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2話『三人が同棲を始める話』



 ふと思うことだが、二十代男性に聞いてみたい。貴方は年の近い女性二人と同棲したいだろうか?

 イエスと応える人は精力的だなあと僕は思う。今どきは多分、結構な数が「疲れそうだからちょっと」と思うのではないだろうか。それが会社の同僚と社長相手ならなおさらだ。

 もし僕がまだ希望に溢れる高校生とかならば喜ぶかもしれないけれど、成人男性の中でも草食系というか陰キャラの割合が恐らく多いプログラマーな僕としては、まあ実際面倒な事になったものだなあと思っている。


 しかしながら同居を頼んできた相手は親戚であり、小さい頃から付き合いがあって、就職もさせてくれた(ついでに給料は結構いい)美月さんなので断るということはしたくない。

 まあ同僚のクソ女も、死ねばいいとは時折思うけれども実際に死なれたら目覚めが悪い。新しい営業職を探すのも面倒だろうし(営業が居ない時期はそれこそ仮想通貨の採掘(マイニング)ソフトを作って利益を上げていた)、美月さんが悲しむ。だから僕としては、状況に流されて多少の不満は飲み込む他はない。

 ゲイにされたのは閉口したけれど。


 その日は一旦家に帰り、通帳や保険証、ゲーム機と改造したipadを荷物にまとめた。あと着替えだ。あまり他所に泊まるという経験がないので、何が必要なのかよくわかっていないが、不足ならば取りに戻ればいいしそこら辺の店で買えばいいだろう。 

 美月さんと同居。

 彼女はまあ、言ってみれば幼馴染の綺麗な従姉妹といった関係で、家族に近いのでわりかしすぐに馴染むとは思う。

 問題のヘイトレズモンスターがなにかとギャアギャア喚くことは目に見えているのが厄介だ。そこを色々考えて衝突を避けなくてはならない。毎日口喧嘩をするなど、僕はしんどくて耐えられない。

 

 さっさと少ない荷物を用意した僕は職場に戻る。オフィスの奥にある二階への階段を登り、美月さんの自宅玄関へと来た。入るのは初めてだ。

 ブザーを押すと、三角巾を頭に巻いた美月さんが出迎えてくれた。


「やあー早かったねえ成次くん。おばちゃん丁度簡単に片付け終わったところだよう」

「ところで美月さん。その手に持ったマッスル同士が絡み合っている表紙の本は?」

「あっ! ええと、これはねえ、汝鳥ちゃんに疑われた際にスッと成次くんが取り出す用に準備したものだから持っておいて!」

「持ちたくねえ……なんでそんなものが準備できてるんですかね」

「気にしないで! ほらほら上がって、もうすぐ汝鳥ちゃんも来るって言ってたから麦茶でも飲んでもうちょっと待っといて。お砂糖入った麦茶冷蔵庫に入ってるからねえ」

「自分で用意しますから、ええと台所は……」

「あっち!」


 言われてそちらへ向かうと、大きめの冷蔵庫があって流し台も広く、立派なキッチンだと思うのだけれど。


 なんかカップ焼きそばが山のように積まれている……

 あと無造作に何種類ものビタミンサプリが。


 なんとなく冷蔵庫を調べると、野菜室にはしなびた野菜が放置されていて、他にはゼリーとかのスイーツと腸詰めしか入ってなかった。

 美月さんは一人暮らしだが、料理はからっきしだ。なので仕方ないのだが……台所の床に適当に置かれているダンボールには彼女の実家から送られてきた野菜が、使われることもなく仕舞われたままだ。

 虚しくなる……同居している間、僕が料理を作ってあげるべきだろうか。

 とりあえずお盆にコップ三つ載せて麦茶のピッチャーを持ち、居間らしいところへ向かった。

 今日片付けたのかもしれないけど割とスッキリとした内装の部屋だ。精々あちこちにネズミのグッズが置かれているのが女性らしさだろうか。美月さんはネズミのキャラが好きだ。本人の名前がネズミッキーなぐらいだからと言っていた。

 小さい頃は一緒にランドへ行ったこともある。高校ぐらいからはすっかり僕はインドア派のパソコンオタクになったのでめっきり出かけることも減ったのだけれど。

 

「あったあった。成次くんこれあげる」


 他の部屋からやってきた美月さんは何故かダンベルを持ってきていた。鉄アレイともいうやつだ。


「……なんすかこれ」

「男の子の日常生活には必要でしょ」

「ダンベルが!?」

「成次くんもまだ若いんだから、あっという間に筋肉がつくよー」

「なんで筋肉つけること前提なんですか!? っていうか趣味入ってますよね!? マッチョの男が好きなんですか!?」

「うふふーふふ」


 なんでか美月さんは僕の二の腕をムニムニと揉み始めた。無茶言わないで欲しい。


「に゛ゃー!!」


 突然汚い高音が響いた。美月さんの飼ってる猫かな? 当然違う。

 玄関からデカイボストンバッグとキャスター付き旅行ケースを持って入ってきた不法侵入者の女性(脳の病気)が、僕たちを指さして叫んだのだ。

 彼女は荷物を落としてつかつかと近寄ってくる。


「駄目です危ないです早速の迂闊ポイント! 美月さん気を許しちゃいけませんよ美月さんに掛かればゲイのノンケ落ちなんて容易いかもしれないんですからね勘違いさせますよボディタッチは! こんな童貞は女に触れるだけで惚れるんですから!」

