1話『抱きつき症候群』
野菜炒めに肉が入っていてもそれは『野菜炒め』という名前をしている。
恐らく家庭や飯屋で提供されるものを合わせても日本中で九割ぐらいはそうに違いない。某チェーン店ぐらいしか、野菜オンリーの『野菜炒め』とそれよりちょっと値段の高い『肉野菜炒め』に分けて表記しているのは見たことがない。
それはともあれ僕がよく作るのは肉ではなくウインナーソーセージを斜めに切ったやつが入った野菜炒めだ。野菜全体に若干香ばしい感じの燻製風味が付く気がして、個人的には肉の細切れが入るより美味い。
会社の給湯室には僕しか使わない大きめのフライパンが用意されていて、これ一つで炒め物でも煮物でもできる。調理器具の数を用意するにはその給湯室は狭すぎることもあった。
流し。食器棚。冷蔵庫。IHのコンロが一つ。電子レンジ。炊飯器。電気ケトル。スターリンの写真。それがある程度の小さなキッチンで昼食を作るのが僕の役目だ。スターリンの写真が飾っているのは深い意味はない。社長が適当に壁が寂しいということで置いてるだけだ。
腸詰め入り野菜炒めをたっぷり三人分作って、それを皿に取り分ける。三人分。この会社に所属する人数だ。給湯室を出てソファーとテレビが置かれた応接室(客が会社に来たことはない)のテーブルに皿を並べる。
時計を見ると丁度正午だった。テレビをつけると昼の番組、『情報ライブ・シベリ屋』が始まった。シベリアでは貴重なニュースの情報源(検閲済み)だが、シベリアでない地域でも放送されている。例えばここのような多摩地域でも。
「ただいま帰りましたよ社長社長社長~! また仕事取ってきましたよわざわざ鎌倉まで行ってバッチリ割のいいヤツ褒めてくだすわぁぁぁぁ……チッ。まだ社長いねえのかよ瀬尾だけかよ」
騒がしい声と共に帰ってきた女性社員は僕の顔を見て露骨に舌打ちをし、バサリとテーブルに書類を投げ捨てた。僕も舌打ちしたい気分だった。
ビジネススーツ姿の彼女はこの会社の営業職、鳥山汝鳥だ。年は二十代だが詳しくは知らないし別に知りたくもない。スラッとした貧相な体型をして眼鏡を掛けたいかにもビジネスウーマンって感じの見た目をしている、性格がゴミな女だ。
「オラッ。お前はメシ食ってないで仕事だ仕事! 私に感謝するべきだな瀬尾は。お前みたいなオタク野郎が社会に貢献できるように仕事を持ってきてやってるんだからぁぁぁ↑」
「性格がゴミな女だ」
「ううぇああああ! シャッチョー! 美月すわぁぁぁん! パイセンがパワハラしてくるぅぅ! 首にしてぇぇぇ!」
「なんでこんなゴミを雇ったかなあ美月さんは」
「ハッ! 決まってるだろ。私が働かせてくださいって土下座したんだよ社長に!」
「キマってるのはお前の脳内麻薬かなにかだろ」
パイセン……先輩と言ってくるが、この女が入社してから一度たりともなにかこー、先輩扱いというか敬意というかそういうのを感じたことはない。そもそも年下なのか年上なのかも知らないぐらいだけど。入った時期も数ヶ月程度の差だし。
このゴミが営業で、僕はソフト開発が仕事だ。昼飯作りだけではない。僕が開発したソフトを売り込みにいくか、顧客から要望のあったソフトを開発するかが基本的にこの小さな会社の経営だった。
そんな中で僕を首にしたら会社ごと終了のお知らせだろうに。このゴミ女は当然ながら、社長もプログラムには全然詳しくないというのに。
