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3日目

 






 翌日も昼間は寝て過ごした。


 でも今日も食事はもらえなかった。


 彼からもらったあの甘い匂いのするやつは、日持ちしそうなので出来るだけ残しておきたい。


 ぐるる、きゅ〜と腹部から小さな音がする。


 高い場所にある小さな窓を見れば、そこから僅かに見える夜空に星が浮かんでいる。


 ……そろそろ夕食の時間は過ぎたかな。


 正確な時間は分からないけれど、体の感覚的に、恐らく夜の十時は過ぎていると思う。


 毛布から抜け出して、そっと部屋の扉を開けた。


 暗い廊下に人気がないことを確認して出る。


 ……えっと、厨房はあっち……。


 リュシエンヌの記憶を辿って厨房へ向かう。


 暗いから迷わないようにしないと。


 わたしのいた物置部屋の周辺は暗いが、ある程度離れると廊下にはランプで照らされている。


 何というか、その徹底ぶりに笑ってしまう。


 厨房へ辿り着くと既に暗く、火は完全に落とされており、人気も感じられなかった。


 ただ二つ先の部屋は人がいるようで、そこから美味しそうなスープの匂いが漂っている。


 口の中に溜まった涎を飲み込んだ。


 野菜や肉を煮込んだ良い匂いだけれど行ったところでリュシエンヌにそれを分けてくれるわけがない。


 どうせ追い出されるか部屋に連れ戻される。


 それならば、こっそり行動するべきだ。


 厨房に入ると料理を作った後の良い匂いがする。


 テーブルの上を見てみたが食べ残しはないようだ。


 いや、あったとしても使用人達で分けて食べてしまうからわたしの分は残らないか。


 勝手にそれを食べると王妃に報告されて、後で酷い目に遭うので、わたしは口に出来ない。


 残飯を纏めてあるバケツみたいなものに近寄る。


 フタを開けて覗き込むと、果物や野菜の皮や芯、食べかけで捨てられた肉、サラダ、芋などが一緒くたに放り込まれている。


 不思議と嫌悪感はない。


 そういうところはリュシエンヌの感覚が強くあるらしい。


 残飯に手を伸ばし、一番上にあったリンゴの芯らしきものを掴む。


 ……これは苦いのだ。


 でも食べられる。


 かじりつくと他の肉やソースの味もしたが、リュシエンヌの舌は大雑把らしく、食べられるものと判断した。


 最後に残ったヘタだけバケツに戻す。


 次にソースのかかった肉を掴んだ。


 誰の食べかけか分からないが、ここにあるのは後宮に住む王族のものなので、王妃か側妃か、後は王子王女達の残したものだろう。


 肉は滅多に口に出来ない。


 少しでも食べておかないとリュシエンヌの体がもたないし、怪我を早く治すためにも栄養が欲しい。


 肉は三口分しかなかった。


 それからサラダの残りも食べる。


 リュシエンヌの胃はそれでいっぱいになった。


 汚れた手を近くの水場で洗い、布でこっそり手を拭き、バケツのフタを戻す。


 足音を消して厨房から出て今度は井戸へ向かう。


 食べたら喉が渇くのだ。


 本当はコップの一つくらい欲しいのだけれど、リュシエンヌにはそれすらもらえない。


 だからどうしても喉が渇いたら井戸へ行く。


 井戸に着き、水を汲んで飲む。


 見下ろした手元の桶に月が浮かんでいた。


 ……この世界の月は青い。


 だから月光も青みがかってどこか寒々しい。




「……もどろう……」




 急に寂しさがこみ上げてきた。


 水を捨て、桶を戻し、建物へ入る。


 静かに廊下を歩いて行き、誰にも会わずに物置小屋の前まで帰って来られた。


 そっと扉を開けて隙間から中に入り、音を立てないように扉を閉める。


 振り返ってギクリとした。


 彼がわたしの寝床の毛布の側に佇んでいた。


 灰色の瞳がジッとこちらを見つめている。


 何でか蛇に睨まれたカエルみたいに冷や汗が出る。




「どこ行ってたの?」




 口調が間延びしていない。




「あ、えと、ちゅ、ちゅうぼうに、行ってました……」




 思わず敬語になってしまう。


 灰色の瞳が眇められる。




「厨房?」


「今日も、食べもの、もらえなかったから……」


「オレがあげたのは? 捨てたの?」




 初めて聞く淡々とした声に震える。


 それでも勘違いはされたくなかった。




「ちがう!」




 久しぶりの大声だった。




