ファイエット邸(3)
…………寝苦しい。
お医者様の言う通り、わたしは熱を出してしまい、そのせいで暑くて目が覚めた。
天蓋をぼんやり見上げる。
もう夜なのか部屋は暗く、けれど完全な暗闇ではなく、少し離れた場所からオレンジ色の柔らかな光が控えめに天蓋を染めている。
……暑い。喉渇いた……。
もぞりと動けば、手が何かを握っている。
何だろうと視線を下げるとベッドの縁にルルが座っていた。
「あ、起きたぁ?」
繋がっていた手がするりと抜け、ルルが立ち上がり、わたしの額から何かを取った。
そして枕元のテーブルに置いてあった水差しの中身をグラスに注いだ。
わたしの肩とベッドの間に片手を差し込んでゆっくりと抱き起こし、自分に寄りかかるように片腕で抱えながら、もう片手が持っていたグラスを口元へ押し当てられる。
口を開けると僅かにグラスが傾いて水が少量口の中に入ってくる。
喉が渇いているのに飲み込むだけでも苦労する。
それでもルルは根気強く、少量ずつわたしの口に水を注いだ。
グラスの半分ほど水を飲んで満足した。
口を閉じるとグラスが離れていった。
ベッドへ体を戻される。
ルルの手が額に触れた。
「……解熱薬飲んでこれかぁ」
ひんやりとした手が心地好い。
重たい腕を持ち上げて、ルルの手を掴み、顔を寄せる。
ルルが動いて、空いているもう片手をテーブルに伸ばし、何かを掴んだ。
ちゃぷ、と水音がして、すぐにポチャポチャと水が落ちるような音がした。
それから額を冷たくて柔らかいもので覆われる。
その感触に思わず、ほう、と息が漏れた。
……これは、多分、濡れタオル……?
冷たさと同時に額に湿り気を感じた。
額は冷たいが、体の暑さは変わらない。
暑いというより熱い。
体の芯から熱が出て体がだるい。
背中に当たるベッドも熱い。
横へ体を転がせばベッドのシーツがヒンヤリと触れたが、それも一瞬で、やっぱりすぐに温くなる。
元の位置へ戻って反対側へ転がる。
……やっぱり熱い。
「……うぅ……」
行き場のない熱が体の中に溜まっている。
いつの間にか手が外れていて、ルルが落ちた布をまた水に浸して絞り、額へ戻してくれた。
それが分かっているのにボーッとしてしまってお礼の言葉が出てこない。
「リュシー、まだ日が昇るまで時間があるから眠っていいよぉ」
ヒンヤリとしたルルの手が首筋に触れる。
そうすると暑さが和らいだ気がした。
ルルの間延びした囁くような声が頭にじんわりと広がる。
それからわたしはうとうとと夢と現実の間を行ったり来たりしていたと思う。
ルルがずっと付き添ってくれたのを覚えてる。
こまめに額の布を冷やしてくれたり、汗を拭いてくれたり、熱さに耐え切れずに泣いたわたしを宥めてくれた。
五歳の体で熱を出すのはすごく疲れる。
溜まった熱に苛立って泣くわたしを、ルルは「子供って意外と元気だなぁ」とか呑気なことを言いながらも、疲れて泣き止むまで付き合ってくれた。
泣き疲れてベッドへ転がったわたしの額と腫れた目元に冷たい布をかけてくれて、そのおかげか長めに眠れた時間もあった。
そして朝起きてもルルは横にいた。
「おはよぉ、リュシー」
そう言ったルルは首の布を外し、執事のオリバーさんが着ているものに似た服を身に纏っていた。
* * * * *
夜、リュシエンヌが泣いた。
だがそれは想定内のことだった。
大人でもたまにいるが、熱を出して弱っている人間というのは泣き出すことがある。
合間を見て侍従の服を受け取りに行った際にも、ファイエット家の執事に「幼い子は熱を出すと泣いたり暴れたりするので気を付けてください」と言われた。
リュシエンヌは高い熱に泣いて、ベッドの上をゴロゴロと落ち着きなく転がったが暴れることはなかった。
唸ったり暑いと呟いたりはしていたが。
布を冷やし直すと僅かな時間だけ静かになった。
