第六十四話 皇帝の憂鬱
プルメニア帝国、帝都メルガルド。会議室では、仇敵からの一通の書状を前に、それなりの地位にある武官、文官たちがひたすら眉を顰めていた。皇帝ルドルフが目配せすると、見事な髭を蓄えた帝国宰相ボルトスが発言する。
「彼の国からの書状については、すでに伝えておいた通りである。どのような返答をするかで、大陸の情勢は大きく変わるだろう。我らの取るべき最善の選択について、諸君らの忌憚のない意見を聞かせてもらいたいと、陛下はお望みだ」
「宰相殿はどういう返答をするかと言われるが、まさか、彼の国と本当に誼を通じることができるなどと思ってはおりますまい。これはまさに神の与えた好機というもの。陛下、是非我が渾身の侵攻計画をご採用いただきますよう!」
「いやいや、参謀総長のいわれることも一理あるかもしれませんが、それはともかくとして」
参謀総長マグヌスの言葉を皮切りに、発言が続く。これまでの対ローゼリア侵攻作戦はマグヌス麾下の参謀本部により立案され、実行されてきた。戦いに勝利し、ドリエンテ州を獲得に成功するまではよかった。だが、疫病の発生やら敵の新型砲弾の投入など予期せぬ被害拡大でストラスパール州攻略ならず。さらにはローゼリア王国では革命勃発。賠償金はうやむやになる可能性が高い。戦いに勝利し、西ドリエンテを割譲させたマグヌスの功績は急速にしぼんでいってしまった。皇帝ルドルフも最近は直接呼び出すこともなくなっている。本人に失点らしい失点はないのに、失脚の噂が色濃くなっているのが現状だ。その一番の理由は、『疫病蔓延という不運はともかく、物資不足を予期できなかったのは擁護できない。ストラスパール州攻略がならなかったのは参謀本部の責任である』というものだ。
それを取り返すべくかは知らないが、今度は単独で『刈取』計画とやらを立ち上げてきた。ドリエンテ州からストラスパール州、そして王都を一直線で陥落させる正攻法ではなく、敢えて大陸を海岸沿いに迂回しながら各海岸都市を攻略し、最終的に王都を落とすという壮大な作戦だ。マグヌス曰く、『王都を最短で陥落させた場合、確実にリリーア王国が介入し、王党派あたりを利用して傀儡としてくるに違いない。それを阻止するためにも我らが先に海岸都市を落とさねばならない。ローゼリアの半分を抑えれば、我々は大陸の覇権を握る』とのこと。他国の介入を全く考慮に入れておらず、成功する気が全くしない。ローゼリアの領土を狙っているのは、対ローゼリアの盟約相手、リリーア王国とクロッカス帝国も同様だ。それを突くと、外交努力で時間を稼ぐなどと宣った。他国がそこまで間抜けなら何の苦労もない。かつてのマグヌスは無能ではなかったが、どうにも精神的に追い詰められすぎたようである。つまり、ルドルフの頭が正常で、ボルトスの目が黒いうちは絶対に通すことはない。失脚の噂は近々現実となる。
「こちらの対応としては、拒絶、無視、あるいは保留が考えられるかと。時間を稼いで戦略的有利を手に入れるべきでしょう」
「何を甘いことを。あのような簒奪者たちと言葉を交わす必要すらないだろう。ドリエンテあたりにおびき寄せて、厄介なニコレイナスともども葬ってしまえ! その後は一気呵成に王都ベルまで侵攻すべきだ! 王都を落とせば全てが手に入る!」
「しかし、それはあまりに強硬な手段では。外交の場で騙し討ちとは些か乱暴かと。我が国の信用に関わりますぞ」
「国王の座を奪い取った者に遠慮する必要がどこにある。むしろその危険性を承知で乗り込んでくるのだ。期待に応えて何が悪いか!」
「だから、私の計画を実行しろと言っているのだ! 最短で王都を落とした場合、リリーアの傀儡国が横にできあがるだけとなぜ分からん! 共和国を名乗る連中など放置しておいても問題ない! 全てを手に入れたいならば迂回して全てを刈り取るべし!」
武官と文官たち、壊れ気味の参謀総長も加わり喧々囂々とやりあっている。議案は、ローゼリア共和国とやらからもちかけられた相互不可侵条約の締結について。交渉の場はこちらに任せるとやたらと譲歩しているもの。送り主は共和国臨時外務大臣ニコレイナス。王国は6月6日に革命が勃発し、王政から共和制へと体制が変更されたと発表された。ミツバ・クローブとやらが国家代表の大統領職に就任し、権力を奪い取ったようである。当たり前だが、周辺国は誰もそんなことを認めていない。むしろ王党派を支援して、土地やら金を巻き上げる算段でいる。プルメニアもその方向で動こうとしていた矢先、ニコレイナスから書状が送られてきたというわけだ。その後の外交官同士のやりとりにニコレイナスが現れたというのだから、驚きではある。本気だと言うことを表したいということだろうが、ボルトスとしても受ける必要はないと考えている。革命とやらがこちらに波及されてはたまらない。その危険を摘み取る上でも、これを機に一気に土地を奪い取るべき。武官や文官たちも同じ考えだろう。会議の方向性も拒否を前提としたもので進んでいる。当然だが『刈取』計画は却下である。
