かぼちゃみたいなパンツとタンクトップみたいなのがあるから素っ裸ではない。


 まずは桶に水を汲む。


 そしてボロボロのワンピースを桶に入れ、破けないよう気を付けながらゴシゴシと洗う。


 石鹸はないが、かなり汚れていたようで水はすぐに真っ黒になってしまった。


 一度服を出して絞り、井戸の縁にかけて、もう一度水を汲み直して洗う。それを二回繰り返した。


 疲れたけれど服は最初よりも綺麗になった。


 日の当たっている近くの低木の枝にそれを引っ掛けて乾かしておく。


 更に水を汲むと手で掬って体にかけていく。


 かけたらそこを布で擦った。


 擦るとボロボロ垢が落ちた。


 腕、足と拭い、濡らした布で下着の中を拭う。


 水を汲み直し、今度は頭から水をかぶる。


 さすがに冷たかったが水を被っては体を布で擦るを繰り返せば、汚れが落ちていく。


 髪はどうしようもなかった。


 汲み直した水を何度かに分けて髪へかけ、指を通そうとしたけれど、上手く通らなかった。


 梳かしたことのない髪は絡まり放題だ。


 これは無理そうだと洗うのを諦めて水気を絞る。


 絞った布で体や髪の水気を拭い、服を干している低木の側でぼんやりと突っ立って日向ぼっこをする。


 こうしていればそのうち体も乾くだろう。


 日向ぼっこのせいかちょっと眠い。


 何度も水を汲むという重労働をしたのもある。


 立ったままウトウトしていれば、ふと視線を感じたような気がして目を開ける。


 いつからいたのか、横に彼がいた。


 声をかけようと口を開いた瞬間に声が飛んでくる。




「見ろ、犬が裸であんなところにいるぞ」




 声の方へ顔を向ければ第一王子がいた。


 王妃の側によくいる侍女がついている。


 その侍女へ話しかけたようで、わたしを指差して、笑っていた。


 侍女が「あのようなものをご覧にならない方がよろしいでしょう。お目汚しになってしまいます」とこちらを睨んだ。


 横にいた彼が歩き出す。




「まったく、しつけが必要らしいな」




 第一王子も歩き出した。


 そしてこちらへ向かってくる直前、丁度井戸の辺りで、彼がスッと体の向きを横へ変えて爪先を出す。


 そこへ歩いてきた第一王子が躓いた。


 侍女が「あっ」と声を上げた。


 第一王子が驚いた顔をして、そのまま前へ倒れ、膝と両手を地面についた。


 そこはわたしが水浴びをした後だったので土がぬかるんでいる。


 べちゃりと水気を含んだ音が響く。




「殿下!」




 侍女が第一王子に駆け寄った。


 彼は転ばせた第一王子から離れる。


 声もなく彼はおかしそうに笑っていた。


 侍女は第一王子を助け起すと、膝と両手についた泥を見て悲鳴を上げ、慌てて井戸の水を汲んでそれで両手を洗った。


 ハンカチで泥を拭おうとするが服に泥水はしっかりと染み込んでしまったらしい。


 第一王子は顔を真っ赤にして唇を噛んでいる。


 侍女は怪我の有無を確認し、何もなかったことにホッとして、第一王子を建物へ促した。




「すぐに着替えましょう」




 第一王子は赤い顔のまま歩き出す。


 明らかに苛立ったような足取りで、べちゃべちゃと歩き、乾いた土に戻ると振り返らずに建物へ入っていった。


 彼がわたしの横へ戻ってくる。




「あー、面白かったぁ」




 王族を泥まみれにさせたというのに、まるで悪戯が成功した子供みたいな声で彼が言う。


 でもスカッとしたので同意を込めて頷いた。


 彼はわたしの服を手に取ると魔法の呪文を口にして、ふわりと巻き起こった風に服を遊ばせた。


 質の悪い厚手のボロボロのワンピースはそれだけで乾いてしまったようだ。


 それから彼がもう一度呪文を口にする。


 今度はわたしの体が温かな風に包まれた。


 長い髪がぶわりと舞い上がった。




「これで髪も乾いたで、しょ……」




 乾いたワンピース片手にこちらを見下ろした彼は、わたしの顔を見て固まった。


 え、何でそんな驚いた雰囲気なの?