「っ、あれは大事にのこしてる。また食べもの、ないときに食べるから。もらったものだから……」




 突き飛ばされても平気だった。


 背中を蹴られても平気だった。


 でも、どうしてか、目の前の彼に冷たくされると苦しくて、悲しくて、涙が滲む。




「はじめて、もらった、のこりものじゃない食べものだから……っ」




 リュシエンヌの食事はいつも残飯だ。


 昔メイドが分けてくれた食べ物だって、後宮で残ったものだった。


 食事は常に残飯で、傷んでいることも多くて、リュシエンヌのためのものじゃない。


 だから嬉しかったのだ。


 食べさせてくれたものの残りを見て、それが自分のために用意されたものだと分かった。


 すぐに全て食べてしまうのは勿体なかった。


 ……泣くと怒られる。


 慌てて服の袖で目元を拭う。


 同時にふわっと体が持ち上がった。




「なぁんだ、そういうことかぁ」




 目の前の灰色の瞳が細められている。


 間延びした口調に戻っていて、心なしかその声は嬉しそうな感じがする。


 何故かそのまま腕に抱かれた。




「オレがあげたの大事にしてくれたんだねぇ。でもあれは食べちゃっていいよぉ。また持ってくるから」




 よしよしと頬を撫でられる。


 ……機嫌直った……?




「おこってない……?」


「うん、理由が分かったからもう怒ってないよぉ」




 やっぱり怒ってはいたんだ?


 だけど誤解されなかったことにホッとした。


 安堵すると涙が溢れてくる。


 ポロポロ泣くわたしを灰色の瞳がジッと見る。


 見るだけで拭ってくれるとかはない。


 わたしが自分の袖で拭っている間、猫にでもするかのように頬や顎下、首を撫でられ続ける。


 すん、と鼻を鳴らすと面白いものでも見つけたみたいにまじまじと見られた。




「んむっ?」




 鼻を緩く摘まれる。




「あはっ、変な顔ぉ」




 すぐに離してもらえたが女の子にそれはちょっと酷いと思う。


 それから毛布の上に降ろされた。


 彼は屈んだままわたしの顔を覗き込む。




「沢山はあげられないけどまた持ってくるから、あれは食べてね。分かったぁ?」




 その言葉に頷く。




「それで、厨房で食事摂れたぁ?」




 もう一度頷く。


 先ほど大声を上げたせいか喉に違和感がある。


 彼は首を傾げた。




「でもぉ、もう火は落ちてる時間だよねぇ?」




 連日忍び込んでるだけあって、よくご存知で。




「のこってたの食べた」


「どこにあったやつぅ?」


「ちゅうぼうのすみの、丸いのから食べた」




 ピタリと彼の動きが止まる。




「……それって暗い灰色の大きな丸いの?」




 思い出す。確かに濃い灰色をしている。


 肯定の頷きをすると頬をつつかれた。




「知ってる? それゴミだよ?」


「しってる。ざんぱん。でも、悪くなった食べものよりいいの。食べてもおなかいたくならないから」


「…………」




 彼が押し黙った。


 何となく絶句してる感じがする。


 そうだよね、残飯食べてるなんて聞いたら驚くよね。


 しかもこの後宮内で、王族の血を引いてるのに。


 でもリュシエンヌにとってはそれが当たり前だし、前世の記憶を思い出して今のわたしになっても、リュシエンヌの感覚が強く残る部分がある。


 前世だったら「ありえない!」と叫んでただろう。


 だけど今は「生きるため」なら残飯くらい何の抵抗もなく食べられる。傷んだ食べ物はさすがにちょっと躊躇するかもしれないが、それでも、それしかなければ我慢して食べる。


 ぽんと頭の上に手が乗った。




「もう、ゴミは食べちゃダメぇ」




 えっ、いやでも……。




「おなかへる……」


「じゃあオレがあげたの食べればいいじゃ〜ん」


「でも……」




 がしっと頭を鷲掴みにされた。


 全然痛くないけど圧を感じる。




「分かったぁ?」




 有無を言わせない雰囲気である。


 うんうんと頷けば、頭を鷲掴んでいた手が離れ、褒めるように撫でられる。




「そうそう、良い子良い子ぉ」




 頭を撫でられながら考える。


 うーん、この人本当に暗殺者なの?


 世話焼きだし、子供のわたしに優しいし、機嫌を損ねると怖い部分もあるけど、わたしを傷付ける意思は感じられない。


 実は結構良い人じゃない?




「良い子には餌あげるぅ」




 訂正、わたしのこと犬猫か何かと思ってない?


