5話『ハナキン飲みニケーション』
抱擁とは行う相手との間になにかしら良い効果をもたらす行為という定義があるらしい。
例えば安らぎとか癒やしとか、愛や平和やぬくもりだ。それが発生しない抱きつきは単なるセクハラに成り下がる。
抱きつき症候群についてはどうだろうか。患者の方は抱きつきにより確実に、少なくとも癒やしは得ているのだから抱擁といえよう。それを受けている僕にとってなにか得るものがあるだろうか。
まあ勿論そんなものは無く、義務感で抱きつかれているだけだ。もしあのクソレズに抱きつかれることで良い気持ちになれる聖人のような方がいるのならば是非代わって欲しい。
そんなことを思いつつもまた僕はその日も朝から抱きつかれていた。
四日目になると人は慣れるものなのだろうか。残念ながら僕は一生慣れそうにない。背中にレズを乗っけることに慣れたという先駆者は居ないだろうか? コツを教えてくれると嬉しいのだけれど。
逆にあいつの方は開き直ったようで、「あー男に触れると呪われそう。呪われる。呪われろ」
とかなんとか言いつつ抱きついている。そうしなければ死ぬから、諦めと慣れと妥協があったのだろう。
「今日も今日とて男に抱きつくとか憂鬱だわー」
「でも良かったよね、汝鳥ちゃん。昨日は発作無かったんだから」
「そりゃそうですけどぉ。こんな姿、レズ異端審問官に見つかったら即レズ裁判ですからね」
「もうなんか、ひとつも聞いたことがない裁判制度だな……」
僕のつぶやきに「これだから男は」と前置きしてレズ罪人は言う。
「殆どのマイノリティに存在するのが異端審問だ。自分らの少数派に所属していたというのに、その行動規範を逸脱した行いをした者を過剰に攻撃する。例えばレズなのに男におえっ、心身をおえっ、許しおえっ」
「想像しながら吐きそうになるな」
要するに、レズが男とくっつくのを許さないレズ勢力が居るという話だろうとは理解しているのだが。
「ふっ……そして『レズが男落ちしたレズを攻撃するというのは被害妄想の捏造だ、レズが狭量だという偏見だ。そんなことを言ったやつ許すな吊せ!』と狭量に異端審問してくる隙を生じぬ二段構えもあるぞ。少数派が寛容などというナイーブな考えは止めることだな」
「なんでそんなに闇の底なんだ?」
「貴様! それはヘイトスピーチだぞ!」
「とりあえずそれ言えばいいと思ってないか?」
そう言われると(どういうわけか)道徳的劣勢に立たされるので、それ以上はツッコまずに僕はげんなりと首を振った。
あまり深く関わり合いたい世界でもない。僕は社会的な活動はしない主義なのだ。
「まあまあ。もし何か言われても、おばちゃんが汝鳥ちゃん守ってあげるから!」
「み、美月さん……! もはやレズクルセイダーズを相手にしても怖くありません!」
「ところでうちの農場で、肥料と飼料作るためのバイオ分解施設って牛をまるごと十匹放り込んでも問題なく分解されるんだって」
「なぜ? 今そんな話を?」
ひっ。
美月さんの実家である大農家に掛かれば、一般人など証拠一つ残さず消しされるだろう。豚の餌だ。恐ろしい。
昨日も危うく美月さんの親しい距離にどうかなってしまいそうだったけれど、気をつけよう。僕は釘を刺されている身だ。もし(ありえないけれども)美月さんに手を出したら、指を全部失うので済めば神に感謝する程度の制裁を受けるに違いない。
「──よし、今朝も充電終わり。まったく、毎朝憂鬱だ」
「同じく」
「うんうん。二人とも気が合うんだねえ。仲良しさんが一番だよぉ」
『合いまセンチュリー!』
僕とあいつの声が被った。すぐさま僕は問いただす。
「なんだよセンチュリーって!」
「うるさい! お前と被らないように言葉尻変えたのに合わせてくるな!」
「そっちこそ!」
「あっはっは」
ええい、まったくもって不愉快なレズだ。
コイツと関わるようになって唯一の利点は、美月さんがよく笑うようになったぐらいだろうか。雇われた当初の頃は、元無職の僕をとても気遣って心配そうにしていたから。
****
その日もその日でDOOMをしながらソフト開発。噂によれば宇宙ステーションのモニターにもDOOMは仕込まれているらしい。人類の基本的な文化活動としてDOOMが認定される日も遠くない。