昔、まだ暗殺者として駆け出しの新人だった頃、同じ師の下で暗殺を教わっていた奴が下手を打って暗殺対象に反撃されたことがあった。
護衛の毒矢で射られて高熱を出したソイツを師の指示で仕方なく看病した。
その時にもソイツは毒による苦痛と熱の中でメソメソと泣きながら何やら言っていた気がするが、どうでも良かったのでもう忘れてしまった。
とりあえず呟いて転がって唸るリュシエンヌにルフェーヴルは布を冷やしたり返事をしたりして気を逸らしてやっていた。
リュシエンヌの熱が上がって目覚めたのは深夜だった。
それまで数時間ほどは侍女にリュシエンヌを任せ、ルフェーヴルは少々野暮用を済ませて来た。
野暮用についてはリュシエンヌが知る必要はない。
戻って来てからはずっと傍にいた。
二、三日くらいならば眠らなくても活動出来るし、リュシエンヌを看病している間は座っているので体を休めることは出来る。
いざとなったら様子を見て少し眠ればいい。
気になることと言えば、侍従用の服が少々動き難いことと、顔を隠していた布がなくて微妙に涼しいことくらいか。
リュシエンヌの看病をしているうちに朝になった。
朝になると熱が少し下がった。
下がったと言っても治ったわけではない。
起きたリュシエンヌはルフェーヴルを見て目を丸くした。
「……ルル、にあってる……」
ぽかんと口を開けてリュシエンヌがやや掠れた声で、思わずといった様子で、そう呟いた。
* * * * *
ルルが服を変えた。
体に沿った真っ黒な服から、同じ黒だけど、燕尾服のようなものへ着替えたらしい。
どうやら服をもらった時に、侍従になるなら顔を隠さないよう言われたようで、トレードマークだったマフラーみたいなものは外されていた。
ルルの綺麗な顔が露わになっている。
熱は下がったけれど、治ったわけではなく、ルルによると恐らくまた夜に熱が上がるだろうとのことだった。
……ああ、昼間って熱が下がるんだよね。
そうして夜になると上がるというのはよくある。
まだ体が重くてルルに水を飲ませてもらう。
それからルルがベルを鳴らして侍女を呼ぶとメルティさんが来た。
「リュシーの着替え、ちょうだい」
それにメルティさんが慌てて新しい寝間着を持って来た。
リニアさんがほんのりと湯気の立つ桶と布を運んで来て、着替えと一緒に体を拭くことを勧められた。
リニアさんとメルティさんに体を拭いてもらい、下着と肌着も替えてもらい、ルルに寝間着を着せてもらう。
ちょっと気付いたのだがルルはリニアさんやメルティさんを監視するようにジッと見ていることがある。
そしてタイミングを
「お嬢様、食欲はございますか?」
メルティさんに問われ、考える。
正直全く食欲はない。
しかし薬を飲むなら何か食べたほうがいいだろう。
少し考えてから答える。
「くだものなら、ちょっとだけ、食べられます」
メルティさんが首を振った。
「お嬢様、使用人に丁寧な言葉遣いをする必要はありません」
リニアさんもそれに頷いた。
でも言葉を崩すのは怖い。
黙ったわたしにリニアさんとメルティさんがやや困ったように顔を見合わせた。
そこでルルが言ってくれた。
「別にリュシーが良いなら良いんじゃな〜い?」
リニアさんとメルティさんはもう一度顔を見合わせると「そうですね」「お嬢様の話しやすい言葉が一番ですね」と納得してくれた。
それにホッとする。
その後、リニアさんが部屋を出て行って、少ししてサービスワゴンを押しながら戻ってきた。
上には平たい皿と、いくつかの果物の盛り合わせが載せられていて、ルルが平たい皿を取った。
「そちらはリンゴのすりおろしです。蜂蜜で甘みをつけてあります」
「それなら食べられそうかもねぇ」
リニアさんの説明にルルが頷いた。
スプーンで掬って差し出される。
口を開ければスプーンが入ってきて、閉じるとゆっくり引き抜かれていく。