 わたしも思わず彼を見返した。







* * * * *







 見上げてくる子供の顔をルフェーヴルはまじまじと見つめる。


 長い前髪で今までずっと顔が半分近く隠れてしまっていたが、風で前髪が舞い上がり、乱れた髪の間から子供の顔が覗いている。


 手を伸ばしても逃げないので、乱れた前髪と額の間に手を差し込み、前髪を持ち上げる。


 痩せ細って、頬もこけているが、前髪の下にあった子供の顔は整っていた。


 琥珀の瞳はパッチリと大きい。


 肌は手入れがされておらずくすんでいるし、カサカサだが、色白で吹き出物などもない。


 小さくてツンと立った鼻に小さな唇。


 顔自体が小さくて、目鼻立ちがはっきりとしたその顔は痩せていても十分可愛らしい。


 ルフェーヴルは娼館生まれの娼館育ちというその生い立ち上、美しいと言われる女性達を多く見てきた。


 だからこそ分かる。


 リュシエンヌは将来絶世の美女となる。


 ……なるほどねぇ。生まれてきた子供でこれなら、王が手を出した女はよっぽど美しかったんだろうなぁ。


 これは王妃達が虐めるわけだ。


 王族も美しい姿をしているが、この子供はその中でも飛び抜けて美しく育つはずだ。




「お兄ちゃん……?」




 前髪を持ち上げてずっと顔を覗き込んでいたせいか、子供が落ち着かない様子で見上げてくる。




「ああ、ごめんねぇ」




 手を離せば、前髪がバサリと顔にかかる。


 子供は手で前髪を押さえ、隙間から見えるように少しだけ髪を分けていた。


 ……この子の成長した姿、見てみたい。


 出来れば今の性格のまま大きくなって欲しい。


 可愛いこの子供が可愛い女になり、それを目一杯可愛がったらどんな反応をするんだろう。


 オレに溺れるかなぁ?


 それとも他の奴を望むのかなぁ?


 ああ、それは何か腹が立つ。


 オレ以外目に入らないくらいデロッデロに甘やかして、他の奴らが入り込めないくらいオレに懐かせて、あの間の抜けた笑みをオレだけに向けさせたい。


 こういうの何て言うんだっけぇ?


 ……そうだ、独占欲だ。


 自分だけのものにしたい。


 ……してもいいよねぇ?


 だって、この子供はルフェーヴルに命を預けた。


 それは言ってしまえばこの子供はルフェーヴルの手の中にあるということだ。


 自ら自分のものになったのだ。


 ……でも今のままじゃあ足りないなぁ。


 もっともっとこの子供を甘やかさなければ。


 もっとオレに懐かせて、もっとオレを信頼させて、もっとオレという存在に依存させて。


 いいねぇ、依存。執着させるんだ。


 オレ以外は信用出来ないくらい、興味が湧かないくらい、目につかないくらい、オレの存在を刷り込むんだ。


 そうしたら、恐らく、もっと可愛い。


 ルフェーヴルはじんわりと胸に広がる仄暗い感情にニヤリと口角を引き上げた。


 だがそれは顔の下半分を隠す布のせいでリュシエンヌに見えることはなかったのだった。








* * * * *







「ねえ、リュシエンヌ」




 服を着ていたわたしはハッと顔を上げる。


 彼が、初めてわたしの名前を呼んだ。


 そもそも王妃以外に呼ばれたことがない。


 固まったわたしに彼が笑う。




「耳、貸して〜?」




 指で来い来いと呼ばれる。


 それに近付くと彼は口元に手を添えた。


 そこに耳を寄せる。




「オレのこと、ルルって呼ばせてあげる」




 笑いを含んだ声で「特別だよ」と付け足した。


 わたしは思わずその名を呼んでいた。




「……ルル?」


「そうだよぉ」




 彼が目を細めた。笑ってる。




「ルル」




 わたしの呼びかけに「うん」と応えがある。


 ドキドキと胸が高鳴った。


 ルフェーヴルだからルル?


 それって愛称だよね?


 愛称を、わたしに許してくれるの?