「どんな偏見だよ……」


 触れるだけで惚れるとか最悪だろう。

 そうだとしたら僕はこれから、一ヶ月で九十回こいつに惚れなくてはならない。

 ありえない。


「やあいらっしゃぁい汝鳥ちゃん。意外に早かったねえ」

「ははは、もう心機一転ですよ。考えたんですよシャンプーとかリンスとかボディソープとか沢山あるんだけどいっそのこと美月さんのを借りれたら同じ匂いになってこりゃあ気分盛り上がるわ! ってね! もちろん消耗品代はお出ししまっす!」

「シャンプー? リンスー? うちはねえ、昔から全部牛乳石鹸で済ませてるよー。実家で作ってるやつ」

「う、嘘だろ承太郎……それでこのお肌と髪ツヤ……?」

「誰が承太郎やねん。っていうかお前もオタクだろ実は……」


 言葉の端から滲み出す漫画とかアニメの小ネタ、芝居がかった喋り方は地味にオタクっぽい女だった。

 こいつは藪睨みに僕へと抗弁した。


「うるさいな! 百合好きだと良質な作品を探す際に漫画とかが多くなるから仕方なく漫画知識も付くんだよ!」

「承太郎は百合と関係ないだろ……」

「ジョジョ三部で言うとウンガロの母親×ヴェルサスの母親とか」

「そんな組み合わせ聞いたこともないんだけど!?」

「それより石鹸って大丈夫なやつかなあ……私石鹸で髪の毛とか洗ったこと無いし」

「美月さんの実家は『根津ファーム』やってるから、確か石鹸も自前の化学工場で作った超高級なやつだぞ。中東の富豪とかから注文されてる限定品で」

「えっ、あの超デカイ牧場とか農場とか持ってるところ? マジ?」

「マジお嬢様だからな」


 『根津ファーム』は関東を中心に広い農場や牧場を持ってる老舗の大規模農家だ。野菜や果物だけでなく牛とか鶏とか豚なんかの家畜、食品の加工販売、飲食店の経営、医療研究や医薬品開発、金融に建設業や工業など手広くやっている。基本は農家なのだけれど、動物用の肥料や飼料に薬の用意、農機具の製造や土地の開墾なんかをしてたら勝手に会社のスキルツリーが広がったそうだ。

 生産された作物にランク付けしブランド化していて、高品質な肉や野菜は高級料理店に売るのでそこらのスーパーではなかなか手に入らないものだ。美月さんの冷蔵庫で無残にしなびていく野菜も買うと普通の三倍ぐらい値段がする。

 冗談みたいな金持ちなのだ。まあ、美月さんの実家に行くとやたらマッスルな親戚一同とオタトークで盛り上がるんだけど。ほぼ全員マッチョでオタクだ。社員の半分ぐらいも。

 恥ずかしそうに美月さんが手をブンブンと振る。


「いやだなあ、お嬢様ってトシでもないからね、おばちゃんは。ちゃんと会社の運営は自分のところの利益でやってるし! オフィスは買ってもらったけど……税金対策とかで」

「ふっ……美月さんがたとえ火星人だろうとも私の愛は変わりません! ユダヤ人だろうとも! 共産主義者でも!」

「美月さんが実は男だったら?」

「あ……ああ……おしまいだ……この世界を滅ぼす……あと瀬尾から殺す……」

「どんだけだよ!」


 無論、実は男だとかいう展開は無いのだが。


「まあまあ、とにかく汝鳥ちゃんも落ち着いて。荷物を置こうか。お部屋に案内するよう」

「ふひひっふひーっ! 私のような端女は風呂場とか便所でも結構ですーん」

「きもっ」

「成次くんが使う度に気まずくなるよ?」

「男は使うな。この問題は解決。ベストアンサー」

「凄いなお前……悪い意味で」


 もはや慣れたのか美月さんはスルー。すたすたと先導して案内した。


「汝鳥ちゃんはこっちの和室でいいかな? ベッドが一つしかないからねえ」

「十畳ぐらいの和室がある一人暮らしのお宅……! 格差社会……! 私が住んでたアパートなんて一部屋にブラジル人が十人ぐらい暮らしてるようなところなのに……!」

「なんでそんなところに住んでたんだよ。もうちょっと給料貰ってるだろうに」

「女の子がマッサージしてくれる店が近くにあるから」

「……」


 何も言うまい。正直、別な病気とか持ってないだろうなこいつ。


「それで成次くんは隣の部屋だけど──」

「あー、いや、僕は」


 軽く手を振って告げる。


「──下の事務所で寝泊まりするんでいいですよ。ほら、女性の家に入り込むとなると気を使うし」

「それはいい考えだ! 是非そうするべきだ!」

「……こいつがウザいし」


 こいつを監視していないといけないのではないかと思うこともあるが、まあ正直なところ力ずくのレズ行為に至ったとしても美月さんは普通に強いから大丈夫だろう。彼女は柔道と合気道の段持ちだ。僕より強い。彼女の実家、根津さんのところは体を鍛える教育方針で一家全員強い。