「いやー、今日も騒がしいねぇ。元気で結構。おばちゃんもお腹ペコペコだよ。お昼にしよっか」
オフィスの裏口から社長が入ってきた。ニッカポッカのズボンに薄汚れた作業着、手に持っていたツルハシを扉の近くに置いて、ヘルメットを外した。
社長こと根津美月さんは三十歳前後の女性で(女性の年齢は正確にわからなくていいらしい)年齢よりは若く見えるのはいつも朗らかな表情をしているからだろうか。性格も大らかで優しい。
彼女は僕の親戚で、昔から僕に対して『おばちゃんと呼んでいいよー』と冗談めかして言っていた。まあ、実際の叔母ではなく、母親の従姉妹とかそういう関係だったと思う。年齢も僕より少し上なだけなので、おばちゃんというかお姉さんだった。
「シュワッッチョーーーーお疲れ様です!」
「うわっと、スーツ汚れるから抱きついたら駄目だよ汝鳥ちゃん」
「うえへへへへ、この汝鳥! 美月すわんのためなら東京湾のヘドロに塗れても笑顔です!」
「いや、別に今抱きつくことは全然わたしのためにならないからね。ほらほら、手を洗いに行くんだから」
「ほっほほほっ、この汝鳥がお手手洗って差し上げますーん」
「きめえ」
僕は思わず呻いた。まあ、毎日のことなのだが。
この汝鳥という名のゴミカスは、社長の美月さんにべた惚れしているのだ。レズビアン的な意味で。
いやそれでコソコソとプラトニックに恋い焦がれてるとかなら可愛げがあるんだけど、この調子で絡んでいくのでかなり見ててキモい。
美月さんが大らかなので拒絶とかしないから調子に乗っているとしか思えない。
僕の呟きが聞こえたようで、レズはこちらを睨みつけた。
「貴様! それはヘイトスピーチだぞ! LGBTへの差別と偏見だ!」
「いや……LGBT関係なくさあ。個人の問題としてやるべき行動じゃないというか」
例えばこいつが、オッサンの姿をしていたとして美月さんに『ほっほほほっ、お手手洗ってあげますーん』とかほざいてたら僕はこの応接間のクリスタル灰皿で殺害するだろう。
ギリギリ。なんというか、女同士だから犯罪扱いしていないぐらいで。
だがゴミはキョトンとした表情になってこう言った。
「他……人……? まさか瀬尾、お前まだ自分が人扱いされていると思っていたの? ソーセージ料理調理マシーン兼、ソフト自動制作マシーンでしょ」
「思ってたより酷い扱いだった!?」
更にこの女の面倒なところは、百歩譲って美月さんに惚れててアタック仕掛けてるまではいいとして、その反動で男というか僕を毛嫌いしているところだ。
どのような信条や性的嗜好を持とうが勝手だが、それで関係ない人を攻撃するのは最悪だと思う。
「こぉら! いつも言ってるでしょう! 成次くんにそんな酷いこと言ったら駄目だって!」
「ヒィィィ! ごめんなさい美月様! 踏んでください!」
しかしながら懐かれている美月さんはちゃんと叱ってくれるので、僕も多少は溜飲が下がるし、応接間のクリスタル灰皿はまだ血に染まらずに済んでいる。
「毎日美味しいご飯も作ってくれてるし、お仕事も頑張ってるんだからね。仲良くしないと駄目だよ」
「誤解でしゅぅぅ……私は義兄弟の契りを結ぼうってぐらい歩み寄っているのにあのザ・マンがヘイトスピーチを……」
「凄い勢いで嘘を付くなよな!?」
だがこっちも嫌だわ! こんな女と義兄弟とか!
