授業(1)
翌日からミハイル先生の授業は始まった。
どうやらお兄様と時間をずらして行うようで、わたしが授業を受けている間、お兄様は剣の鍛錬やダンスの練習の時間になっているらしい。
授業は図書室で行われる。
初めての授業にドキドキしながらルルとメルティさんの三人で図書室へ向かう。
実は二週間の間に、お兄様にお屋敷の中を案内してもらったのだ。
まだ知らない場所も沢山あるけれど、前よりはお屋敷のことを知っている。
出歩くことはまだあまりないが。
図書室に着き、わたしの代わりにメルティさんが扉を叩いてくれた。
わたしだと叩いても音が全然響かないのだ。
「どうぞ」
中からくぐもった声がする。
メルティさんが扉を開けてくれた。
「ありがとう。……失礼します」
一応声をかけて中へ入る。
広い図書室の真ん中にある大きなテーブルの傍にミハイル先生がいて、こちらを見た。
……先生の方が早かったみたいだ。
「おまたせしました」
歩いて近付いていくと、ミハイル先生が腰を折る。
「いえ、私も先ほど着いたばかりでございます。リュシエンヌ様は時間通りにいらしたので、謝罪される必要はありません」
にこ、と微笑みかけられてわたしも笑い返す。
「分かりました。それとミハイル先生、わたしにはおにいさまと同じように話してください」
「かしこまりました。……今後はそのようにしましょう」
どうぞと椅子を勧められる。
ルルが魔法でクッションを取り出すと、その椅子に敷き、わたしを抱き上げるとその上に座らせた。
クッションを下に敷いて、丁度良い高さになっている。
そのまま座ったら恐らく机が高くて勉強し難かっただろう。
「ルル、ありがとう」
小声で言えば「どういたしましてぇ」と返ってくる。
そうして、ルルが本やインク壺、ペンなどを取り出して、メルティさんがわたしの前にそれを整えて置いた。
それからルルはわたしの斜め後ろに、メルティさんは近くの本棚の辺りに控える。
……ノート代わりの本に、ペン、インク、メモ用の紙。よし、必要なものは揃っている。
今まで抱えていたニコは隣の椅子に座らせた。
「では、授業を始めます」
準備が整うのを待っていてくれたミハイル先生が言う。
それにわたしも頷き返した。
「はい、よろしくおねがいします」
本を開いて、ペンを持つ。
ミハイル先生がクルクルと手に持っていた筒を動かすと、長い紙が下に垂れる。
そこには公用語で表が書かれていた。
「今日は貴族の爵位と教育について説明します。爵位については既に知っておられますか?」
質問に頷いた。
「はい、きぞくは下から、だんしゃく、ししゃく、はくしゃく、へんきょうはく、こうしゃく、もう一つ上のこうしゃくがあります。だんしゃくの下に、じゅんだんしゃくと、きししゃくいがあって、その二つは一代かぎりです」
「ええ、その通りです。そして公爵家の更に上に王族、つまり陛下やアリスティード様、リュシエンヌ様がおられます」
前にルルから爵位について教えてもらった。
だから覚えている。
「しかし貴族と言っても上下があります。騎士、準男爵、男爵、子爵は我が国では下位貴族、伯爵、辺境伯、候爵、公爵は上位貴族と分かれています」
表の伯爵位と子爵位の間をミハイル先生が手で示す。
上は上位貴族で、下は下位貴族。
分かりやすい分け方だった。
しかし貴族の爵位というだけでも身分が分かれているのに、更にまた、分け方があるらしい。
「どうして分かれているんですか?」
ミハイル先生が微笑を深めた。
「実は、下位貴族と上位貴族では求められる礼儀作法やマナーなどの教養に差があるのです。それだけでなく、婚姻するにはあまり身分の差が開き過ぎない方が良いとされています。そのため下位貴族は例え上位貴族と結婚出来たとしても、伯爵家までで、その更に上の爵位の家に嫁いだり婿入りしたりすることは滅多にありません」
「……けっこんしても、きょうようがちがうからですか?」
「そうです」
「どうして同じきょうようではないんですか?」
ミハイル先生が嬉しそうに頷いた。
「そこに疑問を感じるとは、素晴らしいですね」
手に持っていた表をテーブルの上へ置くと、ミハイル先生が別の筒を持ち出して、両手に一つずつ持つと、器用に紙を垂らしていく。
そこには何やら沢山の数字が書かれている。
右手に持ったものは長く、左手の方が短い。
「ここにあるのは一般的な伯爵家と男爵家が一人の子供に一年間教育を施した際にかかる金額です。リュシエンヌ様から見て私の右手にあるものは伯爵家の、左手にあるものは男爵家です。まず、ご覧になってどのように感じますか?」
幸いなことにこの世界の数字は元の世界で広く使われているものと同じなので、数字を読み取ることが出来る。
でも読み取らなくとも一目で分かる。
「だんしゃくけの方がみじかいので、かかっているお金が少ないです」
「はい、そうです。上位貴族と下位貴族では教育にかかる費用にも差があります。それは上位貴族の方が下位貴族よりも学ぶべき事柄が多いという点と、もう一つ、領地などの収入にも差があるからです」
……収入の差?