 美月さんが襲ってきたレズを返り討ちにすれば指さして笑おう。或いは、受け入れるならそれは個人の問題なので僕が口出しすることじゃない。

 助けてと泣きついてきたらこいつは僕が意地でも殺すが。

 

「事務所で寝かせるなんて、成次くんをそんな酷い扱いできないよ」

「いやいや美月さん、僕はプログラマーですよ? プログラマーっていう人種は、椅子を並べた上で眠って、朝食に冷めきったピザを気の抜けたレッドブルで不味そうに流し込む。これぞプログラマーの正しい生活というものです」

「そ、そうなの?」

「実際事務所は、ソファーもテレビもトイレも給湯室もあるから生活するのに十分ですって。風呂は近所に銭湯もあるし」

「うーん、でも成次くんはお願いして泊まり込んでくれるお客様なのに……」

「大丈夫ですって、ほら本当にこっちの方が気を使わなくて楽だし」


 正直なところ、僕としても毎日同じ風呂やトイレを使うというのは勘弁願いたいところだった。

 美月さんだけならまあ、親戚のお姉さんなので別にそこまででもないのだがあのレズ。

 うっかりニアミスしただけでここぞとばかりに罵ってくるのは目に見えている。それが毎日。心が折れる。


「じゃ、じゃあせめて一緒にご飯だけでも食べようね。おばちゃん奢るから!」

「美月さん……いつもどういう料理食べてるんです? 自宅で」

「カップ焼きそばにね、千切ったキャベツとか入れるとなんか健康っぽくなるんだよ」

「……僕が作りますから」

「ふっ! 待ちなゲイボーイ。居候になる私に任せて貰おうか!」

「お前がぁ? 作れるの?」


 意気揚々と主張しだしたレズに僕は疑わしげな視線を向ける。まったくもって、家庭的な印象が無い。

 彼女は小さい胸を張って自慢げに言う。


「これでも女の子にモテるために多くの技能を習得しているんだ。高校の頃は文化祭で男装執事シェフ喫茶をやって手料理を振る舞い、他校の女子からきゃあきゃあとモテてな。まあその後で停学一週間食らったんだけど……」

「なにやったんだよ!?」

「昼は作る時間がないからな。じゃあ、昼は瀬尾で夜は私のローテーションで」

「朝は二人共どうしてるの?」

「だから、冷えたピザとレッドブルですけど」

「マジで食べてるのそれ……私は毎朝山盛りのコーンフレークを二杯です」

「スペースコブラかお前は」

「じゃ、じゃあ朝は各自ということで……」

「美月さんはいつも何を?」

「……カップ焼きそば」

「朝から!?」

「駄目ですコーンフレークにしましょう!」


 などと話し、それから二人は僕に留守を任せて生活必需品を買い出しに出かけていった。

 僕も誘われたのだが、なんか今日は色々あってすごく疲れた上に、女性二人の買い物に付き合うなど男にとってはトライアスロンに匹敵する疲労度な行為をする気力が沸かなかったのだ。

 とりあえずこの家と事務所で私的にインターネットが使えるように設定しておくか。僕は住む場所が茨城だろうと離島だろうと、ネット環境(光回線)さえあれば最低限構わない。

 夜中まで僕がオフィスに居ることも考えて警備のシステムもいじっておこう。多分だけど、美月さんの実家系列の警備会社で契約してるので、下手に警報でも鳴れば忍者みたいな警備員が飛んできて実際怖い。




 *****




 ソ連のランドクルーザーとも呼ばれるニーヴァのハイパワーなエンジン音と共に二人は戻ってきて、僕も手伝って積まれた荷物を下ろした。

 三人は二階の居間にて買ってきたものを広げて分配していた。僕用の冷蔵のピザとレッドブルもある。宅配ピザのチラシも持ってきていた。このピザチェーン店も美月さんの実家が経営してるやつだな……


「あれ? 成次くん、お風呂入った?」

「ええ。暇だったので近所の銭湯で」


 職場の近くに銭湯があってよかった。初めて利用したが、コインランドリーもついている店だったので僕の風呂と洗濯はあそこで十分だろう。

 まあ正直に言うと別に毎日入らなくてもいいかなーと思わなくもないんだけど、絶対百%あのレズが抱きつくときに文句付けてくるので先回りした。

 そろそろ外も暗くなっていたぐらい時間が掛かった買い物は三時間ちょっとぐらい経過しただろう。付き合わなくてよかった。

 

