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ファイエット邸(2)

 






 ごろりと寝返りを打ち、目が覚める。


 一瞬、自分がどこにいるのか分からなくて辺りを見回せば、天蓋付きのベッドの中にいた。


 横の椅子にルルが座っている。




「おはよぉ」




 緩く声をかけられて返事をする。




「おはよう、ルル」




 窓から差し込むのはオレンジ色の光。


 昼寝というには随分ぐっすり眠ってしまった。


 ぐぅ、とお腹が小さく鳴り、ルルが目を細めた。




「あは、お腹減ってるみたいだねぇ。でも食事は医者に診てもらってからだよぉ」




 メルティさんがベッドの側に寄るとグラスを渡してくれた。


 中身はあの果物の匂いのする水だった。


 ルルに抱えられてトイレに行き、戻ってくると、部屋に五十代ほどの女性がいた。


 どうやらその女性がお医者様らしい。


 ベッドへ戻される。




「初めまして、今日からお嬢様の主治医になりましたエレインといいます」




 にこりと穏やかに笑うお医者様。


 でも、どうしても女性と接する時は緊張してしまう。


 特に十代前半と四十代ほどの女性は怖い。


 その点では侍女二人もお医者様も年齢がズレているせいか、緊張はするけれど、そこまで怖くはない。




「リュシエンヌです。よろしくおねがいします」


「ええ、よろしくお願いいたします。今日は少し体を診させていただいてもよろしいでしょうか?」




 お医者様の言葉に頷く。


 ルルがベッドから離れ、代わりにリニアさんがわたしの服を脱がせた。


 お医者様は笑みを崩さなかったけれど、真剣にわたしの体を診察している。


 口の中や喉の奥も診られた。


 お腹や背中も触診された。




「ありがとうございます、もうよろしいですよ」




 診察を終えるとリニアさんが服を戻した。




「お嬢様は栄養失調に脱水症状も少し出ていますね。体の打撲のせいか熱も出始めております。軟膏と痛み止め、熱を下げるお薬を出しますので、食後にお薬を飲んでくださいね。しばらく食事は消化しやすく胃に優しいものを。それから熱が下がるまでは安静にしてください」




 リニアさんが頷く。


 お医者様がニコリと笑った。




「よく食べてよく眠れば元気になりますからね」




 わたしを安心させるためだろう。


 それに頷き返す。




「ありがとうございます」




 お医者様はまたニコリと笑うと荷物を持って出て行き、メルティさんがそれについて行った。


 リニアさんが「お食事は食べられそうですか」と聞いてきて、わたしは頷いた。


 食事を取りに行ったリニアさんを見送る。


 ルルがベッドの縁へ座った。


 よしよしと頭を撫でられる。




「確かにちょっと熱っぽいねぇ」




 わたしもぺたりと額に触れる。


 言われてみれば高い気もする。


 リニアさんがサービスワゴンを押しながら戻ってきた。


 ルルが立ち上がり、ワゴンに近付くと、そこからわたしの食事を持って戻ってくる。


 ルルの手の平くらいの少し深い皿に白いものが入っている。


 それをスプーンで掬い、息を吹きかけて冷ますと、差し出された。


 口を開ければスプーンがそっと入ってくる。


 口を閉じるとゆっくりスプーンが抜ける。


 …………ミルク?