「領地を持たない家もありますが、基本的に貴族は領地を持っています。しかしその領地から得られる収入には差が出ます。上位貴族の治める領地の方が、下位貴族の治める領地よりも得られる税が多いのです。……さて、もしこの状態で下位貴族にも上位貴族と同じ教育をさせたらどうなるでしょう?」
「……お金が足りないか、足りても、生活がくるしくなります」
「ええ、そうなのです。ですから、あえて上位と下位という区切りを作ることで教育の範囲を分けて、家にかかる負担が減るような仕組みとなっております。子爵家はともかく、男爵家になると、婚姻を結ぶのは大抵同じ下位貴族か豪商が多いので、必要最低限の教育だけで済まされることも珍しくないのです。逆に上位貴族は王族と結婚する可能性もあるため、教育内容はどうしても多くなります」
……そっか、そういうことか。
そもそも子供の将来が違うのか。
例えば年間収入が三百万円の男爵家と一千万円の伯爵家があったとして、男爵家の子供はやがて子爵家と、伯爵家の子供は侯爵家と結婚することが決まっていたとする。
一千万円の伯爵家の子供の教育に年間二百万かかるとして、もしも国がそれを基準としてもう片方の家にも同じだけの教育を求めたとする。
そうしたら男爵家の方は家計が圧迫される。
生きていくのも難しくなる。
ハッキリ言って立ち行かなくなる。
それに同じ下位貴族同士で結婚するのに、上位貴族の教育を施したところで意味はあまりない。
それならば最初から身分を分けて、生まれた家柄によって施される教育の程度と費用が定められる。
例えば男爵家なら子供の教育費用に三十から五十万、といった具合に収入に合わせて割合を下げるのだ。
「これは法で明確に定められたものではないため、裕福な子爵家が上位貴族の教育を子供に受けさせることも可能です」
「……ほうりつじゃないんですか?」
「何と申しましょうか、古き時代からある不文律のようなものです。本当に貧乏な家では最低限の教育すら難しいところも少なくないため、法として明確にするのは難しい問題だからです」
本にメモを取りながら考える。
「きょういくを受けないこどももいるんですか?」
「はい、爵位が低い家ほどその傾向は強くなります。嫡男以外には家庭教師をつけない、という家も多いですよ」
「ぜったいにべんきょうさせなさい、ということではないんですね……」
「ええ、残念ながら」
ミハイル先生が紙を巻き戻していく。
そして最初の表を持ち上げた。
「そういった点から、上位貴族のお茶会では上位貴族のみ集めます。下位貴族のお茶会もそうです」
「上位きぞくは行ってはダメなのですか?」
「禁止はされていませんが、行くのは控えるべきでしょう。お茶会の品位にも格差がありますので、上位貴族が下位貴族のお茶会に参加するとなれば、主催側が上位貴族に合わせたおもてなしをしなければならなくなります。食器から飾り、提供する菓子、茶会で使用する家具などを上位貴族に合わせて揃えるとなると、下位貴族にとっては大きな負担となってしまいます」
「分かりました」
……あれ?