「ほら、これは瀬尾の分だ。色々必要だろうと思って買っといたからな」

「お、おお」


 なんか妙に気の利いたことを言うレズに、意外に思いながら受け取る。


『ファブリーズ』

『エイトフォー』

『トイレの消臭力』

『ミョウバン』

『息スッキリうがい薬』

『アイマスク』

『拘束服』


「せっ!」

「ぬあああー!? なんで私にエイトフォるー!」


 僕はためらいなく制汗スプレーをレズ野郎に吹き付けた。

 

「腹立つ上に傷つくわ! そこまで僕が臭いか!?」

「あークサクサだわ! 男脂臭ってCMでもやってるだろ! 全身から滲み出てくるの!」


 関係ないけどあのCM男女入れ替えて、女脂臭とかいってむわぁーって女性から汚らしいエフェクトと汚臭が撒き散らされてるような表現にしたら凄いクレーム来そう。

 そんなことを一瞬思ったが、美月さんから擁護意見が来た。


「く、臭くないよ成次くん! 成次くんの座ってるオフィスの椅子とか時々居ないときおばちゃん匂い嗅いでみるけど、全然大丈夫だよ!」

「むしろなんでそんなことをしてるんだよおばちゃん!?」

「気になってつい……」

「なにが!?」


 時折、昔から美月さんは奇行をすることがある。言ってみれば今やってる、謎の採掘事業も奇行なのだろうけれど。


「まあそれはともかく……この拘束服はなんやねん。どこに売ってたんだ」


 拘束服ってのは真っ白くてベルトついてて腕を結べるようになってる、アメコミだとジョーカー日本アニメだとCCが着てそうなアレだ。

 当然ながら、着て縛れば行動不能になる。


「ファッションセンターしまむら」

「嘘つけ! しまむらに売ってるかこんなの!」

「こう、私が抱きつくことでお前の心に巣食う獣の意思が目覚めて襲いかかってこないようにこれを着て抱かれてくれればなーと」

「獣の意思じゃなくて殺意が目覚めるわ! なんでそこまでされにゃならんのだ!」

「ま、まあまあ。ねっ、汝鳥ちゃんもそんなに不安に思わないで。わたしも毎回立ち会うから……」


 凄まじく失礼千万な女に僕も美月さんも振り回されている感がある。僕はげんなりとしながら呟く。


「お前の病気が原因なのに、なんて我儘というか、面倒くさいというか……」

「むっ……た、確かに……文句ばかりだとまるで瀬尾に借りを作りまくっているみたいだ……」

「作りまくってるんだけど」

「わかった。こうしよう。瀬尾には治療代として、日当一万円支払う。一日三回、合計三十分のバイトで一万円ならそう悪いものじゃないだろ」

「一万!?」

「その代わり貸し借りは無しでどうだろうか」


 かなり割の良いバイトとも言える。確かに、職場に泊まり込むという拘束期間を考えれば三十分抱きつかれるだけというだけではないのだろうけれども。

 週に一個ぐらいずつグラボを買い足せるバイトと思うと魅力的であるのだが……


「だっ、駄目だよ汝鳥ちゃん! それだと汝鳥ちゃんのお給料殆ど無くなっちゃうでしょ!」

「貯金を削ってでも譲れないものがあるのです……!」

「それじゃあ半分の五千円はわたしが出すよ! 福利厚生費か、特別な仕事を任せた報酬ってことで!」

「美月さんなんて優しいんだ……天使だ……だけど駄目です! 泊めてもらえるだけでも迷惑を掛けてるのに、これ以上は……!」

「とにかくわたしも払うから! はい成次くん!」

「受け取れ! 瀬尾!」


 なんか妙なことになったぞ。美月さんから五千円札を、あいつから万札を押し付けられる僕。

 美月さんから貰うのは色々僕としても遠慮したいのだけれど……ん? 待てよ。

 待て待て待て。

 今の僕の状況を省みてみよう。


 僕はつまり、女性の家に居候させられる。下のオフィスで寝るけど。

 その家で求められることは、抱かれることで。

 そしてお金をたっぷり貰う。明らかに生活費以上に。

 

 こっこれは……!

 『ヒ』で始まって『モ』で終わる、女性に貢がせるシリーズ人間失格代表の生活じゃないか! 

 細長くて物を縛るアレになってしまう!

 うちの親父が厳しく戒め、親父も祖父から先祖代々伝えられた『細長くて物を縛るアレになるな』という家訓があるというのに!

 これだけは避けたい!