しかしなんというか、僕とまったく関係のないどこぞの女に惚れて懐いてくれれば良かったのに、よりにもよって僕の上司で親戚付き合いもある美月さんに絡んでくるから面倒なことこの上ない。
美月さんは優しげな微笑みを浮かべて、
「はいはい、とにかくご飯にしましょう。折角成次くんが作ってくれたんだから、冷めちゃうし」
「そうですね! わざわざ美月しゃぁぁぁんとお昼一緒に食べたくて鎌倉から戻ってきたんですし!」
「鎌倉で辻斬りにやられれば良かったのに……」
僕は残念そうにそう言った。
「はぁーん! 美月さんのためなら返り討ちじゃわい!」
※鎌倉は辻斬りが月イチぐらいで発生する。
まあとにかく、二人が給湯室に入ってあれこれ準備をしている間、僕はボーッとテレビを見ていた。
『今年のシベリアで取れた小麦の収穫率は前年比0%! 全滅したってことですねえシベリさん』
『やっぱり今の時代ルイセンコ式農業は駄目ですね』
『※暫くお待ち下さい』
『えー今回もシベリさんがシベリア送りになったので次のニュースに行きたいと思います。では次のシベリさんお願いします』
そうしていると、美月さんと女が僕の分まで茶碗にご飯をよそって持ってきた。
ご飯。インスタント味噌汁。腸詰め入り野菜炒め。質素とも言えるシンプルな昼食だが、まあ栄養は十分だ。この会社ではなるべく皆(三人だが)で昼食を取ることになっていた。材料費は美月さんが出している。
「はい、いただきます」
「はぁー。いただき……はぁー」
「不満があるなら食うな」
露骨にため息をつくゴミウー(ゴミ・ウーマンの略)に僕は言う。毎日のことではあるが。
「いやあ、美味しいよう成次くん。おばちゃん助かるなあ」
ニコニコとしながら美月さんは野菜炒めを食べてくれる。天使……ふと彼女の癒やされる笑顔を見ていると浮かぶことがある。
仕方無さそうにむしゃむしゃとゴミウーも野菜炒めをがっついて食べ始める。
「はぁーん。まあ、そこらの町中華程度の味かぁー」
「うんうん。お店屋さんで食べるぐらい美味しいよねえ成次くんの料理」
「まあ……昔バイトしてましたし。福しんで」
駅前とかによくある青い看板の中華料理チェーン店だ。学生の頃はPCパーツが買いたくてバイトをしていた。
死ぬほど美味いわけじゃないけど、それなりのメニューをそれなりの値段で出してくる。安値の半チャーハンと餃子とおともラーメンのありがたさは心にしみる。
「おばちゃんなんか、料理しようとしたら毎回火傷しそうになるからなあ」
「お願いだから」
「キッチンに立たないでくださいね」
「わかってます」
僕とゴミウーの意見が合致して、美月さんはバツが悪そうに笑った。
なにはともあれ、僕の料理を美味そうに食ってくれるのは良いことだ。料理と言っても精々、腸詰め入り野菜炒めとか、腸詰め入りソースのパスタとか、腸詰め入りポトフとか、腸詰め入りカレーとかそういう簡単なのばかりなのだけれど。腸詰め料理だけが得意なのだ。
こうしてこの会社──『根津採掘社』のお昼は過ぎていく。
社長の根津美月は毎日ツルハシを持って採掘をしているらしい。なにを採掘しているのか、僕は知らない。
プログラマー(やってることはシステムエンジニアなんだけど)の僕こと、瀬尾成次は毎日パソコンでソフト開発と、皆の昼食を作っている。
営業の鳥山汝鳥は僕の作ったソフトを売ったり、客が要望したソフト開発の仕事を持ってくる。どんな営業をしているのか、僕も美月さんも知らない。
社員がお互いになにをやっているのかさっぱりわからないままでも、この小さな会社は回っている。
*****
昼食を終えると美月さんとゴミウーが片付けてくれる。最初の頃は僕も手伝おうとしたのだが、美月さんが作ってくれたんだからせめて片付けぐらいはすると主張し、彼女を手伝いたい下心見え見えなウーも片付けを始める。
給湯室で洗い物をしているカチャカチャという音を聞きながら、テレビに映る美しい集団農場の景色を眺めていると、
がしゃん、と皿が割れる音がした。
続けて、美月さんの慌てた声。
「大丈夫!? 汝鳥ちゃん!?」
