8話『催眠アプリ』
土曜日の朝から拘束衣を着て裸の女に抱きつかれたとは倒錯的な体験といえるかもしれない。まったく嬉しくはなかったけれども。
とりあえず規定の抱きつきも終わり、外に出た僕はびしょ濡れになった拘束衣を外に干した。オフィスの周りは駐車場とちょっとした庭があり、美月さんのガーデニング的な草花も植えられている。そこに干し台が置かれていて、時折オフィスのクッションなどが干されていた。
拘束衣のついでにソファーのクッションも持ってきて干しておく。僕の寝床なのだから、快適にするのも意味があるだろう。
それから僕らはまったりと土曜日を過ごしていた。二人は酒の影響がまだ残るので朝からは体調もよろしくないようだ。美月さんは「また行こうね」と苦笑しながら言っていたけれど。美月さんが誘うのならば僕は熱が40度あっても飲み会に参加するだろう。
二階の居間にてなんとなしに僕らは集まっている。いい年した男女三人が土曜の朝から暇そうにしているのもなんだが、実際のところ僕とあいつは病気治療の関係もあってあんまり出かける気になれない。お互いバラバラに出かけても六時間後ぐらいには必ず帰ってこなくてはならないし、なにかの事故で抱きつけない事態になったら余計に面倒だ。
そんな最中、美月さんを膝枕して(あいつが誘ったら美月さんが素直に頭を預けてた。僕が誘えばよかった……)携帯をいじっていたレズが提案した。
「考えよう! 抱きつく際のキモさ軽減作戦!」
「ロボトミー」
「馬鹿ー! 危ないのは無しだ!」
僕の冴えた答えを即座に否定する。いい案だとは思うんだけど。脳を直接いじるロボトミーは。ソ連の非人道的な医学発展で、今ではいい感じになったという噂も東側には流れているというのに。
「でも汝鳥ちゃん、失敗したら痛むから止めたほうがいいんじゃない?」
「ふふふ大丈夫ですよ美月さん! 挑戦無くして成長無し! レズは退かない媚びない省みない!」
そう言って彼女は携帯の画面を水戸黄門の印籠みたく見せつけた。
「それに、なんか使えそうなアプリを以前購入していたことを思い出しまして」
「アプリ?」
「『催眠アプリ』じゃーい!」
美月さんも膝枕から起き上がってスマホの画面を覗いた。
そこにはおどろおどろしい模様と、MCという文字が出ている画面が映っている。
「催眠アプリ……ある意味有名なやつだが、実在していたとは……」
「これどういうものなの? おばちゃんに教えてー」
「使った相手を強力な催眠術で操ることができるんです! 常識を改変したりすることもできるとか!」
「ああ、キン肉マンでいうとスーパーフェニックスの不死鳥乱心波みたいな?」
「そっちが出てくるの!?」
美月さんはオタクではないのだけれど、キン肉マンとか一部の漫画アニメは見ている。
昨日カラオケで美月さん『キン肉マンGO! fight』とか歌ってたけどさ。凄く可愛い歌声だった。好き。
しかし催眠アプリか……
「胡散臭いなあ……昔のパソコン雑誌に載ってた広告みたいで。幾らだったんだそのアプリ?」
「……二万円」
「たっか! 騙されてるよお前! バーカ!」
「うるさいそこの男子!」
アプリ一つに二万円……当然クーリングオフなんかも出来ないわけだから、いい詐欺の手段だ。
催眠アプリという存在が広くオタクに浸透している時代だからこそ、引っかかる人も結構いるのだろう。
「汝鳥ちゃん、前に買って忘れてたってことは、その不死鳥乱心波アプリは使えなかったの?」
「これを使えば女の子を即コマせそうだと喜んでダウンロードしたのですが……」
「犯罪者か」
「実はこのアプリ、使用条件がありまして」
画面をスワイプして見せると、催眠アプリを使って催眠術を使わせるための条件が書かれたところへ移動した。
ええと、
『このアプリを使うと強力な催眠術に対象を掛けられ、なんでも言うとおりにさせることができます。意識を操るのも体を操るのもATMで預金を引き出させるのも望みのままに!(自己責任で命令してください)
まず催眠アプリ使用画面を以下の条件で見せましょう。
1:暗い密室に相手と二人きりになってください。
2:使用者に対して、とても信頼していて何も拒絶しないぐらいの関係で、なるべくノリがいい相手を選んでください。