プログラマーというのは週末に忙しくなるそうだ。何故かプログラム上のバグは金曜日に増え始めたり、予期しない仕様変更などを言い渡されるのが週末だったり、そもそも月曜日に決めた計画がまともに金曜日までに達成していることがないからなど52の理由があるらしい。
僕の場合は、別に週末に働こうが自由な会社ならば特に出かける趣味もないので会社で仕事をしていてもいいのだけれど、この会社は完全週休二日制。土日に仕事をしていたら容赦なく休出手当が増えていく。あとオフィスが美月さんの家なのでなにかと気を使われる。だからなるたけやらなかった。馬鹿な。こんなプログラマーにホワイトな職場があって良いものか。
しかしながら僕のような超優秀で天才的なプログラマーにしてエンジニアがぶっ潰れた前のブラックな職場はちょっとおかしかったんじゃないかと思う。多分悪の組織が闇プログラマーを集め洗脳し、人類抹殺プログラムとか作らせていたのではないか。そう思う。自称IQ666の超天才とかいたし。止めてよかった。
そんなわけで土日は休むのがいつものことだ。ただ、今の僕は住処がオフィスになっているのだからどうしたものだろうか。やはり個室ビデオ屋にでも行くべきか。
今日は金曜日。明日の予定を考えつつ仕事をし、昼にはレズに抱きつかれていた。
毎日続くことでいずれ慣れなければならない。しかしながら、いつまで続くのだろうか?
調べたところ、抱きつき症候群が治るのは早くて一ヶ月。遅ければ数年というケースもあるらしい。また、抱きつきを止めてから再発することもあり、なんとも厄介な病気だった。
美月さんにならば五十年後の老人になっても抱きつかれ続けて構わないのだけれど(きっと穏やかで愛らしい老婦人になるはずだ)、このレズの場合はどうしたものだろうか。
それこそ根津パパさんに頼んでレズをチン落ちさせる見合い相手とか探して貰うべきかもしれない。何故かあの大農家企業は婚活支援もしている。農家の見合いを昔からやってた繋がりらしい。
本来この病気は家族と長期的に治療していく病なのだろうと思う。治療例としても、父親に抱きついて治すのが多かった。十代から二十代が掛かる病気だからだろう。だが子供が学生で父親が会社員だと時間的都合も大変な気がする。その場合は彼氏か。リア充じゃないと死ぬ病気。
「むにょ」
「……なんですか美月さん」
レズに抱きつかれながら物思いに耽っていたら、僕の二の腕を美月さんが突いた。
「……成次くん、ダンベルちゃんと使ってる?」
「使ってませんけど」
「なんで!? 筋肉が付くんだよ!?」
「別にいいですよ!? なんで筋肉付けないのが信じられないと言わんばかりなんですか!」
筋肉フェチか。何故かマッスル系ビデオや本を持ってるし。
「筋肉あると便利なんだよ。だって筋肉があるし」
「プログラマーには必要ないんですよ筋肉」
IT技術者こそ体を鍛えるべきだ、という論説もあるにはあるが、それはどちらかと言うと健康になるための方針として運動をしろということだ。
健康であることがそれほど仕事の必須条件ではないので、やはり実質的には余計なオプションだろうと思う。
「例えば、そう……成次くんが崖からぶら下がっている途中で、そのまま汝鳥ちゃんを抱きつかせないといけないって状況に陥った場合……解決するのは筋肉だよ?」
「どんな限定状況ですかそれは」
「落ちたらお前を下敷きにして私は生き延びるからな」
「まず崖からぶら下がらねえ」
「成次くん筋肉ついてた方がいいと思うけどなあ」
「いや、もう体質ですからそれは」
まあ、筋トレなんて生まれてこの方したことはないんだけど。
「はぁー無理無理。この貧弱色白モヤシ太郎じゃ鍛えても私を持ち上げられませんよ!」
「ええい、最初に病院連れて行く際に誰が運んだと思ってるんだお前は」
「あれは私もふらついてるぐらいで歩けてましたー! 運べていたという証明にはならないな!」
「よろしい。ワタシの力を見せて差し上げましょう。勿論フルパワーではないですから安心してください……」
「フリーザ様か」
僕は背中から抱きついてるイキリレズの手を取って、両肩に掛けさせる。
