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1日目(1)

 






 古びた椅子や机、棚などが放り込まれた部屋。


 日当たりも悪いし埃だらけなその物置部屋は広さだけは十分にあった。


 しかし、広いせいかいつもその部屋は寒い。


 ベッドもなくて、あるのはゴワゴワした肌触りの厚手の毛布が数枚。穴の開いたクッションが一つ。


 高い場所に小さな窓が一つあるだけで、昼間でも薄暗く、どこかじっとりと澱んだ空気が溜まっている。


 そんな部屋の床にわたしは転がっていた。


 目の前にはこの部屋に似つかわしくないほど綺麗なドレスを着た女の子が二人立っていて、驚いた表情を浮かべてわたしを見てる。


 そのうちの一人に突き飛ばされたわたしは後ろに倒れ、床に頭を打ちつけたのだ。


 痛みのあまり声も出せないわたしにまずいと思ったのか、女の子二人は慌てたように後退った。




「わ、私は悪くないわ!」


「そうよ、お前が悪いのよ!」




 そう言い捨てて二人は部屋を出て行った。


 パタパタと足音が遠ざかっていく。


 わたしは埃まみれの床に転がったまま、痛む頭を抱え、呆然としていた。


 頭を打ちつけた衝撃で視界に星が散った瞬間、わたしの頭の中を覚えのない記憶が駆け抜けていったのだ。


 これは何? これはわたしよ。


 こんなの見たことない。だって別の世界だもの。


 別の世界? そう、こことは違う人生。


 じゃあわたしの名前は?


 わたしはリュシエンヌ=ラ・ヴェリエ。


 ヴェリエ王国の第三王女。


 ……嘘でしょ?!


 思わずがばりと起き上がれば目眩がした。


 両手で顔を覆い、色んな意味で痛む頭を我慢する。


 今のわたしになる前のわたし、つまり前世のわたしも冬場にうっかり足を滑らせて階段を落ちたのだ。


 その後の記憶がないってことはあの時、死んだのだろうか。


 いや、それよりも今の方が問題だ。


 今のわたしの記憶も思い出したが、ここは前世のわたしがよく遊んでいた乙女ゲームと同じ世界だ。


 国の名前もそうだけど、何よりわたしの存在。


 わたしの父親であり暴君である現国王を筆頭とした王族の傍若無人な振る舞いと国庫を食い潰す贅沢三昧さはあまりにも酷く、それに耐え切れなくなった臣下達がクーデターを起こして王権を簒奪するのである。


 殆どの王族が処刑される中、リュシエンヌだけは処刑を免れる。


 その理由はリュシエンヌの出自とそれまでの扱いにあった。


 城でメイドとして働いていた伯爵家の娘を王が無理やり手篭めにし、その結果生まれたのがリュシエンヌだった。


 母親はリュシエンヌを生んだ代わりに死に、王の血を引くリュシエンヌは第三王女として迎え入れられたが、父王はたまたま手を出しただけの女の子供には無関心だった。


 夫に浮気された王妃とその子である王子や王女達は当然ながらリュシエンヌに辛く当たった。


 満足に食事も与えず、衣類も擦り切れた古着ばかりで、物置部屋に押し込めると気まぐれに現れて暴力を振るう。


 後宮のメイド達は王族に逆らえず、リュシエンヌの酷い扱いを見て見ぬ振りしていた。


 そしてクーデターが起こった時、リュシエンヌは初めてその存在が明るみになったのだ。


 王族と貴族の血を引きながら、まるで貧民街の子供のようなありさまのリュシエンヌはその憐れさのおかげで生き延びることとなる。


 そしてクーデターのリーダーであったファイエット侯爵が次代の王となり、リュシエンヌは王家の血を悪用させないためにファイエット家の養女に、第一王女として迎えられる。


 ゲームが始まるのはリュシエンヌが十五歳で学院に入学した時だ。


 でも待って、今、わたしって何歳?


