洗礼(2)
見つめられて頷き返す。
「はい、よろしくお願いします」
大司祭様がにこりと微笑んだ。
「まず、王女殿下にはあの泉に入っていただきます。泉の水は特別なものですので衣類が濡れることはございません。そうして、中心にある女神イシースの像に触れ、祈りを捧げてください」
「何について祈ればいいのでしょうか?」
「あなたの望む未来や欲する物、大切な人々、自分のこと、何でも構いません。祈りを捧げると女神像の足元に水晶板が生まれます。それを持って泉を出てください。これで洗礼は終わりです」
思ったよりも簡単に終わるらしい。
もっと仰々しいイメージがあったのでホッとする。
「水晶板はどうするのですか?」
「教会にて保管させていただきます。厳重に保管されますので、情報が漏れる心配はございません」
「分かりました」
お父様とお兄様を見れば頷き返される。
ルルから離れて泉へ近付く。
泉の水自体が淡く発光していることに気付く。
前世にも、洞窟に繋がった海が光るという現象があり、テレビで見たけれど、それに近い。
下からライトで照らすというより、水そのものから光があふれているような、不思議な光景だ。
一瞬躊躇ったが、そっと足を出す。
とん、と足の裏に感触があった。
…………あれ?
足の裏で確かめながら体重をかける。
少し柔らかな土を踏んだ時のような感触が足の裏にあった。
踏み出しても、体は水に沈まなかった。
……水に入るってこういうこと?
淡く発光した泉の水面をゆっくりと歩く。
歩く度に水面に波紋が広がり、それによって部屋を満たす青が揺れる。
そうして女神像の前に立つ。
見上げた女神様はやはり目を閉じていた。
両腕を軽く広げ、誰かが抱き着くのを待っているかのような体勢だと思った。
わたしが駆けて行くとルルがよくするのだ。
自然と体が動き、女神像にゆっくりと抱き着いた。
石造りの像だけれど、母親に抱かれたならば、きっとこんな風なのだろうと頭の片隅で感じた。
言葉では言い表せない安心感に目を閉じる。
どんな内容でもいいから祈りを捧げてくださいと言われたが、わたしの願いはずっと前から決まっている。
……いつまでもルルと一緒にいられますように。
ルルと一緒にいられるなら、それ以外のものを全て手放しても、捨てても構わない。
ただ、大好きな人と共にいたい。
ルルと笑い合って過ごしたい。
豪華な食事も、綺麗なドレスも、高価な宝飾品も、王女という立場さえいらない。
……ルルだけでいいの。
ルフェーヴル=ニコルソンという人間だけがわたしの世界で、命よりも大事な人だから。
ふわ、と花のようないい匂いがする。
心地好い温かさに全身が包まれた。
誰かがわたしの頭に触れた気がした。
それにつられるように目を開けて体を離すと、足元に透き通った淡い青色の板がいつの間にか置かれていた。
……これが水晶板?
それを手に取り、振り返って泉から出る。
途端にお兄様に抱き締められた。
「リュシエンヌ、大丈夫か? 疲れていないか?」
心配そうに顔を覗き込まれて首を傾げてしまった。
「うん、大丈夫です……?」
何故心配されるのか分からなくて見回せば、お父様も、大司祭様も、司祭様も酷く驚いた顔をしている。
ルルだけはいつもの緩い笑みを浮かべていた。
お兄様から解放される。
「泉が強く光ったんだ。私の時も光ったがあそこまで強くなかったし、祈りを捧げている間、とても疲れたんだが……」
「そうなんですか? わたしはとても心地好かったです。それにお花のいい匂いもして、女神様が頭を撫でてくれたような気がしました」
言いながら、ふと水晶板を見る。
そこにはわたしの名前やら何やらが色々書かれていたが、目的であるスキルの項目を目で探す。
そこには三つの文字が書かれていた。
精神的苦痛耐性、肉体的苦痛耐性、毒耐性。
……これって良いスキルなの?
まじまじと板を眺めるわたしにお兄様が問う。
「その、どうだった? スキルの数は……」
「三つあります」
「そうか、私とお揃いだな!」
お兄様の表情が明るくなる。
それにしても何でお父様も大司祭様も司祭様も黙ったままなのだろう。
まあ、いいかと思いながら板を下まで読む。
…………ん?