「ん?」
「持ち上げるからよく掴んでろよ」
「うわちょっと待って男に持ち上げられるとかレズ条例違反──」
「頑張れ成次くん!」
「よいしょ」
背負うようにしてレズを担いでみる。やはりそこまで重たくはない。まあ、こいつと同じ重さの米袋を担げと言われたら御免こうむるけれども。
「うわわわ、降ろせー! セクハラー! 訴訟ー!」
「抱きつき状態と変わらんだろうが」
「変わるわ! 男に持ち上げられるとか女の尊厳が男根崇拝主義への屈服-!」
「何回屈服してるんだよ男根崇拝主義に……」
できれば一生屈服しておいて欲しいところなんだけれど。
兎にも角にも、どうにかお荷物レズを背負ったまま立ち上がることは可能だった。非力を自負する僕も面目躍如だ。
まあコレを担いだままどこまで歩けるかというと、階段も怪しいところだけれどね。
「降ろせ降ろせおーろーせー!」
この前雑誌で見たことのある『細長くて物を縛るアレ的な男が養ってもらってる女に言いたいセリフNo.1』を連呼している。(二位は『俺、働いて一人暮らししようと思うんだけど』三位は『この売女!』だった)
ともあれ、砂時計を見ると10分の時間が経過していた。サハラ砂漠の砂を使った時計で、上下に共産主義のマークが印字されている。サハラ砂漠で共産主義が広まれば、砂さえも他国から輸入しなくてはならないという問題を提示した砂時計だ。
僕は後ろでぎゃあぎゃあ言いながら首を絞めてくる(弱い)こいつをソファーの上に降ろしてやった。
「バーカバーカ! 死刑だ死刑ー!」
「お前……時々言動が小学生レベルになってない? 精神大丈夫か? 正気度チェックする?」
「はっ……ご、ごほん。私がお前を訴訟しないのは居ないと病死するからであって、許されているとは思わないことだな! 治ったら即訴えてやる!」
「わかったわかった。治ったら好きに訴えろ」
この鬱陶しい病気が治り、一々抱きつかれなくて済むのならばはした金程度の罰金を払ってもスッキリするだろう。
しかし例の病気では精神の変調が見られるとのことだったが、或いは精神的にコイツは元々すごく幼い可能性もある。なにせ自制心がゼロだし。営業で契約取ってくる能力だけはあるのだが。
「まったく困ったもんですね美月さん……美月さん?」
「さあ成次くん! おばちゃんも持ち上げてみるのだ!」
「なんで!?」
急に美月さんが両手を上げて楽しそうに言ってきた。どういうことだってばよ。
「美月すわぁぁぁん!? 駄目ですよこんな女を搾取して自分の利益を得ることだけしか考えていない男に触っちゃ!」
「やめろ! それは妙に傷つく!」
美月さんは虚言癖レズの言葉などスルーして、僕に微笑んだ。
「だってほら、おばちゃんがうっかり足を折ったとか、動けなくなったら成次くんに運んで貰わないといけないし。練習練習~」
「は、はははは、はあ……そ、そうですね」
「止せ! 美月さんに触れるな! ううー! 持病のレズが! 男に触れすぎたせいで足腰が立たない……!」
「どういう持病!?」
手を伸ばして制止しようとするレズ病患者(ヘイトスピーチ的な意味はない)だが、実際に膝がガクガクと震えていてソファーから立ち上がれないようだ。
あのレズは抱き上げれば動けなくなる。そんな新事実を確認するよりも、まずは美月さんだ。
わくわくした顔のまま手をバンザイのように上げている。腰を抱いて持ち上げろということだろうか。女性との過剰な接触。それは僕に取って未知の領域──!(レズは除く)
いや。確かに美月さんからこれまで頭を抱かれたり膝枕されたりしたが、それは受動的な接触であり、能動的に僕の方から彼女の体を持ち上げるなど、僕がやってもいいのだろうか。そんな行為をしたら日本童貞協会から異端審問を受けるのではないだろうか。彼らは日本全国から寄せられる童貞相談を受けたり報告をジャッジしたりしているので、今度ラジオにお便りを出してみなければならない。
ともあれ。
確かに、同じ会社で働く美月さんを緊急時に搬送できるか否かという確認は大事だ。いや、ほぼ持ち上げられるとは思うのだけれど、彼女が不安に思っているかもしれない。
「さあいざー!」
この状況で断ったら……!