 リュシエンヌの記憶を辿っても無意味だ。


 何せこのリュシエンヌ、この部屋からあまりに出ない上に、誕生日を祝われることもなかったので生まれてからの年月が不明なのだ。


 原作では十年前に王が変わったという話だったし、クーデターが起こっていないということはまだ五歳に届いていないのだろう。


 改めて自分の手の平を見る。


 小さくて、傷だらけで、子供にしては瘦せすぎだ。


 伸びっぱなしの髪は膝近くまであるし、お風呂にもあまり入れさせてもらえないので薄汚れている。


 よりにもよって、原作の乙女ゲームでヒロインちゃんに悪質な嫌がらせをする王女様に生まれ変わるなんて……。


 ……それにしてもリュシエンヌの人生初っ端からハードモード過ぎない?


 ここまでよく生き残れたな。


 あ、でもこっそり食べ物を分けてくれたメイドがいたんだっけ。


 しかしそれがバレて辞めさせられてしまった。




「……おなかすいた」




 そういえば一昨日から何も食べてない。


 さっきの女の子達は第一王女と第二王女で、よく王妃と一緒になってリュシエンヌに暴力を振るう。


 あの二人が一昨日もやって来て食事を取り上げたので、リュシエンヌは空腹をこっそり井戸水でごまかしていたのだ。




「頭いたい……」




 打ちつけた後頭部がジンジンと痛む。


 触ってみると大きなたんこぶが出来ていた。


 どちらにしても井戸に行かなければ。


 空腹を紛らわせたいし、たんこぶも冷やしたい。


 ボロ雑巾みたいな布を持って、こっそり物置部屋を出ると、後宮の裏手にある井戸へ向かう。


 もう大分日も高いからメイド達もいないだろう。


 殴られ、蹴られ、突き飛ばされた小さな体はどこもかしこも軋むような痛みを感じる。


 それでも何とか歩いて井戸へ辿り着いた。


 一度、井戸の縁に手を置いて息を吐く。


 それから脇に置かれていた桶を井戸の中へ投げ入れ、それに繋がった縄を握る。


 とても重たいがジリジリとゆっくり引き上げ、桶の姿が見えると縄を井戸の柱に巻き付けて、桶を引っ張って寄せる。


 そのまま桶に顔を突っ込んで水を飲んだ。


 口の中を切ったのか少し沁みる。


 それから持ってきた布を浸し、適当に絞ると、後頭部に当てた。


 たんこぶが出来て熱を持っていたのかヒンヤリと冷たい布が気持ち良い。


 井戸に寄りかかって座る。


 多分、すぐに布は温くなってしまうから、部屋に戻らずにここで冷やした方がいい。


 予想通りあっという間に温くなってしまった布を後頭部から離し、もう一度桶に入れて濡らす。


 …………。


 ついそれで腕を拭いてしまった。


 だってあんまりにも薄汚れているから。


 一度気になってしまうと無視出来なくて、布で顔や手足を拭き、水に浸し、今度は服の下を拭いてと汚れを取っていく。


 水はビックリするくらい汚れた。


 でもわたし自身はちょっとスッキリした。


 井戸の外に桶をひっくり返して汚れた水を捨てていると、自分に影がかかる。


 驚いて離してしまった桶が地面に転がった。


 振り向いた先には少年が立っていた。


 後宮は男子禁制である。


 まじまじと見上げれば、何故か少年もまじまじとわたしを見下ろしている。


 そして無言で右に三歩ずれた。


 だから同じだけ顔を動かした。


 そしたら今度は左に三歩ずれた。


 やっぱりおなじだけ顔を動かした。


 少年の灰色の瞳がまん丸になった。




「君、オレのこと見えてる?」




 その問いに頷いた。


 一応足があるか確認した。


 ……うん、足がある。幽霊じゃない。




「こっち来て」




 とりあえず少年の手を掴み、井戸から離れると後宮を囲んでいる壁に向かう。


 壁の周りは木や茂みがあるから意外と隠れやすい。


 その辺の茂みの陰に引っ張り込んでしゃがむと、少年も同じようにその場に屈んだ。




「あのね、ここは後宮だから、男の子は入っちゃだめだよ」




 服装からして貴族って感じでもなさそう。


 茶色の髪に灰色の瞳、口元は布で覆っていて、顔を隠すように首にマフラーみたいなものを巻いている。


 不思議だがどこかで見たような気がする。


 ……あれ? 笑ってる?


