リュシエンヌの成長
リュシエンヌは九歳になった。
このファイエット邸に来て四年が経った。
出会った当初は実年齢よりも小さくて痩せすぎていた体も、この四年の間に十分な栄養と休息を得て、グングンと伸び、現在は同年代の子供よりやや背が高いというくらいまで成長している。
体は相変わらず華奢だが、病的な痩せ方ではなく、動き回って運動しているため、ほどよい筋肉のしなやかさがある。
身長に関してはファイエット邸の執事がそう言っていたので、リュシエンヌは同年代の子供達よりもやや長身なのだろう。
それでもルフェーヴルから見ればまだまだ小さい。
十一歳のアリスティードもそうだ。
同年代の子供よりも大きいそうで、ルフェーヴルの胸の辺りまで伸びている。
「いつかお前より高くなる」と言われたが、実はルフェーヴルもこの四年間で背が伸び、体格も以前より安定したものとなった。
それでも必要以上の筋肉をつけないように気を付けているため、ルフェーヴルは服を着ていると痩身に見えた。
アルテミシア公爵家の次男ロイドウェルはあれから頻繁にファイエット邸を訪れているが、無理にリュシエンヌに近付くような真似はしていない。
ルフェーヴルについて聞いたのか三度目の訪問でリュシエンヌと共にルフェーヴルが現れると僅かに顔色を悪くしていた。
それでもロイドウェルがやって来ると、時々アリスティードはリュシエンヌに声をかけ、リュシエンヌはそれに応じてロイドウェルに会った。
ロイドウェルは遠回しに何度も「自分は王女殿下を害するつもりはない」「アリスティードの友人として、友人の妹とも仲良くやっていきたい」という主張を繰り返した。
リュシエンヌは表面上はそれを受け入れた。
「お兄様のお友達だから」と言っていたが、そうでなければ関わりたくないという意味でもあった。
そしてたまにアリスティードとロイドウェルとリュシエンヌの三人でお茶会をしたり、二人の剣の試合をリュシエンヌが見学したり、表面上の付き合いはしている。
だがリュシエンヌはロイドウェルを警戒したままだった。
ロイドウェルもリュシエンヌとの間に壁があることを感じ取っているようで、無理に踏み込んでくることはせず、様子を窺っている風だ。
アリスティードも二人の間の壁に気付いているみたいだが、今のところは触れずにいる。
四年前は可愛らしいだけだったリュシエンヌの顔立ちは、成長して美しさが少しずつ加わり、大人びた雰囲気を感じる時もある。
実際、ロイドウェルの前では大人しいご令嬢として振る舞っている。
しかし普段は活発で、相変わらず屋根や木に登るし、まだたまに屋敷内を走り回ることもあり、お転婆姫なままであった。
それでもミハイル以外の教師達の前では澄ました顔で王族の姫君らしく淑やかに振る舞うものだから、時折アリスティードがその落差に笑いを堪えていることがある。
そういう時、リュシエンヌはこっそりとアリスティードの背中をつついたり、爪先を軽く踏んだりして、アリスティードは義妹の気安いその行動をどこか嬉しそうに受け入れていた。
たった四年。されど四年。
リュシエンヌの成長を間近で見て、ルフェーヴルは素直に面白さを感じていた。
小さなリュシエンヌの背が日に日に伸びて、様々な知識を身につけて変わっていく様は不思議なもののようにも感じられた。
けれども変わらないこともある。
「ルル!」
ぱたぱたと軽い足音が駆けてくる。
明るい声に自然と笑みが浮かんだ。
まだまだ小さな体が勢いよく腕の中に飛び込んできて、それをルフェーヴルは難なく受け止めた。
「おかえり!」
ルフェーヴルがアリスティードと共に出掛けている間、ずっと待っていたのだろう。
玄関に馬車が停まったのを見て駆けて来たのか、艶のあるダークブラウンの髪が少し乱れてしまっていた。
それを手で直してやりながら見下ろせば、キラキラと輝く琥珀の瞳と視線が絡む。
何の屈託もない笑顔を見るとホッとする。
この四年間ずっと傍にいたからか、ルフェーヴルもリュシエンヌも、離れていてもつい互いの姿を探してしまうようになっていた。
「いい子にしてたぁ?」
ルフェーヴルの問いにリュシエンヌが頷いた。
「うん」
「そっかぁ、偉い偉い」
頷くリュシエンヌの頭をルフェーヴルが撫でる。
互いに満足行くまで撫で、撫でられてから、二人は体を離した。
そうしてリュシエンヌはルフェーヴルの手を握る。
「ルル、早く部屋に行こう」
あまり強くない力で引っ張られる。
それに抵抗せず、リュシエンヌを先頭にルフェーヴルと、付き添っていた侍女のリニアが後を追う。
ふとルフェーヴルはリュシエンヌから甘い匂いがすることに気が付いた。
……お菓子でも食べた?