3:相手をとてもリラックスしている状態にしてください。
4:アプリの画面を間近で見せつつ、耳に口を近づけて小声で「催眠開始」と囁きます。
5:相手の体に触れても反応が無くなれば成功! 命令を出してください。
6:催眠解除!と告げることで催眠アプリの効果は切れます(使用中の記憶があるかどうかは個人差によります)』
そんなことが書かれていて、レズは半ギレになりつつ文句をつけた。
「暗い密室で拒絶しないような相手とリラックスして二人っきりになれたら目的の九割は達成してるっちゅうねん! 後はネチョるだけじゃん! ふざけんな! 催眠いらねえよ! 二万返せー!」
「これ、素直な相手が催眠に掛かったフリをしてくれるの前提なんじゃ……」
「え、えーと、それでどうするのかな汝鳥ちゃん」
美月さんが苦笑いをしながら聞くと、馬鹿騙されレズは勢いよく頷いた。
「そこで美月さんが私にこの催眠アプリを使って貰います。そして命令で、抱きつきへの拒絶感を無くすとか、男の存在を石ころ帽子のように感じなくなるとかやってくれれば平気になるかもしれません」
「そ、そう」
「土壇場で試すのも怖いので、ちょっと今やってみましょう! なにせ私は美月さんを信頼しまくって拒絶とかしませんし掛かりやすいはず!」
そして二人は居間の隣の部屋に入っていった。あそこまで勢いよく自分に催眠術を掛けさせるやつ初めて見た。
隣の部屋からカーテンを閉めて明かりを消す音が聞こえる。本気でやるみたいだ。
しかし催眠術か……かなり胡散臭いな。僕はネットであいつがダウンロードした催眠アプリの情報を探してみた。だが、雑音のようにエロ関係の情報が氾濫していてなかなか見つからない。自動で選別してくれるプログラムを走らせる。似たようなアプリで詐欺が行われた情報はあるが、そのものズバリは出てこない。
そうして時間を潰していると、隣の部屋から声が聞こえてきた。
「これで催眠できたのかな……よし! 汝鳥ちゃん浮かべ!」
「はい……汝鳥浮きます……フワー」
「わあ! この催眠術本物だ!」
浮いたの!? 催眠アプリで!?
凄く見たいんだけど隣の部屋でなにが起こってるんだ。
僕が様子を見ようと腰を浮かすと同時に、汝鳥をゾンビ使いのように引き連れた美月さんが部屋から出てきた。ねえ、浮遊は!? 浮遊やらないの!?
「じゃあ汝鳥ちゃんの抱きつきを試してみるから成次くん来てよ」
「は、はあ」
抱きつきよりも大事なことがある気がしたけれど、ひとまず僕も従う。催眠術に掛かっていようがいまいが従うだろう。
催眠アプリの影響下にある……のだと思う汝鳥は表情筋が死んだような顔つきで目も虚ろだ。いつも死ぬほど騒がしい上に顔色がコロコロと変わりまくるのを見ているので、まるで別人に見える。
「うーん、なんて命令出そうかなあ……よし!『汝鳥ちゃんは成次くんが大好きになる』!」
「は!?」
美月さんがその、忌まわしい呪いの命令じみた言葉を発すると。
まるで人形に生命が吹き込まれたように、あいつの目に光が灯り、表情が僕を見て敵意を感じぬ微笑みを浮かべ、頬に朱が差してからこんなことを言い出した。
「瀬尾先輩♪ しゅきしゅきだーい好きー♪」
「うわーっ!」
叫ぶ他はなかった。今すぐ逃げ出してしまいたい衝動に襲われる。なんかこう、違和感が半端ない。新手のスタンド攻撃でも受けた気分だった。
躊躇いなくこの女は近づいてきて、僕の体に抱きついて来やがった。
「しゅきしゅきー!」
「ひぃー! お前何キャラだよそれ!?」
目に何か怪しい光が灯っている! あのアプリ本物だったのか!? 普段だったら絶対しない行動と言動で──
「先輩の匂いが好き。温かさが好き。柔らかさが好き。聞いてると落ち着く鼓動が好き。私が照れ隠しで酷いこと言っちゃうのに助けてくれるのが好き。優しくて好き。私の言葉にちゃんと返事してくれるのが好き。意外と力強いのが好き。趣味が似てるのが好き。美月さんにドギマギしてて可愛いのが好き……」
「うげーっ!」
誰か! 僕の鼓膜を突き破れ! 聞くに堪えない妄言を耳にしていると吐き気が止まらん!
鳥肌が立ちまくる。高所に命綱無しでいるような、吸い込まれそうな本能的恐怖に衝動で自害しそうだ!