「ストップ! 待って! 二人共落ち着いて! いいかい、僕は完全なる善意と良心、そして義理人情で同僚を助けるために行動をする。だから報酬や対価のような金銭は受け取れない。絶対に!」

「成次くん……」

「受け取らんかい!」

「いやだ! 対価を支払うというのならば、金銭ではなく態度で払って貰おうか。感謝しろとは言わない。この期間だけでも、無茶な要求や我儘勝手を謹んで治療を受けることだ」


 そう。目先の金に惑わされて、最低最悪の歴史的汚点となる称号を得ることは避けなくてはならない。細長くて物を縛るアレとはそれほどに屈辱的な状態だ。

 更に言えば、『金を払っているのだから』と横暴な態度をこのレズが合理化する可能性もあった。そうするぐらいならば、こっちが得をせずとも態度を改めさせた方がマシだ。

 それに何も得をしないとはいえ、人命が掛かっているのだから多少は面倒をかぶるのも吝かではなかった。嫌いでムカつく同僚だが、それぐらいはしてやる。


「ぬっ、くっ……」

 

 怯んだ様子でレズが睨んでくる。


「これでゴネたら私が悪いみたいじゃないか……」

「自覚無いのか……」

「ううう、ううう……男根崇拝主義に屈するようで、これではレズ界のユダとして裁かれてしまうかもしれないが……」

「いったいなにが男根崇拝主義なんだよ」

「お前が男根崇拝主義だろ。ゲイなんだから」

「あっそういえばそんな設定が……」

 

 というかゲイの人は男根崇拝主義なのか? 偏見じゃないだろうか。怒られても僕は知らない。


「ど、努力はしよう。でもだな、私はその……テンションが上がると理性ブレーキが利かずに思ったことを口走りまくるというか」

「それは知ってるが」

「そのせいで留置所にぶち込まれたこともあるぐらいで」

「なに口走ったんだよ!?」

「だからそのアレだ! お前のことは嫌いだしキモイと思ってるけど、他に居ないし治療に協力してくれることは感謝してるから……バーカ!」

「耐えきれず逃げた!?」


 恐らく男に対してなにか礼のようなことを口にする拒否反応だろうか。礼なのか? 全然お礼された気分にならないんだけど。むしろ馬鹿にされた感じ。

 ともかく、あの女はバタバタと自室に入って扉を閉め、中から苦悶するような声が聞こえた。 

 美月さんは頬に手を当てながら微笑んで、


「成次くんと汝鳥ちゃんがちょっとでも歩み寄ってくれて、おばちゃん嬉しいなあ」

「歩み寄ってるんですかねこれ」


 かなり疑問だったが、美月さんの家で毎日聞くに堪えない口喧嘩をするよりはマシだろうとは思った。




 その後、暫く居間にある高そうな大きいTVモニタで美月さんとゲームをして遊んでいた。


「美月さん『ドクマリ』つえー……」

「えへへ、落ちものゲーは強いんだよおばちゃん」


 ちなみにドクマリというのはあの有名な落ち物パズルゲームだ。そう、ご存知『ドクター・マリ帝国』である。画面の上から降ってくる金貨の絵柄を合わせて消すゲームで、上まで積み込むと世界の金相場が崩壊して負けになるアレだ。

 そうこうしていると、二日酔いのようにげっそりとした顔のあいつが部屋から出て、


「晩ごはん作らせて貰います……」


 と、キッチンへ向かっていった。


「調味料とか、汝鳥ちゃんが選んで買ってくれたんだよ」

「この家に元からあったものは?」

「カップ焼きそばって一味唐辛子を振ると美味しいんだ」

「美月さん……」

 

 彼女の実家は確か国産ブランドの各調味料とか作ってたというのに。多分送られてきても放置してるんだろうなあ。 

 暫く、何かを油で炒める小気味良い音がした。米の炊ける炊飯器の音も鳴った。


「あっ! カップ焼きそばにご飯と生卵混ぜても美味しいんだけど! あとふりかけも焼きそばに混ぜると更に!」

「もういいです。なんですかその食生活……太りますよ」  


 一応炊飯器はちゃんと使っていることのアピールだろうか。あまりにその料理は悲しかった。SNSにアップしたら見た目の汚さでブロックされそうだ。


「さあ! 出来たぞ! 是非食べてください美月さぁぁぁん! 美味しいですよー!」

 

 湯気の立つ大皿を居間のテーブルに置く。トングで自由に取り分けられるように山盛りになっているそれは、


「……野菜炒めじゃねーか! 昼と同じの!」

「チッチッチ。これだからトーシロは。見ろ! 肉がたっぷりだろう! 肉野菜炒めだ!」

「同じだ同じ!」

「まあまあ、美味しそうだし野菜がたっぷりあったからちょうど良かったよー。健康健康」

「美月さん! ご飯にします? ビールにします? それとも、わ・た・すぃいいいいいん!?」

「きめえ」

「ビール飲むよー。引越し祝いだからお酒飲も」

「で? 瀬尾は? 無水エタノールでいい?」

「よくねえよ!」


 とりあえず僕たちは缶ビールを手にして、取り分けた野菜炒めをつまみに食べることにした。他にも鶏のから揚げとカニ玉も用意されている。

 箸を進めて野菜炒めを口にする。僕のは腸詰め入りだが、こっちは豚肉が入っている。


「ん……これは……それなりの味ですね」

「美味しいねえー成次くんといい勝負だよう」

「ハッハッハ。一時期日高屋でバイトしてましたからね。店員にカワイイ子が居て。まあ、クビになったんですけど」

「なにをやらかしたんだ……」


 日高屋というとそれなりな中華チェーンだ。なるほど、それなりな味がするわけだった。

 