「そうなると、おうぞくはどこも行けないのでは?」
ミハイル先生がちょっと困ったような顔をした。
「一応、上位貴族主催であれば王族も参加出来ます。しかし基本的には侯爵以上の家柄に限られてくるでしょう」
「おうぞくに合わせてよういするから?」
「ええ、伯爵家では少々難しいと思います」
それから「しかし……」と言葉が続けられる。
「現状、リュシエンヌ様がどこかの家に招待されることはありません。まだどの家とも交流しておらず、招待状を送れる者がいないからです。そして舞踏会などのパーティーのデビュタントは十六歳、王族だとしても十二歳からなので、それまでは参加するとしても小さなお茶会のみとなります」
つまり、今のところ、わたしはどこかの家に招待されてお茶会だのパーティーだのに出ることはない。
……そもそも出たいとも思わないけど。
「さて、話を爵位について戻しましょう。爵位を与えることが出来るのは国王陛下のみです。そして新たな爵位を与えられた場合、複数の爵位を持つことになります」
持っていた表をミハイル先生が指で示す。
「例えば男爵位の者が功績を挙げて子爵位を授かった場合、その者は子爵家となりますが、同時に以前の男爵位も保たれるのです」
「その人がはくしゃくになったら、はくしゃくけだけど、ししゃくいと、だんしゃくいも持つの?」
「はい、そのようになります」
それは面白いなと思う。
よく軍隊とかだと出世して階級が上がっていくが、貴族では以前の爵位も持ったまま、次の爵位も授かることになる。
そうなれば、男爵で貰った土地を保有したまま子爵位を授かり、子爵家となって、新しい領地ももらえれば、保有する領地が広がり、それだけ税収も上がる。
「……そっか、だからしゃくいが高い家はぜいしゅうもたくさんあるんだ」
……なるほど、面白い仕組みである。
昇進したらもらえる給料が値上がりするのではなく、今もらっている給料に、それとは別の給料が上乗せされていく形になる。
でもよほどの功績がないと爵位は授かれないだろう。
「ミハイル先生、しつもんがあります」
「はい、何でしょう?」
わたしが手を上げるとミハイル先生が小首を傾げた。
「ファイエットはこうしゃくいです。ほかにも一つ上のこうしゃくけがあったのに、どうしてファイエットがあたらしい王家になったんですか」
ピシリとミハイル先生の笑顔が一瞬固まった。
「おとうさまがクーデターのリーダーをつとめていたから、あたらしい王さまになったのだと聞きました。でも、ほかのこうしゃくけの人の方が、みぶんが上で、王さまになるならほかのこうしゃくけの方がふさわしいのではと思うんです」
ミハイル先生が考えるようにわたしの顔を見た。
それから、小さく息を吐いた。
「クーデターについてご存知でしたか」
「はい」
「それについて、リュシエンヌ様は、その、国王陛下のことを……」
「クーデターについては、わたしはなっとくしています。わるいのは前の王家です。クーデターがおきたのは、仕方がないことです。それにわたしは前の王家の人たちとはなかよくなかったので、おとうさまをわるく思ったりもしていません」
「そうですか……」
どこかホッとした表情でミハイル先生が呟く。
そして、一度軽く咳払いをしてから背筋を伸ばすと、真っ直ぐにわたしを見た。
「クーデターのことをご存知であれば隠す必要はないでしょう。……ファイエット侯爵家が新しい王族となれた理由は『王族の血を引きながらも、その血が濃過ぎなかったため』です。公爵家では王家の血があまりにも濃い。それでは民衆も納得し難いものです。しかし、ファイエット侯爵家は王族と貴族の血を引きながらも、ここ数代、王家から王女が降嫁されたこともないため、それなりに血筋が離れています」
「ちが、ちかすぎたから、ほかのこうしゃくけはダメだった?」
「はい。それにファイエット家は建国時から存在する歴史のある貴族でありながら、その祖は平民だったということもあり、民衆に受け入れられやすいという側面もあります」
平民から貴族になり、王族の血も入っているけど、他の貴族の血もあり、それでいて旧王族の血は数代入っていない。
爵位的にも血筋的にも『丁度良い』のがファイエット侯爵家だった。
お父様はそれも理解した上でクーデターのリーダーとなり、王位の簒奪という泥を被って、新しい国王となったのだろうか。
「ありがとうございます。ふしぎに思っていたことが分かってスッキリしました」
そうだとしたら、わたしはお父様を尊敬する。
きっととても悩んだだろう。
主君を殺してその地位を奪うだなんて。
それでもお父様はクーデターのリーダーになった。
自分の汚名よりも、国を、民を優先した。
そうしてわたしはその娘になった。
なら、今のわたしに出来ることは、お父様の判断は正しかったのだと言うことだけだ。
他の誰でもない、旧王家の生き残りであるわたしが、旧王家の間違いを認める。
きっと、それくらいしか出来ることはない。
「わたしは、おとうさまのはんだんは正しいと思います。前の王家はそうされてとうぜんでした」