「みみみみみみみいっみ美月さん! 解除! 解除してください!」
「汝鳥ちゃん大胆……パシャー☆ 成次くんもドギマギしてもうひと押しみたいで……パシャー☆ ううっおばちゃん寂しさと妙な興奮が……パシャー☆」
「撮ってる場合かァー!」
そんなことよりこの発情メス顔晒して抱きつき頬ずりどころか全身なすりつけてくるアホを止めて欲しい!
「えー。いいじゃない成次くん。汝鳥ちゃん可愛いし、可愛い後輩に懐かれたら嬉しいでしょ」
「嬉しくない! 確かに見た目は良いとしても!」
「先輩……私の見た目は好きなんですね……嬉しいっ」
「例えば美少女になったスターリンが惚れて抱きついてきたとか、美少女ポルポトが僕の好きなところをリストアップし始めたとか、そんなの恐怖しか感じないでしょう!? そんな感じですよ!」
「例えがエグいなあ成次くん……」
クソっ! 気分が悪い!
こんなになっては、ただの異様に好意を寄せてくる美人さんじゃないか!
許さん! お前の本性はもっと薄汚え精神をした、口を開けばヘイトモンスターなクソ女だというのに!
今更真っ当に可愛子ぶるなんて許される世界ではない!
「離れろ! 蕁麻疹が出る! お前散々僕を嫌ってただろ!?」
「今は瀬尾先輩のこと好きだからイーブンってやつですね!」
「心を強く持って! 催眠なんかに負けちゃ駄目だ! 君は君だ! 今だ!」
「えへへ、子供はどうします? やっぱり一姫レズ太郎で?」
「レズ太郎!?」
「好きです好きです好きです先輩も私のこと好きになってくださいよ先輩の二号さんでもいいですから!」
「一号誰だよ!?」
「美月さん」
「まあ」
指名された美月さんは照れたように口元を手で隠しつつそう感嘆の声を出した。
「馬鹿野郎! お前の脳みそ狂った考えに美月さんを巻き込むな! 美月さんを犠牲にするぐらいなら僕が犠牲になるわ!」
「えっじゃあ私と両思いになるってことじゃないですか」
「まあ……そうなる……わけないだろ!! 危なァー! 勢いで騙されるところだった!」
意味のわからん理屈だ! そして相手が正気じゃないまたは明確に騙すつもりで交わす契約は法的にも無効になる! 僕はミナミの帝王を読んでるから詳しいんだ!
「それより早く止めてください美月さん! これは人権蹂躙ですよ!」
「えー、でも汝鳥ちゃんが望んだことだし……汝鳥ちゃん可愛いし……」
煮え切らない美月さん。美月さんへ絶対的に譲るのも三度まで。さすがにこれは僕も認められない。
焦りに焦りまくった僕が、つい語気が強くなってしまった。
「いいから言うとおりにしろォォ! 美月ィッ!」
ビクッと美月さんは背筋を震わせる。あああああしまった慌てて怒鳴った上に呼び捨てにまでした……嫌われるわこれ……でも美月さんが中々止めないのが悪いと思うし……
すると美月さんは何故かキョロキョロとして、胸を押さえながら羞恥からか赤くなった顔で言う。
「は、はい。美月、成次くんの言うとおりにします……」
「ええええ」
DVに負けた女性のような態度に僕の罪悪感がマックス! 死ね僕! 窓から飛び降りろ!
「汝鳥ちゃん──催眠解除!」
「好き好き好き好─────────」
洗脳されたレズの動きが止まった。た、助かった。正気に戻ったのか?
するとレズはゆらっとした動きで僕から一歩離れる。
「……」
「……」
「……」
「サラバダー! テレッテー!」
「ああっ汝鳥ちゃんが迷うことなく窓から飛び降りたー!?」
スカイダイビングするような腹ばいの姿勢で、あいつはベランダから投身自殺をした!
こうなれば僕もだ! 美月さんを罵った罪で僕はすぐさま死ぬべきだ!