「う、ううう……へへっこのぐらいなんとも……あっヤバヤバ……頭痛と吐き気と目眩と全身関節痛が……」
流石になにか異常事態だと察した僕も給湯室へ向かった。
「どうしました?」
「成次くん、突然汝鳥ちゃんが苦しみだして……」
「鎌倉で呪いでも受けたのでは?」
※鎌倉では呪術事件が月イチぐらいで発生する。
ともかく、床にへたり込んだゴミを見下ろすに、顔色は真っ青だし目の焦点も合っていない。呼吸は荒く、体が震えていた。
さっきまでは僕に容赦のない悪態を付きまくり、美月さんに媚びまくっていた元気さだったというのに、悪化したインフルエンザ患者のように弱っている。
「ど、どうしよう成次くん! とにかく病院に連れて行かないと……」
「そうですね。とりあえず僕が運ぶんで、車出して貰えますか」
「うん!」
そう言ってとりあえずへたり込んでいる奴の肩を持って引っ張り起こそうとしたのだが。
「せぇぁぁぁわんなぁぁぁぁぁ……!」
「うわ抵抗しだしたこいつ」
「男がぁ! 触んなぁぁぁぁ! 気持ち悪い! 汚い!」
「レズこじらせてる場合か! つーかお前のよくわからん病気が触って美月さんに感染ったらどうすんだ!?」
「み、美月さんに……レズが感染る? LGBTを感染症扱いとはヘイトスピーチ野郎め……だが夢のある話で……」
「感染るか! それに救急車呼んでもどうせ来るのは男性隊員だ!」
「女性に迎えに来てくれって注文つけろぉぉぉ……」
こいつを無視してゴミバケツに入れたい欲求が僅かに浮かんだが、僕は鋼の自制心で喚く女を無視して肩を持ち、会社の外まで運ぶ。
運ばれながらも「くさい」だの「汚らわしい」だの「セクハラ」だのと口々に言い、なるたけ僕から体を離そうとするが、相当に具合が悪いのか声は徐々に小さくなっていく。
外では美月さんが自家用車のニーヴァを乗り付けていた。ロシア製のオフロード車だ。後部座席に乗り込むと急加速して病院へ走る。
「成次くん、汝鳥ちゃん大丈夫そう!?」
「ううう……美月さんがキッスしてくれたら治るかも……あっでも感染症だったらまずい……ん? でもお互いに感染症を移し合うのってスケベ──」
「もう駄目そうです。火葬場に直行しましょう。病原体の焼却が一番です」
「大丈夫。おばちゃん腕のいいお医者さん知ってるからね。脳とかもできる」
そう言って美月さんが連れて行ったのは近くにある大病院──ではなく、小さいアパートぐらいの個人医院だった。
ニーヴァからブツブツ文句ばかり言っている物体を引っ張り起こし、病院の中に入る。あまり流行っていないのか、待合室には数人しか居なかった。
「すみません! 急患です! 急に倒れて全身が痛むって……!」
美月さんが受付のおばさんに早口でそう言う。おばさんは僕の担いでいる、ぐったりとしてもはや口からは「死死死死死」としか呟いていない半死人を見て頷いた。
「他の皆さん、どうか申し訳ありませんが、急ぎの患者さんを助けると思って順番を譲ってください!」
そう言うと待合室で待っていた人たちは神妙に頷く。僕はおばさんに先導されて奥の方にある診察室へと通された。
医療用のベッドが用意されていてそれに載せる。医者は背筋が伸びて矍鑠とした白髪の女医だ。壁には人民医師勲章が飾られているあたり、実力を窺わせた。
「先生! うちの社員が……!」
「とりあえず診察をしましょう。エコーとMRIの準備もしておいてください。そこの貴方は、部屋の外でお待ちなさい」
「はあ」
なんか大変なことになってきたな……いったい、なにがあいつの身に起きたのだろうか。
食中毒とかではないはずだ。僕も美月さんも同じ昼飯を食べたわけだし。あいつが鎌倉でそのへんに落ちていたヨモツヘグイを食べたとかそういう事情がなければ。
くも膜下出血とかそういう、急に発症する危険なやつか。
或いはそれこそ感染症だった場合、僕に感染っている可能性が無いだろうか。若干怖い。
なにやら検査のためにキャスター付きベッドで移動し、心配そうに手を握っている美月さんに対してニヤついているあの女を見ると心配する気にはなれないんだが。
*****
「『抱きつき症候群』だと判明しました」
