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7日目(2)

 






 何とか足を動かして中庭から離れる。


 あんなに走り回ったのは、多分、リュシエンヌは初めてだったと思う。


 脇腹も痛んだし、足の裏は小石などで切れて痛いし、慣れない運動で無理に動かした体が重い。


 何とか井戸まで辿り着くとその場に座り込む。


 気合いでここまで来たが、足が震えてる。


 ……疲れた……。


 少し休みたくて井戸に寄りかかる。


 全身びしょ濡れの泥だらけで、火の球が掠ったり当たったりした髪の先や服の裾なんかはちょっと焦げてるし、手足も土まみれだ。


 このまま物置部屋に戻って寝たい。


 でも、もし見つかれば折檻されるだろう。


 それに唯一の寝床も汚れてしまう。


 ……大変でも、水浴びしなきゃ……。


 そう思っても体は鉛みたいに重くて動けない。


 閉じた瞼を開けるのも億劫だ。


 ふと当たっていた日差しの暖かさがなくなった。


 目を開けると、ルルが立っていた。




「……ルル……」




 呼んでみたけれど返事はなかった。


 代わりにそっと抱き上げられた。




「……わたし、きたないよ」




 泥だらけのわたしを抱き上げたせいで、ルルの服にも泥がついてしまうのが見えた。




「汚くない」




 ルルはそう言うとわたしを抱えたまま歩き出す。


 後宮の壁際、人目につかない茂みの中に入ると、ルルが囁くように呪文を唱えた。


 音もなく空中に水が現れ、わたしとルルとを包み込み、それは球体になった。


 同時にルルの顔が近付いて、唇に柔らかいけれど、少しカサついた感触が重なる。


 水中の中でもお互いが見えるくらい近い。


 わたしの呼吸に合わせるように、ふう、と息が吹き込まれる。


 口の端から微かに漏れた空気がこぽりと鳴った。


 水はほんのり温かくて、全身を撫でるように動き、視界の端で水がゆらゆらと揺れる。


 わたしが息を返すとルルがそれを吸う。


 呼吸に合わせて、こぽり、こぽり、音がする。


 静かで、キラキラしていて、視界いっぱいにルルの顔があり、互いの呼吸と漏れた空気の音が響くだけの世界は美しくて。


 間近にあるルルの素顔は綺麗だった。


 灰色の切れ長の瞳は涼やかで、鼻も多分スッと通っていて、精悍というよりかは端正といった感じの、整った顔立ちだ。


 世界に二人しかいないかと思える時間だった。


 何度か呼吸をし合っているうちに水の流れが弱くなり、しゅるりと水が離れていった。


 ルルの唇も、どこか名残惜しそうに離れる。


 土が混じって汚れた水はルルがまた呪文を口にすると、ジュッと微かな音を立てて消えた。


 わたしもルルも濡れ鼠だ。


 もう一度、ルルが呟く。


 すると暖かくて柔らかな風に包まれる。


 風はわたしとルルとを乾かしてくれる。


 その時にはもうルルは素顔を隠していたけれど、わたしの頭の中にはハッキリと残っていた。


 ……ルルって。




「かっこいい、ね」




 風の中でも聞き取れたのかルルが目を瞬かせた。




「美人とか綺麗とかじゃなくて?」




 ルルにそう聞き返されて笑ってしまった。


 きっと今まで色んな人にそう言われたんだろう。


 確かに第一印象は「綺麗」である。


 多分、年齢は十代半ばから後半くらい。


 その年齢で暗殺者になるのはきっと大変だろうし、顔を隠してるのはきっと顔で判断されたくないからだろうし、何より灰色の瞳に宿る光はとても鋭くて。




「ルル、つよい鳥みたい」




 綺麗な外見だけどそれだけじゃない。


 この世界に鷹とか鷲とかがいるかは分からないけれど、例えるなら、そんな感じ。


 誰よりも早く、高く飛んで、獲物を狙い、抵抗する間もなく捕獲して、食べてしまう。


 狙われたらきっと逃げ切れない。




「かっこいい」 




 ルルが目を細めた。


 全身が乾いたからか風が止む。




「ありがとぉ」




 わたしの顔にルルが自分の顔を寄せた。


 布越しに頬を触れ合わせた感じがした。


 それからルルはその場に胡座をかき、わたしをその上へ下ろした。


 懐から小さな瓶を取り出す。


 中身は黄色っぽい液体だ。


 それを小さな布に染み込ませ、わたしの袖を捲り、ぺたりと腕に貼った。


 ……冷たい。


 そこは最初に火の球が当たった場所だった。


 ルルは細かく確認して足にも布を貼る。


 その小瓶を仕舞い、別の小瓶を取り出して、同じように小さな布に染み込ませると足の裏に貼った。


 じわりと沁みたが容赦なく両足の裏全体に薬のついた布が貼られ、包帯でぐるぐるに巻かれた。




「それ、見つかったら……」