 ミルクにパンを入れて煮たもので、甘みがある。


 じんわりと優しい甘さが体に染みる。


 ぽろりと涙がこぼれた。




「……おいしい」




 まともな食事を食べられる日が来るなんて。


 記憶を取り戻してから、クーデターのことは分かっていたけれど、でも、こうしてまともな食事を口にしてようやく実感が湧いてきた。


 リニアさんが頬にハンカチを当ててくれた。


 それを受け取り、涙を拭くけれど、止まらない。




「泣くと熱上がるんだけどねぇ」




 ルルがそう言いながらもスプーンを差し出した。


 泣きながら口を開けると、ルルがスプーンを口の中に入れてくれたので、泣きつつも食べる。


 ふかふかの大きなベッドに寒くない部屋、肌触りの良い寝巻きらしい服を着て、美味しい食事を食べる。


 ……幸せだなぁ。


 それに傍にはルルがいてくれる。


 それから数口ほど食べた。


 満腹になったので首を振るとルルがスプーンとお皿をリニアさんに渡す。


 メルティさんが戻ってきた。


 口元を拭われ、薬らしき小さな包みを渡される。


 ……粉薬……。


 包みを開けて一気に口の中へ落とす。


 ルルからグラスをもらって水で流し込んだ。




「……にがい……」




 苦くて、青臭くて、ちょっとエグ味がある。


 水で口の中に残った粉も飲み込んだ。




「はい、ご褒美ぃ」




 ルルが何かを取り出した。


 それが何なのか分かった瞬間、口を開ける。


 コロンとそれが口の中に転がり込んだ。


 甘くて、ほんのり苦くて、香ばしい。


 口直しのチョコレートは美味しかった。


 口の中でそれをもごもごしている間に、リニアさんとメルティさんに服を脱がされて、背中や足など身体中に軟膏をつけた当て布が貼られていく。


 その間、ルルはベッドから離れていた。


 天蓋のカーテンを広げると目隠しになるので、その中で手当てしてもらう。


 でも薄っすら外にいるルルの姿がシルエットだけ見えているので不安はない。


 服を着せ直してもらう。




「ありがとうございます」




 そう言えばリニアさんとメルティさんが目を瞬かせた。




「お嬢様、私共に礼は不要でございます。使用人が主人にお仕えするのは当然のことです」




 リニアさんが静かで、穏やかな声で言う。


 ……それが常識なのかな。


 でも、そうだったとしてもやはり何かしてもらったのにお礼を言わないというのは落ち着かない。




「でも、ありがとうって言いたいの。……ルルもいっぱいありがとう」




 天蓋のカーテンを開けて言えば、ルルは目を細めて笑った。




「どういたしましてぇ」




 リニアさんとメルティさんが顔を見合わせる。


 それ以上は何も言われなかった。


 でも二人とも、少しだけ目元が柔らかくなったような気がした。


 わたしはそのままベッドへ寝かされる。




「お医者様のお話では夜から本格的に熱が上がるとのことなので、私共は隣室に控えております。何かありましたらベルを鳴らしてお呼びください」


「分かった〜」




 リニアさんがルルに言い、ルルが頷き返す。


 そうしてリニアさんとメルティさんは部屋を出て行った。


 ベルというのは枕元のテーブルに置かれたもののことだろう。まんまハンドベルである。


 扉が完全に閉まったところで全身の力を抜く。


 ベッドの上でぐたっとしているわたしの頬をルルがつついた。




「大丈夫ぅ?」


「……うん、でも、つかれた」




 暴力を振るわれることはないと分かっていても、人が近くにいると緊張するし、体が無意識に強張ってしまう。


 リニアさんもメルティさんも侍女だ。


 ただあのメイドの格好はどうしても後宮にいた王妃の侍女やメイド達を思い出してしまう。


 クーデターが起こり、後宮にいた彼女達はどうなったのだろうか。


 あまり興味はないけどふとそう感じた。


 ……まあ、どうでもいいか。


 横に向いてルルへ手を伸ばす。




「ねるまで、手、つないでもいい?」




 ルルが目を細めた。




「いいよぉ」




 伸ばした手を大きな手に握られる。


 それだけで酷く安心する自分がいる。


 一度寝たのに、熱のせいか、まだ眠い。


 そのままゆっくりと眠りに落ちた。







* * * * *








 眠ったリュシエンヌの顔をルフェーヴルは眺める。


 繋がった手から力が抜けた。


 それでもしばらくの間、リュシエンヌの小さな手をルフェーヴルは離さなかった。


 ファイエット邸に来てからのリュシエンヌは無口で、特に侍女達が近くにいると気を張っている風であった。


 人が怖いというよりは女が苦手なのだろう。


 リュシエンヌの周りには今まで、殆ど女しかいなかったはずだ。


 王妃や王女、王子達に虐待され、後宮内の侍女やメイドにも冷たくされていたのだから当然のことだった。


 侍女が浴室への立ち入りを許したのには内心少し驚いたが、リュシエンヌの不安そうな様子を見て、出ていけとは言い難かったのかもしれない。


 医者の診察時や手当ての時にはさすがに物言いたげな視線を向けられたが気付かぬふりをした。


 侍従としてはルフェーヴルの言動はとても使用人のものとは思えないものだとは理解しているが、だからと言ってリュシエンヌに恭しい態度を取る気はない。


 これまでと変わらず接するつもりだ。


 それに侍従をするのはリュシエンヌが十六歳になるまでの話である。


 成人したら受け取るので、侍従を続ける意味はないし、どうせファイエット家から離れるのだ。


 ……従者として過ごすのも悪くないかもねぇ。


 今までルフェーヴルは裏社会で生きてきた。