「皆凄いなあ料理作れるの。わたし、昔からコンロ使うの苦手で……」

「いえいえいえいえいえ気にしないで大丈夫です! 私の作る味噌汁ずっと食べてください!」

「ええっ悪いよー。味噌汁ぐらいならわたしでも作れそうだし」

「ちなみにどうやって作るか知ってます?」

「馬鹿にして。インスタント味噌汁は、お湯を注ぐだけで出来るけどあれはインスタントだからだって知ってるんだよ。多分本当はお味噌を絞って……」

「絞る!?」

「斜め上の回答だ!?」


 などとバカ話をしながら食事をした。

 そして次第に、酒を飲みながらTVゲームが始まる。三人で『マリカー』をした。


「くっ……黄金ばら撒きうぜえ」

「フハハ喰らえ喰らえ!次のモスクもいただきだ!」

「二人共白熱してるなあ」


 言わずと知れた有名なレースゲーム『マリ帝国カート』である。マンサ・ムーサになった気分で中東のイスラム聖地を目指すコースで黄金をばら撒きながら経済破壊して走るやつだ。

 一応ながら僕らはゲーム世代なのでいい年こいていてもゲームに手が出しやすい。世間のアラサーな人の多くはマリカーとかスマブラとか触ったことぐらいあるだろう。スマブラも有名だから説明は不要だろうが、『大乱闘須磨(すま)ブラザーズ』の略で、源平合戦をモチーフにした対戦アクションゲームだ。須磨を舞台にした一の谷の合戦の源範頼、義経のブラザーズがタイトルの由来だ。

 ちらりと美月さんが時計を見た。いつの間にか九時になっている。


「もうこんな時間。汝鳥ちゃん、お風呂沸いたから入って入って」

「お風呂ですか? 誰も手を付けてなかったというのに……」

「自動でお湯溜めるやつだよー」

「初めて見た……」


 僕もだ。そんな機能があったなんて。


「そ、それより! 家主様様超偉いよりも先にお湯をいただくなど居候としてあるまじき行い! 美月様が是非一番風呂を!」

「うーん……気にしないでいいんだけど、また押し問答になるよりは……じゃあわたしが先に貰おうかな」

「どうぞどうぞ! 私めはここで何時間でも待ちますのでごゆるりと!」


 そう強固に薦めるので、先んじて美月さんが風呂へと向かっていった。

 スマブラで対戦しながら僕はポツリと聞く。


「意外だな。僕はてっきり、『ほほほっほっほ、ここは一緒に入りますーん。お体流しますーん』とか言い出すかと」

「誰がそんな気色の悪い口調を使うわけ。馬鹿じゃないの」

「まあ、使うやつは馬鹿で間違いない」


 お前のことだけどな。


「私は礼節がしっかりとしているんだ。そんな欲丸出しで一緒に入れるか」

「嘘こけ」

「実際何回も銭湯や温泉宿で出禁を食らったからな」

「お巡りさんこいつ完全に犯罪者です」

「へ、ヘイトスピーチ……」


 相手が動揺した隙にゲームのお助けアイテム、松明をくくりつけた牛を解き放ってなぎ倒しKOする。有名な倶利伽羅峠の戦いで登場する牛だ。


「……ついでに言えば美月さんの残り湯に入るとかマジ最高」

「きもっ」

「飲んでいいかなあ」

「きっしょっ」

「うるさいぞ男! だいたい、親戚だかで美月さんと昔から知り合ってて惚れてないとかどういうことだ! ってああ……ゲイボーイだったんだネ」

「その哀れみを込めた目線を止めろ」

 