「大丈夫」




 ルルがわたしの頭を撫でながらもう一度「大丈夫だよぉ」と言った。


 小瓶を仕舞うとルルはわたしを両手でゆっくりと抱き上げ、立ち上がる。


 茂みから出ると何故か水の球を出して井戸の周りの地面を濡らした。


 ……あ、そっか、わたしが井戸を使ったと思わせるために水を撒いてくれたんだ。


 それからルルはまるで散歩でもしてるみたいな足取りでわたしを片腕に抱え直すと、扉を開けて堂々と建物の中へ入っていく。


 空いた右手の人差し指がわたしの唇に当てられて「静かにねぇ」と囁かれる。


 それに頷き返した。


 わたしを抱えたルルが廊下を歩いていく。


 警備のためにいる女性騎士もメイドも、ルルが目の前を横切っても全く気付かない。


 まるで見えてないみたい。


 ……ううん、みたいじゃなくて、見えてないんだ。


 魔法か何かでルルは自分の姿を隠してるんだろう。


 だから堂々としていてもバレないんだ。


 ……でもわたしは見えてる。


 初めて会った時もルルは多分隠れていて、だから王妃には姿が見えてなかった。


 最初にルルが自分のことを見えてるか聞いたのはそういうことだったんだ。


 見えないはずなのにわたしには見えていたから。


 ルルもきっとかなり驚いただろう。


 ……驚いたと言えばさっきの。


 素顔を見られたことにビックリして流しちゃったけど、ルルとキス、したんだよね。


 汚れを落とす間、息が出来ないと困るからしただけだったのかもしれない。


 でもキスはキスだ。


 柔らかくてちょっとカサついてて、唇が触れてる間、ふわふわした気分だった。


 思わず自分の唇を触っていたらルルがこちらを見た。


 小首を傾げて「どうかした?」というような顔をされたので、わたしは「なんでもない」と首を振る。


 ルルは首を戻すとわたしを抱え直した。


 細身だけどルルの腕はしっかりとわたしを支えてくれているから不安はない。


 背中に添えられた手の大きさを感じた。


 もう一度唇に触れる。


 ルルとのキスは全然嫌じゃなかった。


 ……ああ、そっか。


 ドキドキと高鳴る胸が心地好い。


 ……わたし、ルルが好きだ。


 まだ会ったばかりだけど。


 名前も職業も教えてもらえてないけど。


 まだまだ知らないことだらけだけど。


 ゲームの隠しキャラの「ルフェーヴル=ニコルソン」じゃなくて、ここにいて、わたしに優しくしてくれる現実の「ルル」が好きなんだ。


 ルルにぴったりとくっつく。


 ……あったかい。


 ルルの腕の中は心地好くて安心する。


 ドキドキしてるのにホッとするなんて、不思議な感覚だ。


 ずっとこの時間が続いてくれたらいいのにと思う。


 でも残念だけど物置部屋に辿り着いてしまった。


 扉を開けるためにルルがわたしの背中から手を離す。




「……ルル」




 ルルを呼ぶと「なぁに?」と囁くような声が返ってくる。


 疲れてしまってもうくたくただ。


 さっきから本当は眠たくて仕方がない。


 だけどこれだけは伝えたい。




「わたし、ルルがすき」




 ルルの首にギュッと抱き着いて言う。


 顔は見えなかったがルルが笑った気配がした。







* * * * *








 ルフェーヴルは首にしがみつくリュシエンヌを支えながら、喜びに笑みを浮かべた。


 ……ああ、堕ちてきた。


 触れた背中からドキドキとリュシエンヌの小さな心臓の鼓動が感じ取れる。


 ギュッと抱き着く体が温かい。


 リュシエンヌがルルを好きだと言った。


 ……そっか、そうだねぇ。


 憐れで可愛いリュシエンヌ。


 他の人間を知らないから、オレみたいな悪い奴の手の中でころんと転がってしまう。


 裏表のない純粋な好意が伝わってくる。


 ……オレもリュシエンヌが好きだよぉ。


 大丈夫、あと一週間の我慢だ。


 クーデターさえ無事に済めば外に出られるし、こんな最低な暮らしも終わるし、何より一緒にいられるようになる。


 そうしたら今よりもっと可愛がってあげる。


 沢山甘やかして、目一杯構って、他の奴らよりもオレが一番だって気付かせてあげる。


 腕の中の小さな体から力が抜ける。


 今まで頑張って起きていたようだったが、体力のない小さな体であれだけ走ったのだから疲れていて当然だ。


 ルフェーヴルの首に抱き着いたまま眠りに落ちたリュシエンヌの背中を優しく撫でる。


 いつもリュシエンヌが寝床に使っている毛布の端に腰を下ろし、毛布を一枚取って、起こさないように慎重に毛布で包む。


 そして足の上に寝かせた。


 もし誰かが来てもルフェーヴルのスキルのおかげで、リュシエンヌもルフェーヴルも他者の目には映らない。


 せめて明日の朝までは薬をつけたままでいさせなければ。