 ……嬉しい。




「なまえ、呼べるのうれしい。ありがとうルル」




 わたしは多分満面の笑みだと思う。


 彼の手が伸びてきてわたしの頬を撫でる。


 顔は半分見えないけれど、見えている灰色の瞳が目尻を下げたから分かる。


 彼も、ルルもわたしに呼ばれることを喜んでいた。








* * * * *








 後宮を出るとルフェーヴルはその足で真っ直ぐにファイエット家の邸へ向かった。


 この時間、依頼主は自室にいるはずだ。


 警備の目を掻い潜って辿り着けば、案の定、依頼主は忙しそうに書類に目を通したりサインをしたりしている。


 天井から出ると顔を上げた。




「昼間に来るとは珍しいな」




 依頼主は目を丸くした。


 別に気付かれていないだけで、ルフェーヴルは実は結構な頻度でファイエット邸を訪れていた。


 雇われている間は依頼主の行動は把握する。


 そうすれば依頼主の弱みを握ることもある。


 もしも契約違反をしたり、無理やり従わせようとしたりしてきた時、それはルフェーヴルの強みになるからだ。


 まあ、そうは言ってもファイエット家の現当主とは数年の付き合いなので性格も概ね理解している。


 執務机の前に降り立ったルフェーヴルは言った。




「リュシエンヌ、ちょうだい」


「は?」




 ルフェーヴルの言葉に依頼主が目を瞬かせる。




「リュシエンヌとは、後宮にいるというリュシエンヌ=ラ・ヴェリエのことか?」


「そう、そのリュシエンヌだよぉ」


「……待て。ちょっと待ってくれ」




 頭が痛いとでも言わんばかりに依頼主はこめかみを押さえ、眉を顰めた。


 隠された王女の存在を知り、依頼主ベルナール=ファイエットは即座にその子供についてルフェーヴルと部下達に調べさせた。


 その結果、子供の名前がリュシエンヌ=ラ・ヴェリエであること。


 その母親は城でメイドとして働いていた伯爵令嬢であったこと。


 王の一夜の相手をさせられ、妊娠が発覚すると同時に密かに後宮へ連れ去られ、そこで出産し、同時に命を落としたこと。


 琥珀の瞳を持っていたが故に殺されなかったこと。


 しかし魔力がなく、王妃やその子供である王子王女達に虐待されながら育ったこと。


 後宮のメイド達も侍女達も、誰も彼女を助けようとはしなかったこと。


 母親の実家である伯爵家は王妃に睨まれ、そのせいで貴族社会から弾かれ、没落し、現在はもうないこと。


 どれを取っても憐れな子供だった。


 ……その子供が欲しい?




「彼女は王女だ。生い立ちを考慮して、生かすつもりだが、その血を悪用されないためにも我が家の養子としなければならない」




 虐待され続けた幼い王女。


 血を理由に処刑するのは簡単だ。


 けれどもその子供は何の罪も犯していない。


 むしろその子供も、亡くなった母親も、王家の被害者なのだ。


 それに完璧に王家の血を絶つのであれば、この国の高位貴族の大半は死ななければいけない。


 現実問題そのようなことは不可能だ。


 しかし王家の血を野放しには出来ない。


 保護と監視の両面を考え、養子を決めたのだ。


 既に他の貴族達からも合意を取り付けている。




「それは知ってるよぉ。だからぁ、その後の話〜」




 間延びした声が返す。




「その後?」


「成人したらリュシエンヌをオレにちょうだい? 大丈夫、外に出したり子供を産ませたりしないから〜」


「結婚するつもりか?」




 ニヤリと灰色の瞳が細められる。




「あっは、それ良いかもぉ。うん、オレ、リュシエンヌと結婚するぅ」




 奇妙なほど明るい声で首を傾けたルフェーヴルに、ベルナールがしまったと思った時には既にもう遅かった。


 この暗殺者は一度決めたことは曲げない。


 仕事上のことは多少譲歩するが、それもあくまで仕事に関連することだけだ。


 先日のようにあまり私的な部分に口出しされると容赦がない。


 しかも困ったことにルフェーヴルのこの申し出を断る術がベルナールにはなかった。


 ルフェーヴルは娼館生まれの娼館育ちだが、その父親は別の侯爵家の者で、母親も元は没落した男爵家の娘だった。


 つまり血筋は意外にもきちんとした貴族なのだ。


 爵位は持っていないが、これから爵位を求められたらそれなりのものを与えられるくらいには良い働きをしている。


 暗殺者という家業は実入りが良いらしい。


 服装はいつも同じだが、よく見れば質の良い生地を使っているし、武器はいつだって上等なものだ。


 闇ギルドを仲介して支払っている額は相当なものなので、仲介料を抜かれたとしてもかなりの額を手にしているはずだ。


 王女を外に出さず、子を成さず、飼い殺す。


 それは隠された王女の存在を知った、クーデターに参加する予定のどの貴族も一度は考えたことだろう。


 王女、もしくはその子供は王族派の貴族達の旗印になってしまう可能性がある。


 出来るならばその隠された王女に子を成させたくない。


 もし成させるとしても、クーデターに参加した貴族の中でも信用に足る家柄でなければならない。


 そういう点では養子として受け入れ、成人後に籍を抜き、表向きは息子の側室の地位を与えて子を成させないことも実は考えたことがある。




「だが、本人がそれを了承するのか?」




 しかし今その選択肢は潰えた。


 もしもルフェーヴルを無視して息子と結婚させようとしたら、恐らく、この暗殺者は何の躊躇いもなく息子を殺すだろう。


 息子に限らず、王女の相手として名を挙げられた者は誰であろうと殺されてしまう。


 闇ギルドでも「勝てる者はそういない」と紹介された暗殺者だ。


 殺すことにかけては群を抜いている。


 ルフェーヴルは傾けていた首を戻す。




「断るなんて選択肢がないくらい、ドロッドロのデロッデロに甘やかしてオレに依存させてあげるから問題なーし」




 あはは、と笑うルフェーヴルにゾッとする。


 元々普通ではないと感じていたが、どうやらこの暗殺者はベルナールの予想通りまともな思考の持ち主ではないらしい。




「そういうことだから、ヨロシクね?」




 平然と依頼主に殺気を向ける暗殺者に頷き返す。


 どうにかしてやりたいが、多分、どうにもならない。


 言いたいことを言って満足したのか、ルフェーヴルは来た時と同様に挨拶もなく姿を消した。


 殺気が消えたことでベルナールは肩の力を抜く。


 ルフェーヴルに好かれてしまった幼い王女が憐れでならなかった。

 






 

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