「さよなら美月さん、僕は貴女のことずっと──」
「えええ!? 成次くんまで思わせぶりなこと言いながら飛び降り──!?」
テーレッテー。
こうして物語は、レズと僕の死という形で終わりを迎えた──
*****
いやなんだよ終わりって。何も終わってねえ。レズとゲイが心中とか危うくダーウィン賞(クソみたいな遺伝子を残さないでバカみたいな死に方した人に与えられる賞)をダブル受賞するところだった。
何はともあれ、衝動的に自害を選んだレズと僕だったが、飛び降りたのが二階だったことと、落ちた場所に僕が丁度ソファーのマットを日干ししていたのがクッションになり、軽い打撲を負った程度で生存した。
そんでもってメッチャ美月さんから説教された。僕ら二人は正座でうなだれて聞いた。遠因は美月さんがレズをマインドコントロールしたことじゃなかったかと思わなくもないけれど、泣きながら怒ってくる彼女にそんな反論はできない。
僕らは自主的に「絶対にもう衝動的に自殺しません」と血判状まで作った。二人共。何故か美月さん若干引いていた。
「……とにかく! パイセンが悪い! お前の存在が! 謝れ!」
「ああはいはい。何もかも僕が悪い。僕はフリーメーソンでテンプル騎士団でイルミナティで三百人委員会だ」
適当にそう返事する。言っておくが僕が悪かったのは美月さんを怒鳴ったことと、心配させたことの二つであって、それ以外何も悪くない。
洗脳レズは「うぎー」と思い出しつつ苦悶の声を上げて頭を抱えている。男相手に自ら抱きつき、妙な呪文を口にしたことを思い出しているのだろう。どうやら、催眠アプリを受けても記憶が残る方らしい。
「私がっ……このレズ界の超タカ派としてレズ団体から煙たがられているこの私が……! 男に抱きついて……! しゅ、しゅ……駄目だマトモに口に出せない! 言葉にしたら呪われる!」
煙たがられてるのかよ……いやまあ、コイツがレズ犯罪を起こして捕まる度に世間の視線は自然とレズ全体へ厳しくなるだろうけど。
「ま、まあ汝鳥ちゃん。わたしがそんなこと命じちゃったのが悪いんだし……ごめんなさい」
「いえ!! 私に鋼鉄の如き頑強な意思があればそんな命令跳ね除けられたはずです!!」
「えっじゃあ潜在的に汝鳥ちゃんは成次くんのことが好きだから命令が効いたってこと?」
「ふぎゃああああ!! そそそそそそんなはずはあああ!! 無い! 絶対無い! 前言撤回! あのアプリのパワーが強すぎただけです!」
やかましい過ぎる……
「拷問したり自白剤を打ち込んで話す言葉には実際信憑性が薄いそうですし、催眠状態での発言もデタラメであってもおかしくないですよ美月さん」
「そうなんだ。だったら汝鳥ちゃんもそこまで気にしないでも……」
「気にしますよ! ここで気にしないなんて主張するやついたら私直々にレズ失格の烙印を押してからベッドインノンケレズ落ちアタックですよ!」
「ほ、ほら? 言ったのがまだ成次くんだったから良かったと思えば……なにも知らない一般男性ならちょっとアレかもしれないけれど、成次くんは親しいし、抱きつきのことも全部知ってるんだから……」
「むしろパイセンだからこそというかぁ……」
「なんでやねん」
「うるさい! なんでもない!」
理不尽すぎる。僕に発言権は無いのか。議会の公平さは失われてしまった。あたかも資本主義の限界を示唆するように。
「と、とにかく、このアプリは危険なのね……」
「使用条件が厳しいですけど、恐らくあの調子ならば掛かれば人殺しでも厭わないでしょう」
大げさすぎやしないだろうか。なにかの推理小説で読んだことがある気がするけれど、催眠術で人を操って殺人や自殺をさせるのは不可能に近いのだという。本能的な拒否感で目覚めてしまうからだそうだ。
ただその設定を読んだ際に、例えばボタン一つ押したりするだけの簡単な動作でターゲットを殺したりする条件を整えれば案外楽に催眠殺人できそうな気がしたけれど、そもそも僕は現実世界での催眠術自体が懐疑的なのでなんとも言えない。
いや目の前で催眠アプリは使われて、実際レズがありえない発言を繰り返したわけだけど……しかしなあ。
ふと僕はポケットに入れていた携帯を取り出す。例のアプリについて自動的に探させていたのだ。だが完全一致のヒットはゼロ。どこにも売っていないか、既に販売中止して削除されているかもしれない。
「危なそうだし消したら? 汝鳥ちゃん」
「ででで、でも2万円でしたし。それに効果はバッチリだったので、なにかに使えるかもしれませんし……」
「……」
