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ルルとリュシーの街歩き(1)

 






 きっかけはグラスをぶつけたことだった。


 中身を飲み終えたグラスをテーブルに戻そうとして、表面に薄っすら汗をかいていたため、手からつるりと滑り落ちてしまったのだ。




「あっ」




 グラスは落ちて倒れて、テーブルにぶつかるとガチャンと大きな音を立てた。


 思わずグラスに手を伸ばそうとすると、傍にいたルルがわたしの手を掴む。




「リュシー、大丈夫ぅ? 怪我してな〜い?」




 掴んだ手を確認される。




「うん、だいじょうぶ。……でもグラスが……」




 控えていたリニアさんが近付いてきて、テーブルの上に散らばった破片とグラスを手早く片付けていく。


 中身は飲み切ったのでこぼれていない。


 しかし、明らかに高そうなグラスだった。


 リニアさんが首を振る。




「姫様がお気になさることではございません。グラスでしたら新しいものをご用意いたしましょう」


「おねがいします……」




 物を壊すなんて初めてのことで少しショックだ。


 今まで、何かを使う時には気を付けていたのに。


 ……あのグラス、どのくらいの値段なんだろう。


 リニアさんが片付けたグラスの破片を思い浮かべ、ふと重大なことに気が付いた。




「ねえ、ルル、お金ってなんていうの?」




 わたしの質問に部屋の中にいたルルとリニアさん、メルティさんがぴたりと止まった。





「え? それってどういう意味?」




 珍しく間延びしていないルルに聞き返される。




「あのグラス、一つでどのくらいお金がかかるの?」


「侯爵家で使用しているグラスはおよそ金貨二枚から五枚程度かと」


「きんか?」




 よく分からないが高いことは分かる。


 小首を傾げたわたしにリニアさんとメルティさんが「まさか……」とルルを見る。


 ルルは「あ、そっかぁ」と訳知り顔で頷いた。




「リュシーは後宮でもココでも、お金使ったことも、見たこともないんだっけぇ? そういえばお金について教えたことなかったよぉ」




「ごめんねぇ?」とルルが頬を掻いた。


 リニアさんとメルティさんは声を出さずに驚愕の表情を浮かべている。




「ううん、きかなかったわたしが悪いから」




 ルルが魔法の詠唱を呟いて、空中に出た魔法陣に腕を突っ込んだ。


 この空間魔法も見慣れたものだ。


 そこから何やら袋を取り出す。




「じゃあ今からちょ〜っとお金の勉強しよっか〜」




 ルルの言葉に頷いた。


 テーブルの上に三枚の色の違う硬貨が置かれた。


 わたしから見て左から金色、銀色、茶色のものとなっている。




「まず一番右の茶色のやつは銅貨だよぉ。お金の中で一番価値が低いのがこれだねぇ」




 これ、と茶色の硬貨を指差される。




「次に真ん中のやつ、これは銀貨だよぉ。銅貨の次に価値があるんだあ。ちなみに銅貨十二枚で銀貨一枚と同じ価値だよぉ」




 指が横にズレて真ん中の硬貨を示す。




「最後に残ったこれが金貨でぇ、三つの硬貨の中で一番価値が高いよぉ。銀貨二十枚で金貨一枚と同じ価値だからねぇ」




 最後に金色の硬貨を示される。




「さて、問題〜。金貨一枚は銅貨何枚分になる〜?」




 ルルの出した問題を考える。


 金貨一枚は銀貨二十枚。


 銀貨一枚は銅貨十二枚。


 つまり十二枚が二十ということなので。




「きんか一枚は、どうか二百四十枚?」


「正解〜」




 よしよしと頭を撫でられる。




「ねえ、どうか一枚で何がかえる?」


「そうだねぇ、オレの頭の半分くらいの大きさのパンが一つ買えるよぉ」




 ……銅貨一枚で大きなパン一個。


 だとしたら、先ほど割ってしまったグラスは金貨二枚から五枚、つまりパン四百八十個から千二百個分。


 ……パン一個が百円だとしても、あのグラスは四万八千から十二万円の間の値段ということで……。


 予想以上に高いグラスを割ってしまった。




「グラス、たかいんだね……」


「あ」




 肩を落としたわたしにルルが「しまった」という顔をした。




「わたし、たくさんおべんきょうしたけど、知らないことはまだまだあるね……」




 きっと今着ているドレスだってビックリするくらい高いものなのだろう。


 わたしの身の回りにあるものは多分どれもそうだ。




「それに今までお金のこともかんがえたことなかった」




 しょぼくれるわたしにルルが「ん〜」と小首を傾げて何か考える仕草をする。




「リュシー、街に出てみない〜?」


「え?」




 その提案に驚いた。


 外に出ようという気が今まで全く起きなかったのもそうだけど、ルルからそういう風に外の世界について言及されたことがなかったから。


 てっきりルルはわたしを外に出したくないのだと思っていた。




「オレとしてはリュシーには安全な場所にいてもらいたいけどぉ、お金に触ったことも使ったこともない王女サマっていうのはちょ〜っとまずいと思うんだよねぇ」


「どういうこと?」




 ルルの言葉に今度はわたしが首を傾げた。




「ほら、前の王族は贅沢三昧で国庫を食い潰してたでしょ〜? それもあって今は王族も貴族も昔ほど贅沢しないっていうかぁ、あんまり派手に贅沢してると、周りから『あの家は旧王家みたいに〜』って顰蹙を買うんだよぉ」