僕まで診察室に呼ばれて、半死半生でベッドに寝転がっている名誉死体と、美月さんはその聞き慣れない診断結果を告げられた。
「『抱きつき症候群』……とは?」
「十代から二十代の女性百万人に一人ぐらいが発症する、原因不明の奇病です。発症すると全身から激痛が走り、やがて死に至ります」
「そんな……治す方法は!?」
美月さんが泣きそうな声で聞いた。
「簡単な方法があります。名前の通り、他人に抱きつくことで徐々に症状が治まります──ただし、男性に抱きつかなくてはいけませんが」
「はぁぁぁぁぁぁぁぅぅぅ!?」
ガバリと鳥なんとかが起き上がり、かすれた声で叫びを上げて──そのまま再びぶっ倒れた。
ちらりとそれを見ただけで先生は気にせずに説明を続ける。
「おおよそ10分間の抱擁を八時間から十時間置きにすることで全身を襲う激痛は消え、継続して治療行為を行うことで早くて一ヶ月ほどで完治します」
「なんだその病気……」
凄まじく妙な病気だったが、考えてみれば世の中に存在するすべての病気を僕は知っているわけではない。
人民勲章まで持っている人を疑うではないが、ササッと手元のスマホで検索してみると、確かに実在する病気のようだった。世界には謎が多い。
「ほっ……他に、なにか薬とか手術とか中国産の二百万円ぐらいするキノコが効くとかは……」
縋るように患者が聞く。こいつからすれば、男に抱きつかねばならないなどというのは非常に嫌な治療法なのだろう。
「現在確認されておりません。なにせ、発作は毎日襲ってくるのでご家族に男性でもいればいいのですが……」
残酷な言葉を聞いて血の気の失せているような患者の顔は、体を襲う痛みだけではなくなにか絶望的なショックを感じ取れる表情だった。
口をパクパクとさせて現実逃避の言葉を呟いているようなアレの代わりに美月さんが応える。
「ええと、聞いた話では汝鳥ちゃんは一人っ子で、お父さんも既に亡くしているようでして……」
「彼氏とか、旦那さんとかは?」
「彼女、そういうのに興味が無いらしく……」
レズだから仕方ないね。そう思っていると、美月さんの視線が僕の方へ向いた。
「成次くん……」
「なんでしょうか」
「汝鳥ちゃんを助けて欲しいのだけれど……」
「……」
いーやーだー!!
苦しめ苦しめ馬鹿女め!
今まで散々僕をけなしてきた天罰だ!
と、いう考えが一瞬頭をもたげた。だけどグッと我慢した。
美月さんが悲しむからね!
「……っはぁー。わかりました。それじゃあ」
「いーやーだー!! こいつに抱きついてまで延命するとか舌を噛んで死にゅううううう!!」
「……自ら死を選ぶようなので、意志を尊重しません?」
ともすれば見捨てたくなる欲求が浮かんでくる。
泣くほど嫌か! 僕だって嫌だよ!
「汝鳥ちゃんッ!! このままだと死んじゃうんだよ! ワガママ言わない!」
「宗教的に輸血とか拒否して死ぬ人居るじゃないですか! 私もアレで!」
「ものみかお前は」
「男に抱きつくとかレズ的死を迎えてしまう! レズ異端審問官に裁かれてしまう!」
困ったように僕たちは医者の先生を見ると、彼女もため息をついた。
「患者が治療を拒否している際に、医師が勝手に行うことはできません。もしそれで死んだとしても法的な責任には問われませんし、勝手に治療したことで訴えられる場合もあります」
「はあ」
「というか、ここでは適切な治療はできませんし。当院の職員は全員女性なので……しかし病状は一刻を争います。今はかなり強力な鎮痛剤で痛みを抑えていますが……」
「アイタタタタタなんか全身からまた洒落にならない痛みが!?」
「汝鳥ちゃん!」
「ウンギョロゲ! ウンギョロゲ!」
とうとう意味のわからない叫び声まで上げて、もがき苦しむレズ。
半分泣きそうな顔で美月さんは僕の方を向いた。
「成次くん! 全部わたしが責任取るからこの子抱きしめて!」
「了解ー」
まあ、仕方がない。責任というけれどこうなると僕が恨みを買うしかない。
流石に見捨てて死んだらこんな女でも目覚めが悪いし、美月さんが悲しむ。
「うぎゃあああ! 訴えるぞおおお!」