リンゴの甘みと香りと水分、それから少し遅れて蜂蜜の甘い味が口の中に広がった。
甘みがじんわりと体に染み込む感じがした。
すりおろしたリンゴは小さめの皿に入っていて、量もそれほどなかったのか食べ切ることが出来た。
果物の盛り合わせは葡萄を三粒ほど食べた。
ルルが綺麗に皮を剥いてくれたので、つるりとした葡萄の実を口に入れるだけで良かった。
種はあったが食べ終わった小皿をルルが口元に寄せてくれたので、実と種を口の中で選り分けて、片手で口元を隠しながら皿へ出させてもらった。
食後に苦い粉薬を飲んだ。
「きのうの薬?」
昨日飲んだのもなかなかに苦かった。
「こっちは痛み止めだよぉ。昨日飲んだのは解熱薬。多分、こっちの方が苦いかなぁ」
ルルにそう言われたけれど、わたしの舌にはどちらもかなり苦く感じられた。
……まあ、子供の味覚だもんね。
苦味をより強く感じるのかもしれない。
薬を飲んだ後、トイレに行って戻ってくるとシーツが新しいものに取り替えてあった。
ちなみにトイレまではルルに連れて行ってもらった。
熱が下がって、足の裏の傷が治るまでは出来る限り歩かない方がいいらしい。
でも足の裏の傷は大分良くなってると思う。
怪我をした後にルルが薬を塗ってくれたから、今は足をつけても痛くない。
だけどリニアさんとメルティさんはダメだと言う。
ルルも「治るまではオレが運んであげるよぉ」と言うので、しばらくの間は移動はルルに運んでもらうことが決まった。
そうは言ってもトイレや入浴くらいしか移動するタイミングなんて今のところはないけれど。
差し出された口直しのチョコレートを食べる。
それからベッドの上で横になってみたけれど、あまり眠気もなくて、横の椅子に腰掛けているルルを見た。
ピシッと服を着てるのに、片足の上にもう片足を乗せて椅子の背もたれに片肘を置くという座り方のせいか、ちょっとガラが悪く見える。
リニアさんが後ろからジッと非難の眼差しをむけているが、ルルはどこ吹く風である。
わたしの侍従になると言っていたけれども、使用人だからと言って自分の振る舞いを変える気はないらしい。
でもルルが真面目にわたしに仕える姿はあんまり想像がつかないので、やっぱりこれでいいのかもしれない。
それに急に
「ルル、じじゅうってどんなおしごとするの?」
ついには椅子を前後へユラユラ揺らし始めたルルにリニアさんの視線が厳しいものに変わったので、慌てて声をかける。
すると椅子を揺らすのをやめてルルが首を傾げた。
「さあ? 主人の近くにいてあれこれ世話する仕事なんじゃないのぉ? まあ、オレはそれ以外やる気ないけどねぇ」
「知らないのにやるの?」
「うん、侍従じゃないとリュシーの傍にいられないからねぇ」
ルルの言葉に驚いた。
「わたしといっしょにいるため?」
「そうだよぉ。オレ、こー見えても結構あちこちから声かけられるんだよぉ? 誰か一人の所にずっといるってことは今までなかったしぃ」
「感謝してよねぇ」とルルに言われて頷いた。
わたしと一緒にいるために、暗殺者だったのに、侍従に転職してくれたのだ。
「ありがとう! ルル、だいすき!」
起き上がってルルに飛びつくと、しっかりと受け止められる。
ルルは「リュシー、危ないよぉ」と言いながらも笑って、ベッドへ戻された。
侍従になってくれたということは、本当にずっと一緒にいてくれるということなのだろう。
これからもルルが傍にいてくれる。
そう思うと、不思議と気力が湧いた。
……そうだよ、原作なんて関係ない。
この世界は確かにあのゲームの世界に似ているのかもしれないけど、リュシエンヌがルフェーヴルに出会ったように、常にゲーム通りに進むわけではないんだ。
わたしも、ルフェーヴルも、他の人も生きていて、自分で考えて行動している。
それなら、わたしは原作通りにならないようにするだけだ。
そう意気込んで目を閉じる。
* * * * *