「そうなの? でも、きぞくがかうのをひかえたら、ドレスとか作ってる人のおしごとへらない?」


「そこはそれ、分かりやすく宝石ギラギラさせたりしなければいいんだよぉ。旧王家みたいな装いや散財は良くないってことだねぇ」




 ……そうなんだ。


 でもそれが何故わたしが街に出ることに繋がるんだろうか。




「それで、今の王家は国民に親しまれる王家っていう感じでいきたいわけぇ。でも王女であるリュシーが『お金の価値も知りません』『使ったこともありません』だったら、みんなはどう思う〜?」


「……きゅう王家の人と同じってかんじるかも」


「そういうことぉ。そうならないためにも、リュシーはお金の使い方や物の価値を勉強しておいた方がいいんじゃないかなぁ」




 ……なるほど、だから街に出るのか。


 物の値段を知るなら市場を見て回るのが一番いい。


 ルルの提案に頷き返す。




「まちに出てみたい。でも、いいのかな?」




 わたしが勝手に出掛けたらお父様に迷惑がかからないだろうか?


 そもそも外に出てもいいのだろうか?


 リニアさんが頷いた。




「騎士達を連れているのであれば、姫様の外出の許可は出ております」


「そうなの?」




 てっきり外出はダメなのだとばっかり思っていた。


 一度もお屋敷の外について言われたことがなかったし、お屋敷の中だけで生活に事足りていたので、外についてはあまり気にしたことがなかった。


 何よりこの琥珀の瞳は旧王家の象徴だ。


 外出しても街の人から冷たい目で見られることを考えたら、外に出たいとも思わなかった。




「はい、姫様が外に出たいとおっしゃられた際にお忍びで外出出来るようにご用意もしてあります」


「知らなかった……」


「陛下は、姫様が興味を示されない限りは無理に外へ出す必要はないとお考えのようです」




 つまりはわたしの意思を尊重してくれていたのだ。


 だからお父様もお兄様も、わたしに外に関することを聞かなかったのか。




「どうする〜?」




 ルルの問いに答えは決まっていた。








* * * * *









 翌日、わたしは昼食後に服を着替えた。


 いつもの重たいドレスではなく、最初の頃に着ていたようなワンピースで軽い。


 白い寝間着みたいなワンピースに、膝より長い靴下を履いてリボンで縛って留める。


 艶のない赤に小花柄のコルセットはベストみたいな形で、両腕を通したら左右に紐を通して、ストマッカーと呼ばれる胸当てみたいなものを当てて、紐を絞る。


 次にペティコートという筒のスカートを頭から被って、腰のところで紐を絞って結ぶ。


 それからコルセットと同じ柄のペティコートをもう一枚着て、腰のところで紐で固定する。


 最後にコルセットやペティコートと同じ柄の頭巾をつけ、革のブーツを履く。




「大変お可愛らしいです、姫様」


「これならば裕福な商家の娘くらいに見えるかと」




 メルティさんとリニアさんが頷いた。


 そうして部屋の扉が叩かれる。


「どうぞ」と言えばルルが入ってきた。


 ルルも侍従の服ではなく、街の人が着ているのだろう普段よりもラフな格好だ。ラフでも格好良い。


 わたしの格好を見てルルも頷いた。




「リュシー、かわいい〜」




 近付いて来て抱き上げられる。




「でも、目はかくせないよ?」




 むしろ顔が丸見えである。




「それは大丈夫だよぉ」




 ルルが魔法の詠唱を呟きながらわたしに手を翳す。


 リニアさんが手鏡を持って、わたしの顔をそこに写した。


 ……あ、目の色が灰色になってる!