「訴訟できるぐらい病気が治ってからな」
拒否の言葉を叫ぶけれども、もう手にも力が入っていないようだった。
仰向けに寝ていたバカの上半身を持ち上げて起こしてやり、正面から抱きしめてみる。どの程度だろう。まあ、適当に。
「うえええええ……」
「顔の横で気味の悪い声出さないでくれる?」
「精神的嫌悪感がヤバイ……! 全身にサブイボが……! メインイボに昇格しつつある……!」
「きしょっ」
ガクガクと震えているこいつの体から脂汗が滲んでいて、なんか気持ちが悪い。
「おお……レズの女神サッポーよ……すみませんもう私は聖地レスボス島に入る資格がありません……」
「レスボス島民も勝手に聖地にされて迷惑がってるらしいが」
地中海に浮かぶレスボス島だが、その名の通りというかレズビアンの語源である。別にレズしか住んでいないわけではなく、その島出身の古代レズ詩人サッポーさんのネームバリューによってだ。確か。あまりに身近に鬱陶しいレズがいるので思わず調べたけど。
現代ではレズ聖地扱いを受けているが、もちろん島民の殆どはノーマルなので迷惑がっているとかなんとか。
美月さんがこいつの背中を撫でながら諭すように言う。
「ごめんね。汝鳥ちゃん、緊急事態だから……なんでも言うこと聞くから、とにかく治療を受けて死なないで欲しいの」
「うっ美月さん……じゃ、じゃあとにかく今は手だけでも握ってくださいこのソーセージ野郎の抱きつきで精神的死を迎えそうなので……」
「いっそ気絶でもしてくれれば楽なんだが」
「気を失ってたらどうせ私にセクハラするんでしょ!? このヘテロ野郎!」
「ウザすぎる……」
こいつが寝ていたとして僕はそのまま秩父山中に埋める計画を立てるぐらいで、決してセクハラなんてしないだろう。レズの女神に誓える。
確かに見た目は美人な分類ではあるのだが、中身が僕の敵すぎる。現に今抱きしめてるところで一切下心が湧いてこない。サバ折りして腰の骨を折るタイミングとか図ってる。
「うううー……気分は死ぬほど悪いけど、体の痛みは収まってきた……ちょっと離れてくれますぅー?」
「ほらよ」
「イタタタタタタ!! なんなの!? 嫌がらせなのこの病気!」
僕がひょいと離れると再びこの女は苦しみだした。医者の話では10分は必要らしい。まだ足りていない。
大きくため息をついて、また抱きかかえる。やはり不満そうにこいつは呻いた。
「こんなっ……女性に対して屈辱的というかヘイトスピーチ的というか、男根崇拝主義的な馬鹿げた病気があるなんて……!」
「男根崇拝主義的な病気て」
初めてそんな表現の病気を聞いたわ。
「だってそうでしょ! 掛かる女性には肉体的精神的苦痛は計り知れないのに、抱きつく男は喜ぶだけとか都合のいい病気で!」
「僕が喜んでいるように見えるなら眼科と精神科にも掛かれよ!」
「へ、ヘイトスピーチ……LGBTへの差別と偏見で精神病だと断定……」
「すぐそれだな!?」
「──とにかく!」
言い合う僕らに、美月さんが手を叩いて意識を向けさせて発言をした。
「これから、汝鳥ちゃんが治るまで最低一ヶ月。どうしても成次くんの協力が必要だと思うから、色んな話し合いが必要だと思う。口喧嘩も程々にね」
「イッカゲツー!! 一日二回……いや三回と考えて九十回も男に抱きつかないといけないの!? オオ……神よ……」
天を仰ぐレズ。僕もなんか泣きたくなる気分だった。
****
『抱きつき症候群』について軽く調べた。発症者数も少なく、また患者も抱きつくという治療法の恥ずかしさからかあまり公にはしないことも多いので、非常にマイナーな病気だ。
病気を発症する原因は不明である。歴史もそこまで深いものではなく、最初に記録が見つかるのは18世紀の日本だという。
その後文明開化で外国人が日本に来たりするようになってから外国での発症例が見つかりだすことから、恐らく日本で発生した病気だと思われる。だが現代でもウイルスも細菌も確認されていない。
死亡例もあるが、数は少ない。余程のことが無い限り周りに誰も男が居ないという状況には陥らないだろう。特に、その病気であると特定された人ならば注意して行動するはずだ。ただ特定される前に謎の全身激痛のまま治療法が特定できずに死亡したケースもあるかもしれない。