 少年が口元の布に手を当てて俯いた。


 その肩が微かに揺れている。




「はやく外に出たほうがいいよ。見つかったらすごくおこられるから」




 少年が顔を上げた。




「逃してくれるの?」


「ちがう。わたしはなんにも見てないし、だれにも会ってないの。だからあなたのことも知らないしだれにも言わない」


「……ふうん、頭は良いみたいだね」




 少年が目を細めた。


 多分、笑ったのかな?


 どこかからわたしの名前を呼ぶ声がした。


 手の力が緩むと、少年がすっくと立ち上がる。


 そうして茂みから出て行くものだから、わたしは慌ててその後を追った。


 後宮に忍び込んだ者、特に男性の処罰は厳しい。


 厳しいというか問答無用で殺されてしまう。


 それなのに少年はスタスタとわたしを呼ぶ声の方へ歩いて行く。


 何とか止めたいのだが、歩幅の違いのせいで全く追いつけない。


 とうとう声がすぐそこに迫った。




「ま、まって……!」


「リュシエンヌ!」




 曲がり角からドレスを纏った女性が現れた。


 ごてごてに着飾った王妃だ。


 わたしの声に気付いてこちらを睨め付ける。


 ああ、どうしよう……!




「あなたまた勝手に部屋から出たのね? 言い付けを破るなんて! あの女の子だけあって人を不愉快にさせるのだけは本当に上手だこと!!」




 王妃は怒りながら歩いて来たが、どうしてか脇に避けた少年の目の前を素通りしていった。


 …………えっ?


 そしてわたしの前に立つと王妃が手を振り上げる。


 あ、と思った時には頬をぶたれていた。


 痛みよりも頬の熱さを先に感じた。


 更にグイと容赦なく長い髪を掴まれる。




「ほら、さっさと歩きなさい! 部屋に戻るわよ! これだから愚図は嫌なのよ!!」




 髪を掴まれる、引きずられるように王妃と共に物置部屋に向かって廊下を歩く。


 ふと見えた少年はジッとこちらを眺めていた。


 ……よく分からないけど見つからなくて良かった。


 安心してふにゃりと笑えば、少年の目がまた丸くなった。


 同時にガツンと地面に叩きつけられる。




「何笑ってるのよ、薄気味悪い!!」




 ガス、と背中を蹴られる。


 ヒールのある靴だったのか突き刺さるような痛みが背中に走る。


 唐突に思い出した。


 原作のゲームで最近追加された隠しキャラを。


 闇属性の暗殺者で隠密能力に長けた青年。


 ……隠しキャラなのに全然隠れてないじゃん。


 薄れゆく意識の中で、ぼんやりとそう思った。







* * * * *








 下品なほどに着飾った王妃が廊下を歩いて行く。


 その後ろ姿が角の向こうに消えてから、ルフェーヴルは床に転がったまま動かない子供の顔を覗き込んだ。


 微かだが小さな体が上下に動いている。


 どうやら気絶したらしい。


 よくよく見れば薄汚れた体には打撲や擦り傷、切り傷がそこら中にある。


 王妃の様子からしても、あのような扱いは日常的なものなのだろう。


 先ほど間近で顔を見た時に気付いたが、この子供は恐らく王族の血を引いている。


 髪はどこにでもいそうな茶色だが、鬱陶しいほど長く伸びた髪の隙間から覗くその瞳は王族特有の美しい宝石のような琥珀色だった。


 この琥珀の瞳を持つのは今の王族には現王とその息子の第二王子だけだ。


 第二王子はまだ十歳なので間違いなくこの子供は王の子だ。


 ……なるほどねえ。


 第二王子は側妃の子だ。


 王妃は一男二女に恵まれたが、その全てが琥珀の瞳を受け継ぐことが出来なかった。


 そして先ほどの扱いを見るにこの子供は側妃の子ではないのだろう。


 好色な現王は時折見目の良い侍女やメイドを手篭めにすることがあり、多分この子供はその結果生まれた子だ。


 よりにもよってその子供が琥珀の瞳を受け継ぐとは、皮肉な話だなあ。


 子供の顔を眺めているとメイドがやって来て、子供を雑に抱え上げ、連れて行く。


 乱暴な扱いにも関わらず子供は目覚めない。


 そのメイドの後ろをついて行けば、一つの扉の前で立ち止まった。


 シンプルというよりかは地味な扉を開けると、メイドは部屋の中へ入る。


 ……うわ、ここって物置きぃ?