美月さん悲しむだろうね……!
僕の脳内彼女(突如発生した。恐らく突如消える)がなにやら心の声でアドバイスをしてくるので、僕は覚悟を決めた。
なあに、本人の同意があって抱き上げるだけさ! 同意さえあれば大丈夫! 根津パパさんにバイオ工場へ連れて行かれることもない! 多分。
「や、止めろー! 私以外の女性に手を出すなー!」
「誤解されそうなセリフを吐くな」
一応ツッコミを入れて、僕は美月さんの前で膝を曲げ、腰に手を回して引っこ抜くように持ち上げた。
全体的に柔らかい。頭をつけているお腹も、手を回している腰も。しかし太いわけじゃなくて、きゅっとしつつ柔らかい。女の人は謎の体質だ。
「おおー、凄い凄い! 成次くんも男の子だなあ! おばちゃん嬉しいよぅ」
持ち上げた美月さんが喜びつつ、僕の頭を抱き返して撫で回す。
アバババ頭がですね、上半身に包まれてですね。柔らかな感触が……!
「よしよし、持ち上げられてるところ証拠の自撮り写真取るからねぃ。パシャー☆」
「なんの証拠ですか!? 根津パパさんに見せないでくださいよ!?」
「え~どうしよっかなぁ」
くっ! 小悪魔か! それを根津パパさんに見られたら掛かってるのは僕の命だというのに!
美月さんはやたら上機嫌だ。ひょっとして……持ち上げられる趣味があったとか? 謎だ。
「うわあああ美月さんがスト2で本田に捕まった春麗みたいにー!」
「サバ折りしてねえ!? ってうわっ」
まだ足に力が入らない例の女が、無理やり僕の服を引っ張り体重を掛けて止めようとした。
しかしながら僕は美月さんを慣れない持ち上げ中で、横方向から受けた力に思いっきりバランスを崩して転びかける。
ヤッバ。
抱き上げてる美月さんごとソファーに倒れそうになるが、このままだとソファーに居るレズを潰してしまう!
凄まじく咄嗟の馬鹿力で美月さんを片手でソファーに衝撃なく降ろしつつ、もう片方の手でレズを微妙に動かして美月さんの下敷きにしないようにするの術!
成功!
なんか自分でもどこをどう捻って着地したかわからないけれど、なんとか美月さんもレズも無事なはずだ。こう、ソファーに並んで仰向けになっている。
「大丈夫ですか!?」
言うと、なにかはにかんだような感心したような顔で美月さんは言う。
「な、なんとか……おお! 成次くん、なんか漫画みたいだよー!」
「ええ!?」
いや確かに、僕はソファーに倒れた二人に覆いかぶさるようになっているのだけれど。
僕が下敷きになるよりソファーに倒れ込ませたほうが柔らかいと判断してのことだった。
しかしこれではまるで、ラブコメのハプニングではないか!
「まるでプロレススーパースター列伝でファンク兄弟がリングで同時に倒されたみたいな……」
「梶原一騎の!? そんなシーンあったっけ!? なんでそんな漫画読んでるんですか美月さん!? ってやべ」
美月さんだけならばまだしも(根津パパから殺害されるリスクはあるけれど)、男を訴訟することに関しては非常にうるさいレズも巻き込んでいたのだった。
そもそもこいつが引っ張ったのが原因なんだけど。
そっちに目を向けると、眼鏡の奥にある目に涙を貯めているレズはこう言った。
「男に押し倒されたショックで三秒後に気絶する」
「予告!?」
そしてきっかり三秒後に、こいつは電源の切れたロボットのようにカクンと全身虚脱した。男への拒絶反応ってこういうものなのか?