まあとにかく、どうあってもこの病気に掛かったら男に抱きつかないと治らないということだ。
僕たちは病院から会社に戻ってきていた。仕事になんか当然ならない。
幸い、既に予定していた営業先訪問は午前中で終わっているらしいので、急ぎの仕事はない。美月さんも採掘を休んだ。なにを採掘してるのかは不明だが。
あの女は今後の辛い治療の日々を想像してか放心したようになり、美月さんは手を握って励ましてやっていた。
「……ところで、これからどうするんです?」
僕が話を切り出す。
「そうだね。汝鳥ちゃん、八時間か十時間置きに成次くんに抱きつくか抱きつかれるかしないと死んじゃうから、どうにかしないと」
ちらりと僕は時計を確認して告げる。
「今は午後三時。二時頃に抱いたので、おおよそ夜の十時から十二時ぐらいにもう一回ですね」
「うえええ」
「それだけじゃなくて、朝の八時頃にも必要になるし」
「うえええ」
「……結構大変っすねマジ」
想像したのか口元を押さえつつ呻くアバズレのレズ。
実際のところ、確かにこれは同居している男の家族でもいない限りかなり負担が大きいだろう。もちろん男側の。想像して欲しい。毎晩寝る前と出社前に、嫌いな会社の同僚女の家に通って罵られつつ抱き合わねばならない。新手の拷問か。
「……汝鳥ちゃんの住んでるところってどこだっけ?」
「はーっ! はーっ! 無理ですよ私の部屋に入れるとか生理的にヤバイですし人上げられる状況じゃないし! コミック百合姫とか散らばってるし!」
「それは何も意外じゃないけど」
「ネタで買った青林堂の思想がヤバイ本とか散らばってるし!」
「それは引くわ」
「じゃあ、汝鳥ちゃんが成次くんのところに通うとなると……」
「ふふふ言っちゃあなんですけどね! 毎日毎日こいつのお家に通っては抱き合う生活なんてしていると途中で心が折れて電車の前にダイブを選ぶ自信がありますね!」
「そっかー。なるたけ僕の見てないところで死んでくれよー」
どんどん話を進めていくと関わり合いたくないゲージが上昇していくぞ。これは凄い!
だけど全人類に対して博愛の心でも持っているかのように優しい美月さんは困ったように思案して、
「汝鳥ちゃんがちゃんと治療受けるか、自殺しないか見張る必要もあるんだねぃ……よし、じゃあこうしよう」
彼女はポンと手を打って告げた。
「汝鳥ちゃんは今日から、病気がよくなるまでおばちゃんの家に泊まり込みなさい。一人で倒れたりしたら大変だからね、一緒に暮らそう。異存は?」
「無いです!! どっどどどおどど同棲……! これぞ怪我の功名……! 合意を得た的な……! 美月さんへの愛が実った……!」
「本当に気持ち悪いなこれ……」
別な意味で監視が必要なんじゃないだろうか。僕は心配げに呻いた。
「そして、成次くんもおばちゃんの家に下宿してくれれば、治療が楽に行えるじゃない?」
「へっ?」
「うわーっ! このヘテロ・ヘテロ・ヘテロ野郎がひとつ屋根の下で!? ダメダメダメダメ!」
「人をゴリラ・ゴリラ・ゴリラみたいに言うな」
「私の抱きつき処女を奪い取ったこの野獣先輩は間違いなく! 美月すわぁぁんの美しい体を狙ってくるはずです! 危険です! 不潔です!」
「あはは、やだなあ。こんなおばちゃんに成次くん興味無いって。それに親戚同士だし」
「危ない! 自覚がない! ガードが弱い! 美月さんのそんな優しさにつけ込んでスケベ目的で近づいてくる輩を許してはおけない!」
「いやお前だろそれ。レズ目的で近づいて土下座までして」
「だ、大丈夫だって。えーと……」
美月さんが困ったように、どうにかこいつを説得する材料を考えているみたいだ。
まあ確かに、三人揃って生活していれば抱きつきの手間は無くなるだろう。正直言うと結構僕も嫌ではある。美月さんはともかく、こんな女と同じ家で生活とか職場で溜め込んだストレスがそのまま会社終わっても続くようなもので。