僕はふと、目の前に催眠術へと掛かる機会があることに気づいた。機械だけに。なんつって。
「ちょっと、僕にその催眠アプリを掛けてみてくれないか」
「えええ!? 成次くん、危ないよ!」
「大丈夫ですよ、今度は変な命令も美月さんしないでしょうし」
「でも催眠を受けた悪影響で、脳に後遺症とかあったら怖いよ!?」
「……美月さん。私のときそれはなにも警告しなかったですよね」
「てへぺろ。今気づいたの」
確かに。脳に後遺症という可能性は恐ろしい。
昔に見たパソコン通信の雑誌にも、パワーを覚醒させるテープカセットとか広告が出ていて、その音声を聞くと脳が変質してパワーが三倍になるという恐るべき発明だった。多分詐欺だ。
だが人間の脳というのは常に変わりつつある。周囲の情報全ての凄まじい量を認識し続け、意識を連続的に繋げて新たな思考を生み出していく行為を繰り返す。教育と洗脳は本質的に変わりなく、修行で得た悟りも薬物で得た悟りも違いはどれほどもない。
いやまあ適当に理屈をこねるよりも──なんというか、一回ぐらいは掛かってみたい願望を多くの人は持っているのではないだろうか。催眠術。
「いや、やりましょう美月さん! 私だけじゃなくてコイツにも恥を掻かせましょう!」
「それでお前の気が済むならやればいいが……」
「不安だなあ……じゃ、じゃあもっかいやってみるけど、変な命令は無しで危なそうならすぐに催眠解除するからね。あと成次くんも、精神の変調とかで突然自殺しようとしないでね」
「無論です。血判状に誓って」
というわけで今度は僕が催眠に掛かることになった。
催眠アプリを使用するのは、当然ながら美月さん。あのレズ・レズ・レズと二人きりになってリラックスできたり信頼できたりするはずがない。
僕らは二人で居間隣の、美月さんの部屋に入った。
「じゃあ成次くん、そこ座って」
と、指示をされるのは美月さんのベッド。
「……」
いや、なんだね。
こう、男の子としては憧れの女性の部屋に入ってベッドに座るとか、なんだろう。ちょっと高揚する。僕前世でなにか善行でもしたのかな。
そもそも部屋自体がいい匂いするし。なんで? 不思議。美月さんの実家ってそういうハーブでも栽培していたのかしら?
「よーし、じゃあおばちゃん、不死鳥乱心波掛けるから、成次くんはリラ~ックスね」
ベッドに座った僕の眼前にスマホの画面を見せつつ美月さんが言ってくる。
そこまでは良いんだけど、美月さんが何故か僕の隣に座ってきたんですけど。
体温が伝わるぐらいに近い。僕は男として、妙齢の女性でしかも美女な美月さんがそんなに近いと緊張するのは当然だと主張する!
ヤバァイ。心臓がドキドキしてきた。まるで発作でも起こってるみたい。落ち着け僕。今はそんな状況じゃない。
もしこれが、僕が頑張って美月さんを口説いて彼女から受け入れられてのシチュエーションなら、僕は、僕は……! チクショウ! そんな天国が僕みたいな糞虫に訪れるわけないだろ! 夢を見るな!
ともかく今はそういう状況じゃないので、勘違いしないように僕は必死に頭の中でナショナルジオグラフィックを脳内再生させて美しい地球の風景に意識をやるので精一杯だった。わあ。ペンギンがクレバスに落ちた。このペンギンは誰からも助けられることなく死んでいくし、誰からも捕食されることもなく氷河の隙間に存在し続ける。そのペンギンが生きた意味とは。哲学的だ。
僕がガチガチに(別に体の一部が、という意味ではない)なっているのを察した美月さんが、リラックスさせるように耳元で囁いてきた。
「はい落ち着いて~ゆーっくり、息を吐いてー吸ってー」
うわあああ!
僕は叫びだしたかった。でも出来ない。僕がいつまでもリラックスできないと、ドラえもんが安心して未来へ帰れないんだ! そんな思考が浮かび、声は出なかった。眼の前には相変わらず洗脳画面が浮かんでいる。
「吸ってー……吐いてー……」
美月さんの優しい声で脳が痺れそうだ。僕は全身の力を抜いて、声に従うようにしながら画面を見ていた。
「落ちるー……ふかーく落ちるー……」
な、ん、か。
「大きい。黒い。早い。鈍い。涼しい。怖い。甘い。硬い。甘い。暗い。暗い。暗い」
意味のわからない言葉の羅列が……
「ゆっくりー……受け入れる……せーのっ……催眠開始」
……
体が動かな……
意識も……
「よし、じゃあ試しに……成次くん、浮かべ!」
「は、はい。成次浮きます……フワー」
「成功!」
口から勝手になにか言葉が出てきて、僕は奇妙な浮遊感を覚えた。浮いてるの!? 僕!
あっ駄目だ意識が途切れ────
さすが催眠アプリだ……すげえ効果だぜ!