「女神イシースの加護?」
わたしの呟きに大司祭様がハッと我に返った様子で駆け寄って来た。
「加護? 殿下、もしや女神イシースの御加護をお持ちなのですか?!」
その勢いに気圧されつつ、頷き返す。
「は、はい、そう書いてあります。えっと、お父様とお兄様も確認してみてください」
声をかければ、お父様も近付いてきて、お兄様と一緒にわたしの手元の水晶板を覗き込む。
ついでにルルも手招いて見てもらう。
三人はわたしの水晶板を見て頷いた。
「確かに加護がある」
「あるな」
「あるねぇ」
それを聞いた大司祭様がわたしの前で跪いた。
「おお、何と、何と……! 御加護を授かった方と生きているうちにお会いすることが出来るとは……!!」
震える声で、涙でも流しそうな勢いで両手を組んで、祈りの体勢をとる。
そのまま平伏してしまいそうだった大司祭様の肩を、慌てて手で止めたけれど、大司祭様のわたしを見る目は変わっていた。
まるで神様にでも会ったみたいな顔だ。
尊敬と、忠誠心と、崇拝のこもった眼差し。
「大司祭殿、場所を移して詳しく訊きたいのだが」
お父様の言葉に大司祭様は慌てて立ち上がる。
「ああ、申し訳ございません。私としたことが喜びのあまり我を見失っておりました。……どうぞ、こちらへ。……ハロルド殿、後は任せますよ」
大司祭様はよほど興奮しているのか司祭様の返事を待たずに扉を開けた。
わたし達は大司祭様に連れられてその部屋を出る。
そうして部屋の前にいた護衛騎士達を連れて大聖堂の更に奥へ進み、どうやら大司祭様の私室らしき場所へ招かれた。
大司祭様は私室の前にいた聖騎士達に人払いをするように言い、わたし達を部屋へ入れる。
大きな本棚とシンプルな書斎机、来客用のテーブルとソファーがあるだけの質素な部屋だ。
護衛騎士達は部屋の外に立った。
ソファーを勧められて三人とも座る。
ルルはわたしの斜め後ろに立って控えた。
大司祭様はわたし達の向かい側に腰を下ろした。
「まず、王女殿下の洗礼が無事に済みましたこと、お祝い申し上げます」
「ありがとうございます」
頷き返すと大司祭様が心底嬉しそうに微笑んだ。
よく分からないが大司祭様の中でわたしの好感度がとんでもなく跳ね上がっていることだけは理解出来る。
「それで、加護とはどういうことだ?」
お父様の問いに大司祭様が真面目な顔になる。
「まず加護というものについてご説明させていただきます。加護はスキルや魔法とは似て非なるものです。常時その効果を発動している、一種の特殊な状態であり、加護は女神のみが与えることが出来るのです」
大司祭様の説明はこう続いた。
加護の効果は、加護を与えられた者の肉体を丈夫にし、病にかからず、とても長生きさせるらしい。
どのような大怪我を負っても、それこそ、首を切断でもしない限り死なないそうだ。
それほど加護の効果は強いという。
そうして加護を受けた者は周囲の人々に幸運を、国に豊穣をもたらすとされている。
そのため教会は加護を持つ者が女性ならば聖女、男性ならば聖人と呼び、平民であれば手厚い保護を行うものなのだそうだ。
「王女殿下はその加護をお持ちなのです」
大司祭様の言葉にお父様が眉を寄せた。
「しかしそのような話は聞いたことがない」
「教会が把握している限り、この国で御加護を授かった者が発見されたのは今より五百年余り前のことでございます。他国でも、もう二百年ほど見つかっておりません」
「話が廃れたか」
「はい、恐らくは……。前回の聖人様は御加護があることを公開せずにお暮らしになられたので、人々の記憶から忘れ去られてしまったのでしょう」
だから大司祭様は『生きているうちに会えたこと』にあんなに感動していたのか。
この国で五百年、他国でも二百年経てば、話を覚えている人間がいる方が珍しいだろう。
教会は保護する側として、記録していたからこそ、知識として残っていた。
「リュシエンヌが加護持ちであることは、公開しない方が良さそうだな」
お父様が考える風に顎を撫でた。
それに大司祭様が深く頷いた。
「ええ、その方がよろしいかと。他国に知れ渡れば、王女殿下を得るためにどのようなことでもするでしょう」
「そんなに?」
お父様の問いに大司祭様が悲しそうに眉を下げた。
「加護とはすなわち女神の愛なのです。女神に愛された者がいるということは、それだけで、数多の恩恵を得られるものでございます」
お父様が難しい顔で「そうか……」と呟く。
加護、加護、どこかで聞いた気が……。
……あ、そうだ、原作だ!
そういえばお兄様のルートに入ると、ヒロインちゃんが秋の豊穣祭で女神様に祈りの歌を捧げて加護を授かり、それで国王であるお父様が二人の結婚を認めるって話があった!
お兄様のハッピーエンド確定時のみ出てくる要素!
……そっか、だから原作のハッピーエンドではスムーズにヒロインちゃんとお兄様が結婚出来たんだ。
男爵家の庶子であるヒロインちゃんとお兄様は身分的にも血筋的にも結婚するのは難しい。
でも加護持ちとして、聖女として立場を公表していたら、きっと誰も反対しないだろう。
……でも何でわたしまで?