時間的にティータイムには早い。
またメイド長がこっそりおやつを与えたのか。
そのようなことを考えているうちにリュシエンヌの部屋に着き、リュシエンヌが扉を開けた。
同時に甘い匂いが漂ってくる。
「はい、ルル、ここに座って」
促されるまま部屋に入り、ソファーに座る。
リュシエンヌも横に腰掛けた。
目の前のテーブルにはクッキーの並んだ皿が置かれていた。
どうやら甘い匂いはこれだったようだ。
よく見ると、クッキーはどれも形がやや歪で、所々僅かに焦げ目もある。
……もしかして。
「これ、リュシーが作ったの?」
思わず目を瞬かせながら訊くと、リュシエンヌが恥ずかしそうに両手を合わせてもじもじと動かした。
「うん、メイド長に教えてもらいながら作ったの。ルルに食べてほしくて」
その時の感情をルフェーヴルは表現出来なかった。
喜びではあったが、それ以上に衝撃のようなものを感じていた。
……リュシエンヌが作った?
今までリュシエンヌに与えることが当然だったルフェーヴルにとって、まさかリュシエンヌが自らお菓子を作ってルフェーヴルに食べてもらおうとするとは考えてもいなかった。
「あ、あのね、生地を伸ばすのは手伝ってもらったけど、材料を入れて混ぜたり型を抜いたり、焼き加減を見たりはわたしが自分でやったの」
だから形が歪だったり若干の焦げ目があるのか。
思わずルフェーヴルはリュシエンヌを見た。
「初めて作ったけど、自分で味見もしたからまずくないよ」
期待に満ちた琥珀の瞳に見つめられる。
皿に手を伸ばし、手前のクッキーを一枚摘み、口元へ持っていって、一口かじる。
普段のクッキーよりもやや固いが、固すぎるというほどでもなく、味はシンプルなものだった。
ジッと見つめる琥珀にルフェーヴルは笑い返した。
「おいしいよぉ」
その言葉にリュシエンヌの表情がパッと明るくなる。
「本当?」
「ほんとほんと〜。初めてって言ってたけどぉ、上手に出来てるねぇ」
「……また作ったら食べてくれる?」
「もちろん、リュシーが作ったものなら大歓迎だよぉ」
二枚目に手を伸ばしながら言えば、リュシエンヌが「やったー!」と声を上げて喜んだ。
二人の侍女が微笑ましそうにそれを眺めている。
二枚目を食べつつ、ルフェーヴルは口を開いた。
「でも次はリュシーが作ってるところも見たいなぁ」
「作ってるところ?」
「うん。それでオレも作り方覚えるからさぁ、その次は一緒に作ろうよぉ」
不思議そうに瞬いた琥珀が一際キラリと煌めいた。
「うん、一緒に作る」
決意を込めた声でそう言った。
その瞳が「それ楽しそう!」と物語っている。
三枚目を摘みながらルフェーヴルは「でしょ〜?」と返事をした。
リュシエンヌが一生懸命クッキーを作る姿はきっと可愛いだろう。
次はそれを眺めて、その次は一緒に作る。
初めて作っているところも本音を言えば見たかったが、意外と負けず嫌いなところのあるリュシエンヌなので、失敗したら恥ずかしいと思ったのだろう。
例え失敗したとしてもルフェーヴルは失敗作のクッキーを食べた。
「アリスティードにはあげたのぉ?」
訊いてみると、リュシエンヌが頷いた。
「お兄様の分は、ティータイムの時に出してもらうようにお願いしてあるの」
「他に食べた人は〜?」
「いないよ。味見をしたのはわたしだけ。だから、わたしがクッキーをあげたのも、作ったクッキーを食べてもらったのもルルが一番最初だよ。だってルルのために作ったんだもん」
「そっかぁ、ありがとねぇ」
リュシエンヌの頭をよしよしと撫でる。