 ひっそりと身を隠すような暮らしを続けていたが、リュシエンヌと共に、その成長を見守りながら十年ほど暮らすのも案外悪くなさそうだ。


 闇ギルドに関わったことのある人間ならばルフェーヴル=ニコルソンの名を一度くらいは聞いたことがあるだろう。


 死が怖い者は近付こうとは思うまい。


 ……そのままリュシエンヌにも関わらないでくれると嬉しいんだけどなぁ。


 まだ涙の跡が残る赤い目元を撫でる。


 ファイエット邸に来て安心したのだろう。


 泣きながらも食事をしていた。


 ……でももっと食事量は増やさないとねぇ。


 用意された皿の半分もリュシエンヌは食べられなかった。


 そもそも後宮にいた頃の食事量自体が少な過ぎて、栄養が足りず、小柄で細いのだ。


 少しずつでいいから食べられる量を増やしていかないと、リュシエンヌの体に良くない。


 侍女達は色々と感じるところはあるようだったがリュシエンヌの世話で手を抜くようなことはなかった。


 隣室へ下がったのも、自分達がいるとリュシエンヌが気を張って休めないと理解してのことだろう。


 サラサラになったリュシエンヌの髪を指で梳く。


 くすんだ茶色だった髪は汚れを洗い落とすと落ち着いたダークブラウンになった。


 ……本当にチョコレートみたいな色ぉ。


 ここでもっと暮らせば、この美味しそうな色の髪ももっと艶が出るだろう。


 毎日きちんと食事をして、よく眠って、この痩せた体を何とかしなければ。


 前髪を除けて額に触れる。


 泣いたこともあってか熱が上がってきている。


 薬を飲んだので酷く上がることはないだろうが、体力のないリュシエンヌにはつらいかもしれない。


 ルフェーヴルはもう一度リュシエンヌの手を握る。


 目を覚ました時、リュシエンヌの瞳に最初に映る人間にルフェーヴルはなりたいと思った。








* * * * *









 隣室に下がったメルティとリニアは扉を閉め、扉から離れると顔を見合わせた。




「お嬢様って、元王女だよね?」


「違うわ。新王家の養女になったのだから、元ではなく、王女様よ」




 二人は自分達が仕えることになった主人を思い出し、何とも表現し難い表情を浮かべた。


 ファイエット家の使用人として働いている二人は幸いにも貧しさに喘ぐことはなかったが、それでも年々と質素な食事になっていった。


 ファイエット家の当主である侯爵も質素な食事にし、その分、領民や国のために私財を売り払って補填していたそうだ。


 リニアもメルティも実家はしがない男爵家や子爵家で、そちらも貧しく、給金から仕送りをすることで何とか実家を支えていた。


 だからこそ王族に良い印象はなかった。


 侯爵がクーデターを起こして新王になったと聞いた時は納得したし、自分達の仕える主人が王になるのは誇らしくもあった。


 だが王女を養子に取ると聞いた時には「何故?」と疑問に思った。


 一応、執事のオリバーより使用人達に説明はあったが、仕事として受け入れても心が納得するかは別の問題だった。


 王族は皆、贅沢が好きで暴君のよう。


 そんなイメージが誰の頭にもあった。


 リニアもメルティも、養子に来る王女の侍女を任された時には厄介な役目になってしまったと感じた。


 そうして王女がやって来た。


 五歳と聞いていたが、風変わりな格好の少年に抱えられた体は年の割に小さかった。


 長く伸びた髪は酷く傷んでいて毛先がバラバラで、着ている服も驚くほど古びて擦り切れ、覗く手足は明らかに痩せ過ぎていた。


 長い髪で顔はほぼ隠れていたが不安そうに自分を抱く少年の服を掴んでいた。


 前以て聞いていなければ誰もその子が王女だとは気付かないだろう。


 オリバーと挨拶をして、部屋に案内され、入浴し、眠り、医者の診察を受け、食事をして、眠る。


 その間、王女はあまり口を開かなかった。


 べったりとくっついている少年とは話せるらしいが、どうやら人が怖いようで、入浴中も触れると小さな体は強張った。


 何より、その体は傷だらけだった。


 虐待を受けて育ったと聞いたが、小さな子供の体にはそこら中に痣や小さな擦り傷や切り傷があり、背中や足の裏、左肩は特に酷い。




「お嬢様、背中と足の裏は傷が残っちゃうってお医者様が言ってた」


「……そう」


「……なんか、思ってたのと違ったね」


「…………そうね」




 王族だから、きっと我が儘で高慢で扱いに困ると思っていた。


 でも実際現れたのは小さなか弱い女の子だった。


 傷だらけで、痩せ細って、人に怯える様は痛ましく、ただパンをミルクで煮ただけの病人食を泣きながら美味しいと食べる。


 どのような虐待を受けていたか考えるだけでもゾッとする。


 自分達が近くにいては休めないだろうと下がったが、リニアもメルティも小さな主人のことが気になって仕方がなかった。


 それにあの少年も、主人の侍従になるとオリバーと話していたけれど、全く使用人らしくない。




「あの男の子も変わった子だし」




 メルティも同じことを考えていた。




「旦那様もオリバーさんも了承したことなら、私達は従うしかないわね。それにお嬢様はあの少年のことを信頼してるみたいだもの」


「うん、それは確かにそうだけど……」


「とりあえずはしばらく様子を見てみましょう」




 ただリニアもメルティも、新しい主人を王族だからと拒否する気持ちはもう湧かなかった。


 傷だらけの小さな体とオリバーが説明の際に口にした「お嬢様もまた王家の被害者です」という言葉を思い出していた。







* * * * *

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