原作でリュシエンヌが加護持ちという描写はなかったはずだ。
いや、でも、魔力がないというのもハッキリ表現されていた内容ではなかったし、もしかして加護についてもそうだったのかも。
それとも原作から色々外れて何か変わったのか。
「とにかく、リュシエンヌの加護については他言しないようにしてくれ」
「かしこまりました」
大司祭様は神妙な顔で頷いた。
もし公表したら注目の的になるだろう。
わたしは目立ちたくないし、そんなことをしたら十六歳になった時にルルと結婚してひっそり暮らすという計画も潰れてしまう。
思わず身を乗り出して大司祭様にお願いする。
「大司祭様、どうか、わたしのことは秘密にしてください。もし加護のことが知れ渡れば、お兄様ではなくわたしを王位に据えようとする者も出るかもしれません。わたしはそのようなことは望んでいないのです」
そう伝えれば大司祭様は頷いた。
「はい、もちろんです。教会は洗礼を受けた者の情報について外部に漏らすことはありません。特に御加護を授かった王女殿下にそのようなことをすれば、女神様より恐ろしい罰が与えられるでしょう」
「よろしく頼むぞ」
「はい。では王女殿下、手にお持ちの水晶板を渡していただけますか? 誰かに見られないよう私が直に保管庫へ持って行きましょう」
差し出された手に水晶板を渡す。
すると大司祭様がそれにハンカチをかけて、表面の文字が見えないように隠した。透明だけど、裏側からは文字が見えないのが不思議だ。
大司祭様は聖騎士を呼び、わたし達は聖騎士の案内で大聖堂を後にした。
外の明るい日差しに出ると少し眩しい。
ずっと停まって待っていてくれた馬車に乗り込み、ファイエット邸への帰路に着く。
お父様もお兄様も難しい顔をしたままだった。
「でもこれで一つ疑問が解消されたねぇ」
ルルだけは変わらずに緩く笑った。
わたしは首を傾げた。
「何が?」
「リュシーが後宮で生き抜けた理由〜」
「……あ、なるほど……?」
小さな子供が後宮で虐げられながらも五年間も生きていられた理由。
女神の加護があったから死ななかったのだ。
考えてみれば、普通の小さな子供が放置されて、まともに食事も与えられずに生き残る方が難しい。
わたしは加護があったから生き抜けた。
そういえばちょっと熱を出すことはあっても風邪をこじらせることもなかったし、怪我も洗って放っておいただけなのに大体治っていた。
それもこれも女神の加護のおかげかもしれない。
……それに肉体と精神の苦痛耐性。
あのスキルもあったから耐えられたのだろう。
もしくはあのような体験のおかげでスキルを手に入れたのか。
毒耐性に関しては当時の食べ物事情によって得たスキルのような気がしないでもないけれど。
酷い時はカビたパンとかでも食べていたし。
食べ物と言えば、わたしに一度だけ食事を隠して渡したことで後宮をクビになったメイドだが、この五年間で見つけ出すことが出来た。
お父様が探してくれて、その元メイドの女性はクビになった後に生まれ故郷に帰って地元の商家の男性と結婚していたそうだ。
話によると二児の母となっていたらしい。
だからお父様は王女を助けた褒賞として金貨を与えてくれた。
その女性は酷く恐縮していたが、わたしが感謝していたことを伝えると、泣きながら震える手で大事そうに受け取ったという。
わたしはお父様にも感謝した。
ルルが「まあ、でもぉ」と見下ろしてくる。
「女神サマの加護があってもなくても、リュシーはリュシーだよぉ」
よしよしと頭を撫でられて安心する。
ルルの言葉にお父様とお兄様が顔を上げた。
「そうだな、加護については公開するつもりはない。リュシエンヌは今まで通り過ごしていれば良い」
「そうですね、黙っていれば良いことです」
そういうことで、わたしの加護に関しては他言無用となった。
お屋敷へ帰るとみんなが出迎えに出ており、無事洗礼を終えたこと、三つのスキルがあったことを報告すると誰もが手放しで喜んでくれた。
メルティさんが「ご兄妹で同じなんてすごいですね」と言い、お兄様が「そうだ、私達は兄妹だからきっと似たんだろう」と自慢げに話していた。
……前から思ってたけどお兄様ってシスコンだよね。
原作ではリュシエンヌと険悪だったから知らなかったが。
自分のことのようにわたしのことを自慢するお兄様を見ていると笑みがもれる。
お兄様と仲良くなれて良かった。
お父様はその足で王城に戻ってしまったけれど、お祝いの品を沢山用意してくれていて、夕食まではそれを開けるという楽しい時間が待っていた。
その日の夕食が豪華だったのは言うまでもない。