それだけで心底嬉しそうにリュシエンヌが笑った。
アリスティードの分があるのは少々気になるが、それでも、一番最初にもらい、食べたのが自分だということにルフェーヴルは不思議な満足感を覚えた。
ルフェーヴルはリュシエンヌが何も出来なくても構わないと思っていた。
侍女二人はリュシエンヌとルフェーヴルの関係を知っており、結婚後も、リュシエンヌについて行くと言った。
ルフェーヴルも他のメイドならば拒否したが、この二人の侍女に関しては、リュシエンヌの世話係として傍に置いても良いと考え始めていた。
リニアもメルティも、リュシエンヌとルフェーヴルの邪魔をせず、リュシエンヌも二人の侍女にはかなり懐いている風だった。
突然知らない使用人をつけるより良い。
だからリュシエンヌが身の回りのことを出来なくとも何も問題はない。
そう考えていたが、リュシエンヌは自分で出来ることは自分でやりたがった。
侍女達の仕事を奪うようなことはせず、お茶の淹れ方だったり、寝間着の着方だったり、髪の梳かし方であったり、内容は些細なものばかりだ。
それでも着実に出来ることが増えている。
そして大半はルフェーヴルに関係していた。
服の着方はともかく、お茶の淹れ方も髪の梳かし方も、リュシエンヌは結婚した後にルフェーヴルにしてあげたいことだから覚えるのだと言った。
ルフェーヴルにお茶を淹れたい。
ルフェーヴルの髪を梳きたい。
そういう思いから来ている行動だと分かってからは止めなくなった。
このクッキーも食べるのがどこか勿体ないが、また今度作ってくれるのだろうと思うと食べる手が自然と進む。
さくさく、さくさくとクッキーを食べるルフェーヴルを、リュシエンヌが嬉しそうにニコニコ顔で見ている。
皿に並んでいたクッキーはあっという間にルフェーヴルの胃の中へ消えていった。
嬉しいことに、クッキーはシンプルなものと、チョコレートを混ぜたものとがあった。
ルフェーヴルはチョコレートが好きだ。
「どっちがルルの好みだった?」
リュシエンヌの問いにルフェーヴルは言う。
「チョコレートの方かなぁ」
「そういえばルルっていつもチョコレート持ってるよね」
リュシエンヌが難しい勉強を上手に出来ると、ルフェーヴルはご褒美に時々チョコレートを与えていた。
公用語も、南方語も、西方語も、北方語も、東方語も、一つずつ完璧に覚えた時にも与えた。
いつも与えるのは一粒だけれど、ルフェーヴルが買うチョコレートは高級店のものなので美味しく、リュシエンヌは喜んだ。
「うん、チョコレート好きだからねぇ」
それにリュシエンヌが真面目な顔で「分かった、ルルが好きなものは覚えたよ」と頷いた。
「次はチョコレートクッキー沢山作るね」
ルフェーヴルによって空になった皿を見て、リュシエンヌがニコリと笑う。
だからルフェーヴルも「うん」と頷き返す。
「山ほど作ってもいいよぉ」
その言葉にリュシエンヌは深く頷いたのだった。
そしてその日のティータイム。
リュシエンヌが作ったクッキーを見て、アリスティードが大いに喜んだのは言うまでもなかった。
やがてリュシエンヌのお菓子作りにルフェーヴルが加わり、更にリニアとメルティも混ざり、最終的にそれを知ったアリスティードも入った大所帯になるのだが、それもまた、ファイエット邸の日常と化していった。
ちなみに、二度目からは父親であるベルナールにもクッキーが届けられるようになった。
毒味を通してからではあったが、アリスティードとリュシエンヌの作ったクッキーをベルナールが密かに楽しみにしていたことを知るのは、王の側近だけである。