男に持ち上げられては足腰が立たなくなり、男に押し倒されては気絶する。あまりにか弱すぎる。哀れみすら感じる。
美月さんが起き上がって気絶レズの頬をつつき、苦笑したように言う。
「ま、まあとにかく、寝かしておいてあげよっか」
「できればショックで人格が反転してて欲しいものですが」
「そんなことばっかり言ってたら嫌われちゃうよ?」
「美月さんに!? それはかなり困る……」
「汝鳥ちゃんに」
「ハハハ今以上は無いですから」
だいたいコイツに嫌われたところで。毎日罵られている現状維持さ。
「あ。いけない、汝鳥ちゃんにお話あったのに……寝ちゃってる」
「まあすぐ起きると思いますが……」
「成次くんにも聞かないといけないんだけれど、今日の夜はなにか用事があった? 仕事とか、プロレスのチケット予約とか」
「無いです」
仕事上がりにプロレスを見に行ったことなんて一度も無いけれど、どうしたのだろうか。
そう応えると、伺うように美月さんは僕の目を見ながら言う。
「今日は金曜日だし、奢るから三人でお夕飯でも食べに行かない?って誘おうかと……」
「ええ、行かせて頂きます。美月さんが誘ってくれたなら、僕はバイオ分解工場以外どこにでも行きますよ」
なんと。嬉しいお誘いだった。
仕事も終えて嫌いな上司と飲みに行く……という状況なら嫌がるサラリーマンも多いだろうけれど、散々お世話になっている恩人である美人で気の置けないお姉さんに連れて行かれるのではわけが違う。
しかも奢りだ! 素直に喜んでいるとスックと立ち上がった影が僕を嘲笑した。
「ふっ。まだまだ甘いな。私は美月さんに言われたらホイホイとバイオ分解工場にでもついていくぞ! ぜひ行かせてください美月すぅぅん! 瀬尾は来なくていいぞ」
「復活しやがった!?」
機能停止していたレズはそのまま永久に眠っていて欲しかったのだが、お誘いという言葉で復活したようだ。おのれ。
そのまま美月さんの命令でバイオ工場に入ってお豚さんの餌になってくれないかなあとも思うが、心優しい彼女はそんなことは命じないだろう。残念ながら。
「じゃあ仕事が終わって着替えたら行こうか」
「待ってください。出かけてる間、こいつの治療は……?」
「大丈夫! お店の個室予約しておくからそこで抱きつけばいいよー」
「いや行く前に前倒しで抱きつけば」
僕の提案が聞こえる前に、
「こうしちゃいられねえ! 午後の鎌倉への営業先さっさと終わらせて帰ってこないと! 必ず行きます頑張ります!」
「おばちゃんも今日の分採掘してくるからねぇ。じゃあ、成次くんもお腹空かしておいてね」
二人は疾風のようにオフィスから去っていった。また鎌倉かよ。あいつは中世の武士か。
……まあ、いいか。場所なんて些細なことか。
僕も楽しみだし。美月さんとの外食。そもそも、外食なんてあんまりしないからなあ。最後に外で食べたのいつだっけ?