 埃だらけで酷く日当たりの悪い部屋だった。


 その一角にあるくたびれたボロボロの毛布の上に子供を置くと、メイドは一度も振り返らずに部屋を出て行く。


 足音が完全に遠退いてから部屋を見回した。


 ルフェーヴルの背よりも高い位置に小窓が一つあるだけで、湿って澱んだ空気と埃が立ち込める薄暗い部屋だ。


 広さだけはなかなかにあるが、壊れたり古びたりして使わなくなった家具が適当に置かれている。


 壁紙も古く、床には絨毯すら敷かれていない。


 まるで牢屋みたいな部屋だと思う。


 その隅で小さな子供が転がっている。


 試しに子供が転がっている布に触れてみたが、硬くて、擦り切れていて、厚手で、とても肌触りが悪い。


 貧民街ですらここまで粗悪な布は使ってない。


 ゆっくりと呼吸を繰り返す子供を観察する。


 膝まである伸ばし放題の茶色の髪に、くすんだ肌、毛布と同じように擦り切れてボロボロの服は袖や裾が足りておらず、足元は素足だと気付く。


 小さな足の裏は古傷から新しい傷まで数え切れないほど沢山の小さな傷があった。


 ……こんなボロッボロでよく笑っていられるなぁ。


 王妃に髪を掴まれて引きずられていた子供は、ルフェーヴルを見て心底ホッとした様子で笑ったのだ。


 髪を引っ張られて痛いはずなのに。


 暴力を振るわれて恐ろしいはずなのに。


 子供はふにゃりと顔を緩め、ルフェーヴルが見つからなかったことに安堵していた。


 ……まあ、これくらいならいいよねぇ。


 周辺に人の気配がないことを確認し、ルフェーヴルは子供へ手を翳した。


 口の中で小さく詠唱し、その手の平に淡い光が集まった。


 しかしその光はパッと弾かれる。




「え?」




 予想外の出来事にルフェーヴルは目を瞬かせた。


 もう一度詠唱を口にしたものの、やはり弾かれてしまう。


 ハッとしたルフェーヴルは子供の額に触れる。


 小さな体には欠片も魔力がない。


 量に差はあれど、普通ならば人間は魔力を持って生まれてくる。


 量が少なくて魔法を使えないということはあっても、魔力を持たない人間など聞いたことがなかった。


 ……そっかぁ、だから王族として扱われないんだぁ。


 王族特有の琥珀の瞳を受け継いだのに、本来王族の血を引いていれば量が多いはずの魔力をこの子供は爪の先ほども持っていない。




「これは報告しないとねぇ……」




 事前の話には存在しなかった子供。


 魔力を持たない子供。


 ルフェーヴルのスキルが通じない子供。


 そして屈託なく笑った子供。


 ルフェーヴルにあんな無邪気に笑いかけた人間は今まで一人もいなかった。




「死なせるにはちょ〜っと惜しいかなぁ」




 懐から傷薬を取り出すと、ルフェーヴルは目を覚まさない子供の服を捲り、傷の手当てを行う。


 どうせ仕事でしばらくは後宮に忍び込むことになるのだ。


 ついでにこの子供を近くで観察してみよう。


 手早く子供の傷の手当てを済ませると、ルフェーヴルは埃まみれの部屋を出る。


 あの痩せ細った体ではあっという間に死にそうだ。


 ……まずは餌が必要だよねぇ。


 ルフェーヴルは目を細めて声もなく笑い、王妃の呼んだ名前を口にする。




「リュシエンヌ」




 久しぶりに面白いものを見つけた。







* * * * *

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