 まあ実際、美月さんはモテていたようだが。昔から美人だったし、優しくて性格もよく、ちょっと天然入ったお嬢様だし。

 ただなんというか、その天然の奇行が彼女の残念さを増しているというか。そんな彼女がアラサーになって結婚どころか恋人も居ないのも奇行の一つではないだろうか。


「美月さんは最高だ。悲惨だった私の人生に現れた天使だ。だって迫っても触っても通報とかしないでくれるし。前科者の私を高い給料で雇ってくれるし」

「もうね、節々に聞き逃がせないレベルの過去あるからなお前。悲惨だったのはお前の人生じゃなくてお前に関わってしまった被害者の方々だからね」


 僕も被害者と名乗ってもいいかもしれない。




 やがて美月さんが風呂から上がると、交代としてヤツが風呂に入っていった。

 美月さんは時計を見ながら、


「あら、ちょっとお風呂遅すぎたかも。汝鳥ちゃん、悪いんだけど早めに上がってね。ひょっとしたらもうすぐ発作がくるかもしれないから」


 前に抱きつきで緩和したのが二時ぐらい。そこから八時間から十時間後に発作が起こるので、十時から十二時ぐらいの間だ。

 動けないほどの痛みが風呂場で起こったら、最悪溺れるか転んで頭を打つ。

 そうでなくとも急いで抱きつきを開始しなければならない際、全裸のままになるかもしれない。

 あいつ相手のラッキースケベとか頭痛しか感じないので勘弁願いたかった。


「イエス! 超特急で飲んできます!」

「飲む?」

「違った。体洗ってきます!」


 とりあえずツッコミは入れずに見送る。あいつと入れ替わりに美月さんが隣に座ってゲームのコントローラーを取った。

 石鹸の匂いとドライヤーで乾かした髪の匂いがする。しっとりとした美月さんは、こりゃあ世間の男が放っておかないなと思う容姿だ。なんで放置されてるんだろうか?


「成次くんも疲れてるかもしれないけど、汝鳥ちゃんの発作が起こるまで待ってね。ごめんだけど……」

「いや、いいですよ。何のこれしき、頼ってくれて嬉しいぐらいで」

「えへへ。成次くんはいい子だなあ。おばちゃんも誇らしいよう」


 そう言いながら、僕らは落ち物パズル『積む積む~戦国武将編~』をやり始めた。討ち死にした戦国武将の生首が落ちてくるので同じ首をくっつけて怨霊を消すやつだ。

 どちゃっとした感じで落ちてくるから慣れないと結構難しい。恨み言とかメッチャ呟いてくる。


「美月さんは、なんというかお人好しですよね」

「そうかな?」

「あんなヘンテコなやつを雇うのも、言い寄られてもスルーできるのも、死にそうになってたら本気で心配できるのも」


 僕は義務感で動いている程度だ。もし美月さんの立場だったとしてもここまで親身にはなれない。

 精々がどこか入院先でも探してやるぐらいだろう。そもそも性格がクソな従業員を雇わないと思う。


「そうでもないよ。美月ちゃんは、ちょっとエキセントリックなところがあるけど、ちゃんといい子なんだ。おばちゃんにはわかる」

「そうかなあ……」

「成次くんもね。喧嘩ばっかりしてるけど、二人共似ているところがあるから」

「僕がアイツと? 冗談でしょう。どこが似てるんです」

「血液型が両方共O型なところとか」

「血液占い!?」

「あと成次くんの誕生日が8月8日で、美月ちゃんが1月15日……」

「?」

「両方とも月と日の数字を足すと16になるんだよ! な、なんだってー!」

「苦しい! すごく苦しい繋がりだからそれ! 自分で驚くなよ!?」

「おばちゃんどこが似てると思ったんだろう……」

「自分に疑問を持ち始めた!?」

「成次くんとお喋りすると楽しいなあ……はい浅井長政十二連コンボ」

「生首が黄金ドクロに!?」

『信長殺す信長殺すあと勝家も殺す』


 黄金ドクロが呻く呪いの言葉を聞きながら僕らは取り留めのない会話をしながらゲームをしていた。

 まあ確かに。美月さんと長々と会話することはあまりなかったことだ。

 彼女とは同じ会社に勤めているけれど、仕事が始まるといつも採掘に出かけて、昼食時と定時のときに帰ってくるだけだ。昼食時はだいたいいつもあいつがウザ絡みしているので、僕はツッコミを入れる程度でまとまった会話はしない。

 昔はもっと会話をしていた気がするけれど、女性の親戚との関係なんて子供の頃から徐々に疎遠になっていくものなのかもしれない。

 久しぶりに会って、会社を立ち上げるから雇われないかという話を持ちかけられたときは驚いたぐらいだ。


 あれは僕はブラックな会社に嫌気がさして辞めて一年ぐらい経過した時期だった。

 どうやってなるたけ働かずに残りの貯金で余生を生きていくか。いっそ仮想通貨でも強盗してみようかとか考えていた。実際やってみたけど凍結されてゴミになった。ニュースでも流れたけど、あれの犯人は僕だ。

 何も生きがいは無いし死にがいも無いようなダラダラした感じで人生を見失っていた。

 そんなときに美月さんが訪ねてきて、よくわからん会社の謎な社員として雇われることになり、なんとなく仕事も生活も出来ている。まだ一年も経過していないけど。

そもそもこの会社、ソフト開発会社でいいんだろうか? まったくもって謎だ。少なくとも、オフィスが持ち家であることと社員が少ないこともあって、僕の仕事で人件費やら維持費は稼げているみたいだけれど。


「チャース! 奥さん米屋です! お風呂あじゃじゃしたー!」

 