考えても見てほしい。朝起きたら嫌いな職場の同僚。仕事中も嫌いな職場の同僚。終わっても職場の同僚。寝る前に職場の同僚と顔を突き合わせる生活を。
つらい。
だけど一応は、僕は条件に否と言わずに従おうとは思う。だって美月さんが心配しているし、命が掛かっていることではあるからだ。一寸の虫にもゴミの魂だ。
「……そう! 実は成次くんはゲイだから、女性に興味が無いから大丈夫!」
「えっ」
「えっ」
突然出された設定に僕もあいつも固まる。大胆な設定すぎるだろ。
「本当ですかぁー? 今まで全然そんな素振りとか見せなかったけど……」
「ほ、本当だよう。おばちゃんにだけはね、しっかりカミングアウトしてたし……ねえ成次くん?」
「は……はあ」
こっ……肯定したくねえぇ~……
当然ながら僕はゲイではない。LGBTを差別するわけではないけど、単にそういう属性を持たないだけだ。
だけれども人にゲイだと思われるのが気分のいいことかと言うと、全然そうじゃない。個人的には。差別するわけじゃないけれど。
しかしながら、とにかくあいつは僕がヘテロで女性に手を出す危険人物だと(偏見的な思考で)考えているわけだから、それを安心させて同意を得ようと美月さんは考えたのだろう。
「ほ、ほら! この成次くんのデスク!」
美月さんは僕のパソコンが置かれた机に近寄り、なにやら背中を向けてゴソゴソとした後で引き出しを開いた。
「中にマッスル系のビデオが!」
「あらまあ」
「おいおばちゃあああん!?」
思わず叫んだ。僕のデスクからマッスルビデオが出てきたように取り出したのだ。
タイトルは『怒羅根 棒留 オッス! オラがゴックン! いっちょヤってみっか! 最強の合体編』だった。有名な漫画をパロった訴えられそうなやつだ。見たくなかった。
もちろんそんなものは持っていない。トリックだ。おばちゃんがどっからか取り出したのを、あたかも僕が持っていたかのように紹介したのだ。
僕は大慌てでおばちゃんを引っ張り、あいつに背を向けてヒソヒソと話した。
「なんでそんなの持ってるんだよおばちゃん!?」
「ご、ごめんね。汝鳥ちゃんを信用させるためのフェイクだから」
「フェイクでスッとどこからか出せる物か!?」
「とりあえず暫くの間だけ、汝鳥ちゃんが慣れるまででいいから誤魔化しておいて!」
「いやだからなんでおばちゃんがマッスルビデオを」
「お願いね!」
押し切られた。謎は謎のまま残ってしまった。つらい。あとそのビデオを僕の机の引き出しに戻さないで欲しい。
「そっかぁ……正直男同士とか気色悪いけど同じ性的少数者だったんだ瀬尾。そこは認めますよ仕方ありませんね同じにして欲しくないけど本心は」
「いきなりのヘイトスピーチかよ……」
「でもなあ……襲ってこないケツ穴ガバガバ野郎とはいえ男と一緒に暮らすのかぁ……憂鬱だなあ……」
「調子に乗るなよクソ女」
なんなの。上から目線すぎて驚くんだけど。こいつが一番差別主義者だと僕は思う。
「それでいいかな、成次くんも」
「まあ僕は自宅とか、寝るだけなんでどこでもいいですよ。アパートからゲーム機とパソコン持ってくればいいんで」
「ありがとう! それじゃあ二人とも、もう本当に今日から泊まらないと汝鳥ちゃんの命が危ないので、会社は休業して二人は自宅へ帰って準備してね。おばちゃんも家を片付けてくるから」
ちなみに美月さんの自宅はこのオフィスの二階部分だ。一家族ぐらい十分に暮らせる広さはある。ここに泊まるとなると、会社への移動時間がゼロになるという利点もあった。
……まあ、その分仕事が終わっても会社にいるような気分で休まらない感じもするかもしれないけれど。
こうして僕は、気に食わない同僚を助けるために親戚のお姉さんと同居することになった。気分はヘルアンドヘブンだ。これからどうなることやら。
三人の元ネタは某童話
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フレデリカさんでAmazon検索すると出るらしいな……
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