 ……素足っていうのも問題なんだよねぇ。


 辺りを見回し、使っていなさそうな布を見つける。


 手繰り寄せてみると、それはどうやら服らしく、リュシエンヌが着ているものと同じ形のワンピースだった。


 ただし大分小さい。


 これではもう着られないだろう。


 だから放置されているのか。


 口の中で小さく魔法の詠唱を呟き、水の球を出すとそこへ服を放り込んだ。


 水を動かして服を洗い、水を消したら風で乾かす。


 ついでに部屋の中の澱んだ空気も一緒に外へ出し、綺麗な外の空気を中へ取り入れた。


 乾いた服の端を口に咥え、手で掴み、引き裂いた。


 ビリリと音がしたけれどリュシエンヌが起きる気配はなく、ルフェーヴルは布を更に細く裂いた。


 ……うん、こんなものかな。


 いくつかに裂けた布は包帯に近い。


 今使っている包帯をリュシエンヌの足から外し、作ったばかりの簡易の包帯を巻き直す。


 これならリュシエンヌがボロ布を靴代わりに足に巻いているように見えるだろう。


 真新しい包帯だとさすがに目立ってしまう。


 ……リュシエンヌって小さいなぁ。


 まだ五歳に満たないのだから、十七歳のルフェーヴルに比べればどこもかしこも小さく見える。


 ぐっすりと膝の上で眠るリュシエンヌを眺めた。


 そっと前髪を避けて寝顔を覗き込む。


 痩せて頬がちょっとこけているが十分に可愛らしい顔立ちは、眠っていると更に幼く感じられた。


 ルフェーヴルのものになるとして十一年。


 貴族や王族は十二、三歳ほどで婚約することが多いらしいのでリュシエンヌがそれくらいになったらまずは婚約しよう。


 そして十六歳までの数年は婚約者として堂々とリュシエンヌを構い倒すことが出来る。


 成人したらすぐに結婚すればいい。


 もしリュシエンヌが学院に通いたいと言うのであれば、それはそれで好きにすればいい。


 もちろんルフェーヴルも一緒に行くが。


 ただ今のリュシエンヌを見る限り、学院に行きたいとは言わなさそうだ。


 ルフェーヴルからしても学院に行かせたくない気持ちの方が強い。


 どうせルフェーヴルと結婚したら人付き合いなどほぼなくなるのだし、暗殺者の妻に、貴族としての教養や社交は必要ない。


 ……まあ、経験も大事だけどねぇ。


 恐らくリュシエンヌは貴族社会に馴染めないだろう。


 本人が努力すれば多少は混じれるかもしれないが、王族の血を濃く引いたリュシエンヌと親しくしようと思う者は少ないはずだ。


 例え王女であったとしても、貴族側からして、子を成すことも許されない前王の子を迎え入れても利益は少ないし、邪魔なものである。


 ならルフェーヴルが貰ったっていいだろう。


 結婚するとなれば色々と準備が必要だ。


 ……家と敷地を探さないとなぁ。


 広い敷地と家がいい。敷地と外との境目に高い塀を立てて、庭は季節ごとに色とりどりの花が咲くように整えて、家というよりは屋敷の方がいいかもしれない。


 リュシエンヌが飽きないように可愛い部屋や遊ぶ部屋、寛ぐ部屋をいくつも用意して。


 ……んー、闇ギルドから数人雇おうかなぁ。


 庭を整える者、家の中を整える者、屋敷を警備する者、屋敷に住むには人手がいる。


 リュシエンヌが口にするものはルフェーヴルが作るから料理人を雇うつもりはない。


 闇ギルドから仕入れた者なら必要以上に詮索してこないし、リュシエンヌに姿を見せないように行動することも出来る。


 門には鍵をかけてルフェーヴル以外は通さない。


 綺麗な屋敷で綺麗な服を着せて、リュシエンヌを甘やかしながら二人だけで過ごす。


 オレとリュシエンヌだけの世界。


 ……そのためにももう少しお金貯めなきゃねぇ。


 その目処もついているが。


 二人だけの世界をリュシエンヌは喜ぶだろうか。


 誰に邪魔されることもない二人だけの生活だ。


 欲しいものがあれば闇ギルドで仕入れればいい。


 極力、リュシエンヌを外と引き離す。


 オレだけに依存して、執着して、外の世界への興味なんて失くしてしまえばいい。

 

 その代わりに綺麗な服も、美味しい食事も、楽しい遊びや柔らかなベッドも与えてあげる。


 怖いこともなく、痛いこともなく、苦しい思いもせず、他者から蔑まれることもない、好きなことだけをして過ごせる世界。


 後宮ここでの暮らしが平気ならば、多分大丈夫だろう。


 毎朝オレの腕の中で起きて、毎晩オレの腕の中で眠るリュシエンヌはきっと可愛い。




「……楽しみだねぇ」




 ルフェーヴルはうっそりと笑って呟いた。


 準備をしていれば十一年なんてあっという間だ。






* * * * *

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