 まじまじと鏡を見ているとルルが笑った。




「幻影魔法でちょ〜っとね。これならオレとリュシーは兄妹に見えるでしょ?」




 確かに若干色味は違うけれど茶髪に灰色の瞳なので兄妹と言われたら、そうなのかと納得してしまうかもしれない。




「ルルとおそろいだね」


「そうだねぇ、今日はオレがお兄ちゃんだよぉ。さあ、準備出来たし行こうかぁ?」




 わたしを抱えたままルルが歩き出す。


 後ろでリニアさんとメルティさんが声を揃えて「行ってらっしゃいませ」と頭を下げた。


 それに小さく手を振り返して廊下に出る。


 そのままルルは正面玄関まで向かう。


 お兄様は今日は授業があるので来られない。


 ものすごく残念そうにしていたので、お土産を買ってこよう。


 わたしがお出掛けした時用にお父様はいくらかお小遣いも用意して、オリバーさんに預けていたそうで、それを今はルルが持っている。


 そして護衛として騎士が何人かついて来ることになったけれど、わたしとルルの傍にいるのは二人だけで、後はそれぞれ少し離れて警護してくれるらしい。


 玄関の外には騎士二人と馬車が一台停まっており、御者が扉を開けて待っていた。


 わたしを抱えたルルが近付くと私服姿の騎士二人は背筋を伸ばして、礼を執り、本日わたしの護衛にあたることと名前を告げられた。


 わたしもそれに「よろしくおねがいします」と頷き返す。


 こういう時、頭を下げたくなるけど、王女は気軽に頭を下げてはいけないとミハイル先生に何度も注意されたので今は我慢している。


 そうして馬車にわたしとルルと、騎士二人が乗り、馬車は走り出した。




「まどの外、見てもいい?」




 門を抜けた辺りで訊くと、ルルが「もう少し先に行ってからの方がいいよぉ」と言う。


 どうやらこの辺りは貴族街と呼ばれる、貴族のお屋敷が立ち並ぶ区画らしく、今見てもただ延々と門や柵が続いているだけだそうだ。


 しばらく走った後にルルがカーテンを僅かに上げて、こちらを見たので、その隙間からそっと外を見る。


 柔らかな赤い屋根に、くすんだ黄色やアイボリー色の壁をした家が密集しており、西洋の可愛らしい街並みそのものといった感じだった。


 それに人通りもそこそこある。


 馬車はゆっくりと街中を進んでいく。


 そうしてまたしばらく走ると、大通りを逸れて脇道へ入った。


 大通りには人が沢山いたのに一本脇へ入ると途端に人気がなくなって、馬車はその道を少しだけ進んでから止まった。


 今日のわたしは裕福な商家の娘で、ルルとは兄妹で、心配性な親が護衛をつけてくれているという設定らしい。




「逸れると危ないからぁ、今日は抱っこして回るよぉ」




 馬車から先に降りたルルに抱えられる。




「おもくない?」


「リュシーは軽いから全然大丈夫だよぉ」




 わたしを抱えたルルの前後に騎士がつく形で、わたし達は脇道から大通りへ出る。


 馬車は近くの馬車を停めて置ける場所で待っていてくれるそうだ。




「どこに行くの?」




 ルルへ問うと、チラと視線を向けられる。


 でもすぐにまた視線は正面へ戻った。




「この先に噴水前市場っていう、屋台が沢山ある通りがあってぇ、そこに向かってるんだよぉ」


「ふんすいまえいちば」


「そう、この王都で一番大きな噴水のある広場に繋がってる大通りの市場だからそう呼ばれてるねぇ」




 人通りの多い道を進んでいく。


 ルルに抱えられたわたしを見る人もいるけれど、わたしとルルを見ると「ああ、兄妹か」みたいな顔をした。


 騎士の一人が前を歩いているからか人にぶつかることもない。


 ルルの腕の中から立ち並ぶ家々を眺める。


 窓辺で植物を育てていたり、窓から通りを眺める人がいたりして、人通りの多さはあるが街の雰囲気は和やかだ。


 ……初めて街に出たけど怖くない。


 やがて人通りが増えていき、気付くと周りには同じように市場に向かうのだろう人達で賑やかになっていた。


 確かにこの人の量では逸れるかもしれない。


 わたしは小さいので手を繋いでいても、うっかり離れちゃったりしたら、あっという間に流されてなかなか見つけてもらえないだろう。


 そんなことを考えているうちに市場らしき屋台が見えてきた。




「リュシー、買いたい物はある〜?」




 ルルに訊かれて考える。




「おにいさまとおとうさまと、リニアさん、メルティさん、オリバーさんにおみやげがほしい」


「リュシーの物は〜?」


「……ない?」




 お屋敷には必要な物は全て揃っている。


 遊戯室なんて、せっかくあるビリヤード台が端に追いやられて、代わりにわたしが遊べるスペースが用意されているくらいだ。


 正直、今更子供の遊びなんてと思ったが、これがなかなか面白い。


 ファイエット邸の模型もあり、細部までしっかり作り込まれたそれは何時間でも見ていられるし、広いスペースはクッションも置かれていて、知育玩具みたいなもので遊ぶのに飽きたらお昼寝も出来る。


 たまにルルがどこからかボールを持ってきて、二人で遊ぶこともある。


 お腹が空けばおやつがあるし、大きくて暖かなベッドで眠り、美味しい食事に綺麗なドレス、入浴したら丁寧に髪や肌は手入れされて、毎日幸せだ。


 だから欲しい物なんて思いつかなかった。



 

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