 家の中だというのに足早にあいつが戻ってきた。

 全体的になんか湿っていて、髪の毛とか水滴が垂れそうな具合だ。パジャマがしっとりと肌に張り付いていた。


「早かったね、汝鳥ちゃん」


 時計を見ると十五分ぐらいしか経過していない。


「フフフお風呂に入っている間に居間の方から瀬尾と美月すわんの楽しい話し声が聞こえてくると動悸とか強迫観念とかそういう焦りが浮かんで、急いで出てきましたよ!」

「髪の毛まだ濡れてるじゃない。もう、ほらこっちにきて座って。おばちゃんが拭いてあげるから」

「オギャー! バブー!」

「幼児退行しやがった!?」

「彼女は私の母になってくれるかもしれない女性だ!」

「お母さん? 美月さんが? うわっ……」

「うわって……酷いなあ成次くんは」

「い、いやですね、今のはアニメに元ネタがある会話でして……」

「そうなの? じゃあ今度教えてね」


 言ってみれば、美月さん以上にこの女とはまともな会話もしなかったしお互いに興味なんてなかったので、今日だけでかなり言葉を交わしたことで色々とわかったことも多かった。

 なにせこの女、僕と出会った第一声が「ちっ……男かよ」だったぐらいだ。後から入社した会社の先輩に。なんてことだ。

 その後は鬱陶しく美月さんに絡み、僕がツッコミを入れると口汚く罵ってくる。別に喋らなくても僕がその場に存在しているだけで口汚く罵る。厄介なモンスターのようだった。これがカードゲームだったらゲームから除去しているところだ。

 だがまあ、少しわかってきたこととして、こいつは間違いなくレズモンスター犯罪者であり、後は地味にオタク趣味があるということぐらいか。料理やゲームがそれなりに上手だ。

 美月さんからドライヤーで髪を乾かされながら恍惚の表情をしているレズ魔物。営業が仕事だが、営業先でどのような応対をしているのだろうか。僕に対するようなアレだったらもう業界に連絡がいって総スカン食らいそうだけれど。

 プログラムはさっぱり出来ないようだが、少なくとも代金は安からず、納期は(僕が超優秀だということもあるけど)厳しくない仕事を持ってくることだけは評価できる。


「はぁー幸せ。これで妙ちくりんな病気がなければ最高なのに……はっ、ひょっとしてあの病気は白昼夢……」

「現実逃避するな」

「でもさあ、もしなにかの間違いで、もう発作が起こらないこともあるかもしれウンギョロウンギョロアバババババ!!」

「汝鳥ちゃん!?」

「エゾゲマツ! エゾゲマツ! 痛みが襲ってきたァー!」

「なんなんだその奇声は……」


 突然叫んで床に転げだした。焼けたアスファルトでのたうち回るミミズのような苦しみ方はその痛みを想像させる。


「昼間よりモゲ痛い! なんなのこれ!?」

「昼間は鎮痛剤(アヘン)使ってたからなあ……」 

「それより成次くん! 早くお願い!」

「うす」


 僕が床で悶ているやつに近づくと、血走った目で僕の肩を掴んで無理やり彼女は起き上がった。


「ストップ! 幾らケツ穴ガバガバゲイボーイが相手だろうと、男から抱きつかれるよりは私から治療のため仕方なく抱きつく!」

「お前……いつか怒られるからな多分」

「勘違いしないでよね! これは治療のためなんだからね! ツーン! 死ね!」

「はよやれ!」


 こいつが意味のわからない言葉を吐きまくるのは、自己申告した通りにテンションが上がるというかテンパると思わず口走るのだろう。

 立派な病気の一種だと思う。汚言症的な。

 ともあれ、こいつは正面からがっしりと抱きついてきた。

 溺れるものが縋るように、ぎゅっと手に力を入れて体を密着させてきた。微妙に体全体が湿っているのが、なんかこう嫌だな。口には出さんが。


「……」 

「……」

「な、汝鳥ちゃん、どう?」

「痛みは収まってきたけど男根崇拝主義に屈している自分が情けなくて泣けてきました」

「知らんがな」

「ううう……私なにも悪いことしてないのに、なんでこんな男に触れないと死ぬ病気に……理不尽な……」

「前科者だろ」

「成次くん、汝鳥ちゃんは可哀想な病人なんだから優しく!」

「っていうか10分って意外と長いですね。テレビでも見ましょうか」


 僕としても、なんというか気まずい。顔も近い。体温も伝わる。なにか気を紛らわさないといけない。 

 適当にテレビのリモコンを操作してつける。

 なにやら恋愛ドラマが映った。男女のカップルが抱き合い、二人は幸せなキスをして終了──


「おえええー!」

「うわっ汚っ! 口から何吐き出してるんだ!?」

「あまりのグロ映像に、さっき口にした風呂の湯が……!」

「最悪だなこいつ!?」


 思わず突き放そうとしたら全力で苦しみだした。


「うぎゃあああ! 痛い痛い痛いー! まだ離れるなぁー! 抱きつかれろー!」

「いたたたた無理やり組み付くなー!」

「ふ、二人共落ち着いてー!」

 

 てんやわんやと、病気初日の夜は過ぎていった。

 少し会話をしてわかりあえたあの女への好感度は、お互いになにも知らないときよりもモリモリ下がっていくようだった。





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