 まあ、残飯漁って食べてるから否定し難いけど。


 差し出された包みを受け取り、開けてみると、またあの四角い食べ物が入っている。


 数えると全部で五枚。


 丁寧に包みを戻し、口をしっかり縛って、それを持って立ち上がる。


  部屋の奥に放置された机の一番下の引き出しを引っ張り出して、その奥へそっと入れる。


 彼はわたしの後ろから覗き込んだ。




「へえ、こんなところに隠してるんだぁ」


「ここなら見つからないと思ったの」


「確かに。ボロっちぃ机だから誰も触らなさそ〜」




 引き出しを押し込んで戻し、立ち上がる。


 視線を感じながら毛布まで歩いて行く。


 彼もわたしについて来た。


 また沈黙だ。




「……ねえ、お兄ちゃん」




 名前を知らないのでそう呼んでみる。


 問題なかったのか「なぁに?」と返事が来た。




「外ってどんなところ?」




 彼は「ん〜」と少し考えた。




「君には優しくないところかなぁ」


「……そうなんだ」




 それはそうだよね、と思った。


 暴君な国王に贅沢三昧な王族のせいで、きっと国は傾いてる。


 原作のゲームの中でも当時はかなり貧しかったとヒロインちゃんの過去を回想する場面があった。


 男爵家のお妾だからと言って暮らしは裕福ではなかったらしい。


 国王が変わることで良い方へ国も変わったのだ。


 クーデターが起きた後に残されたリュシエンヌは唯一、前王の血を濃く引いた王族であった。


 前王の実子というだけで風当たりは強いだろう。


 もしかしたら辛い幼少期を過ごしたリュシエンヌを当然の報いだと嘲笑う人もいるかもしれない。


 後宮も外もリュシエンヌにとっては同じ。


 誰もリュシエンヌに優しくない。




「驚かないの?」




 ……いや、二人だけいたか。


 一度だけ食べ物を分けてくれたメイド。


 そして目の前にいる人。




「だってここと同じだもん」




 わたしの言葉に彼は笑った。




「そうかもねぇ。外に出たい〜?」




 彼の問いに考えてみる。




「ううん、いい」


「何でぇ?」


「同じなら、ここの方がいい。ねるところもあるし、食べものもあるし、いたいのだけガマンすれば生きていけるから」




 物置部屋は雨風をしのげる。


 食事をもらえなくても残飯を漁ればいい。


 暴力や暴言を我慢すれば生きていける。


 それにクーデターまでの我慢だ。


 音もなく彼がわたしの横に座った。




「でもさぁ、それって生きてる意味あるのぉ?」




 遠慮も何もあったもんじゃない質問に、わたしは「わからない」と答えた。


 気付くと仰向けに倒れていて、彼がわたしの上にいて、わたしの首は彼の手に覆われていた。




「じゃあさぁ、今ここで殺してもいーぃ?」




 そういえば彼は本業が暗殺者だったっけ。


 首を掴む手に微かに力がこもる。


 ……全然怖くない。


 それどころか彼に触れられると安心感で体の力が自然と抜けて、ふにゃりと笑ってしまう。




「お兄ちゃんならいいよ」




 わたしに、リュシエンヌに優しくしてくれた。


 気まぐれでも良かった。


 傷の手当てをして、食べ物と薬をくれた。


 他の誰かじゃない彼になら殺されてもいい。


 目の前の灰色の瞳が僅かに丸くなり、そしてまるで心底可笑しいとでもいう風に声もなく笑い出した。







* * * * *







 思わず湧き出てきた笑いに子供は目を瞬かせた。


 ちっちゃくて、弱くて、傷だらけで、何の疑いもなく暗殺者オレに自分から首を晒しちゃうような無防備さ。


 それでいて全くのバカではなくて。


 虐げられても貪欲に生きようとする。


 憐れで可哀想な境遇なのに、きっと自分が憐れだということすら自覚出来てないのだろう。


 この子供は後宮ここの暮らししか知らない。


 ……ああ、でも何でかなぁ。


 そんな子供の言葉に心が震える。


 長い髪の隙間から見上げてくる琥珀の瞳は真っ直ぐで、擦れていなくて、暗殺者オレを怖がることもなくて。


 その純粋な瞳は宝石みたいに綺麗だ。


 ルフェーヴルが殺そうと思えば一瞬で殺せる距離にいて、こうして殺せる体勢で、急所を掴まれているはずだが、子供は笑った。


 初めて笑いかけられた時と同じ、酷く安堵したような、気の抜けた顔で笑う。


 オレになら殺されていいなんて……。


 殺さないでくれという言葉は何百と聞いた。


 だけどルフェーヴルになら殺されてもいいなどと、そんなことを口にした者は一人もいなかった。


 この子供……──リュシエンヌ以外は。


 笑いと共に仄暗い喜びがこみ上げる。


 なんて憐れで可哀想なリュシエンヌ。


 誰にも大事にされたことのない子供。


 暗殺者オレなんかに命を預けてしまった。


 憐れで、可哀想な、可愛い子供。


 オレの手の中にこの子供の命がある。


 こんなオレに命を預ける子供もどうかと思うけれど、それに心の底から歓喜してるオレも相当おかしいんだろうなぁ。




「可愛い」




 首を掴んだまま、顔を近付ける。


 全く抵抗する気配がない。




「大丈夫、もし君が死にそうになっても、死ぬ前にオレが殺してあげる」




 囁くように言えば子供が聞いてくる。




「しぬまえにお兄ちゃんに会えるの?」




 ルフェーヴルは頷いた。




「そうだよぉ」




 目の前の子供は嬉しそうに笑う。




「じゃあこわくないね」




 純粋なその笑顔にルフェーヴルも笑う。


 手から伝わる子供の鼓動は穏やかなものだった。






* * * * *

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