テレビではモスクワにある『人民食堂』で出されるキャベツのシチューや蕎麦パンをタレントが食べて、
『美味しい~!』
『これまでで一番ですよ! 収穫量も!』
『ブルジョワジーも豚のように満足』
『実際豊かで楽しい』
『社会的に美味しく健康に良い』
『これを食べて労働に励もう』
などとコメントしていた。
……あまり食欲をそそらない番組だ。とりあえず、美月さんが連れて行くのは普通に美味しいところだろうとは思う。
僕は夕食に向けて腹を減らすために、精力的に仕事を励んだ。
****
畳ばかりのお店でご飯を食べることは、例えば修学旅行とか、或いは職場の忘年会など機会はあったのだけれど、個人的に行くのは初めてだった。
仕事も終えて二時間後ぐらいに(女性は準備が長い)美月さんに連れられていったのは鍋と和食の料亭だった。やはりと思っていたけれど、お嬢様だけあってお高そうな店選びだ。
やたらその店の女将さんが美月さんに対して下手に出てくるが、僕が昔バイトしていた中華の福しんだって客サービスは負けちゃいない。バレンタインの日は客にチョコまでサービスしていた。そんな意味のわからない自負を持って美月さんの後ろについて店内を進む。
私服用スーツとかいうわけのわからない装備をしているレズ同僚はまあいいとして。
うっかりしていた僕はプログラマーの私服として代表的な横縞のTシャツ(何故かプログラマーはこれが多い)に、ジーンズという適当極まりない格好だった。
平服でいらしてくださいと招待されたパーティに出ても浮きそうな格好だ。しまった。
「ブヒー。だせえ男だせえ。これで男という劣等民族が恥ずかしい存在だというのが浮き彫りになるというものよ」
「劣等民族の割合多すぎだろ」
隣で口元を隠しながら下品に笑う自称優等民族に舌打ちしながら、僕は従業員に訝しがられないか卑屈な目つきで見回した。
だがまあ、こういう高級店はしっかり教育が出来ているのかそういった不躾な目で見てくる相手も居らず、むしろ自分の被害妄想が嫌になって首を振った。
諦めずにレズ服装チェッカーが部屋を案内した女将に尋ねる。
「女将さん女将さん。このお店って服装規定とか大丈夫ですか。ノーネクタイダサTシャツにジーンズにサンダル履いてるやつは追い出されるとか」
「いえいえ、そのようなことはありませんよ。それに根津様のお客様ですから」
ん? 僕は気になって手元のスマホで店名を検索。
あっ。ここ美月さんの実家が経営している店だわ。手広くやってるから直接的に経営というか親会社といったところだけど。
そりゃ対応も丁寧になるよね。
僕らはなにやら床の間みたいな掛け軸やら花やら置かれている和室に案内された。
「どうぞどうぞ」
「上座へ……いや、むしろ神座……?」
「えええ? 別にいいのに」
と、虫けらのごとき僕ら手下二人は美月大明神を上座に座らせた。
「それにしても立派な部屋ですね! さすが美月さん! さすみつ!」
「適当だよぉー。昼に予約してね、空いてる個室お願いって」
「この掛け軸なんかも高そうですし! 全然知らないけど!」
手下レズがヨイショしまくる。僕は子供の頃を思い出した。
「そういえば美月さんの実家だと何故か掛け軸の裏に隠し部屋とかありましたよね。子供心にワクワクしたような」
「へぇー」
なんとなく、レズが掛け軸をめくると。
!?
壁に空いている穴から、くっつくように目が覗いていた!
「……」
「……」
「せっ」
レズはどこからか取り出した催涙スプレーを吹き付けた。
「ヴぁあああああああ!」
野太い悲鳴と共に目はどこかへ消えていった。
「な、なんだったんだ? 覗き?」
「こ、怖いねえ……」
「どこかの男に押し倒されたとき用に昼買っておいた催涙スプレーが役に立ちましたね」
「間違っても僕に吹き付けるなよ」
美月さんは女将を呼び説明すると、大変恐縮したように別の部屋へ案内された。
さっきの部屋は掛け軸のすぐ裏が中庭になっており、恐らくそこに賊が侵入したのだろうと説明された。警察にも連絡済みなので、僕らは通報しなくていいそうだ。美月さんからも念を押された。
「大丈夫だよーすぐ捕まるよーなにも気にしなくて大丈夫だよー」
そこまで念を押す理由はまるでわからなかったが、僕らは頷く他はなかった。
「恐らく美月さんを覗こうとした出歯亀でしょう。許しがたい悪漢です。次に見つけたら目玉を潰してやりますよ……瀬尾が」
「僕が!?」
「男でしょ! 守りなさいよ!」
「こんなときばっかり!」
出鼻から奇妙な事件が起こりつつ、僕らのちょっとした花金飲み会は始まるのであった。
知人から「お前の作品は女性から積極的経済支援を受ける男がよく登場するな(婉曲的表現)」と言われました
たぶん気の所為です