だが、とボルトスはちらりと視線を中央に座する皇帝ルドルフへと送る。肝心の皇帝の考えが読めない。いつもなら不機嫌そうに怒鳴り声をあげ、大体の方向性を示唆してくるのだが。ニコレイナスが絡む案件になると、大体こうなる。戦場で何度か殺されかけたことが心的外傷になり、怯えを外に出さないように表情を殺し、無口になる。考えは読めないが、感情は読める。今皇帝が抱いているのは、とてつもない恐怖。だが、いずれにせよ結論は出さなければならない。
「陛下。よろしければ、陛下のお考えについてもお聞かせいただきたいのです。我々は拒否を前提に話を進めておりますが、それで問題はないでしょうか」
「…………」
「陛下。是非、お言葉を」
ボルトスが再度促すと、大きく息を吐いた後、ルドルフは重い口を開いた。顔はこわばっており、目はいつの間にか血走っていた。
「…………殺せ」
「は?」
「向こうには条件について交渉したいと伝え、連中をドリエンテに誘き寄せ、殺せ。交渉の場で、余の眼前で、ニコレイナスと簒奪者を殺すのだ。いや、余の手で行わねばならぬ。それで、全てが解決する。余は、ようやく、心安らかに眠ることができる」
「……それでは、強硬策を取ると仰るのですな。幾らか外交的評判は落ちる可能性がありますが」
「全く構わぬ。所詮は仇敵のローゼリア人、しかも、簒奪者どもを始末したところで何も変わらん。余、直々に手を下すのだ。むしろ評判が高まる可能性もあろう」
「承知いたしました。しかし、陛下の眼前で、しかも直接手に掛けるとの仰せですが……」
「ボルトス、悪いがこれは譲れぬ。今まで、散々な目に遭わせてもらった礼をせねばならん。直々に始末しなければ、何の意味もない」
面倒なことを言うとボルトスは内心思う。殺すなら客間あたりで毒殺、あるいは刺客を使って始末したほうが手っ取り早い。散々恐れていた相手を直接始末したいという気持ちは分かるが、ルドルフの手でとなれば警備態勢も万全を期さねばならない。面倒だし手間が段違いだ。だが、こう断言した以上ルドルフが考えを翻すことはない。それを上手く着地させるのがボルトスの役目である。
「陛下のお覚悟、強く理解いたしましたぞ。段取りは私めに全てお任せを。……皆、陛下のお言葉をしかと聞いたな。交渉の場はこちらに任せるとある以上、ドリエンテへの誘いを断ってくることはあるまい。簒奪者共を始末した後は、一気にローゼリア王都ベルに雪崩れ込む。今更不可侵条約など到底ありえぬ。他国に切り取られる前に、できる限り版図を伸ばす! そして次の敵に備えるのだ!」
「はっ!」
ボルトスが号令すると、武官、文官一同が起立し敬礼し、戦勝を誓う声を張り上げる。参謀総長マグヌスは何か呻いて座ったままだ。そしてルドルフの表情は相変わらずだ。言葉は勇ましかったが、恐怖を隠しきれていない。ボルトスだけではなく、皆それには気付いているだろう。だからこそ、戦意をあげるためにそれぞれが声を張り上げている。そして、ボルトスも一抹の不安がぬぐえないでいる。なぜ、連中はこんな話を持ち掛けてきた。交渉の場はこちらに一任。殺される危険性があることぐらい考えて当然だ。なにしろ先日まで殺し合いをしていたのだ。そして、その送り主はあの鬼才ニコレイナスと、共和クラブ、王党派有力者を出し抜いて権力を奪い取った無名の人物ミツバとやら。ただの考えなしに、本当に王冠は奪えるのか。こちらの考えくらい読んでいるだろう。逃げ帰れる算段でもあるのか。それとも死ぬことが目的なのか? だとするとそれは何故。人間の思考を読むというのは難しい。誰もが合理的に動いてくれれば何の苦労もないのだが。皆が会議室から去り、秘書官に声をかけられても、ボルトスはひたすら思考を巡らせるのだった。
◆
プルメニア帝国、ドリエンテ副庁舎。旧西ドリエンテ市庁舎でもあるこの場で、プルメニア帝国皇帝ルドルフと、ローゼリア共和国初代大統領ミツバによる極秘会談が行われる。皇帝自ら乗り込むということで、警備は極めて厳重であり、全ての通行人が一旦とどめ置かれるほどの態勢だ。ルドルフはそこまでの指示はしていないのだが、心配性のボルトスが綿密な計画を練り上げて、簒奪者共を完全な状態で待ち受ける態勢を短期で整えた。
「陛下。知らせによりますと、間もなく到着するそうです。相手は10人程度の護衛しか連れておりません。また、密偵の類の心配もございません。警備は万全です」
「ご苦労だったな、ボルトス。宰相も同席するのか?」
「もちろんです。我が国を手こずらせた鬼才ニコレイナスの最期を見届け、ダイアン技師長に伝えねばなりますまい。簒奪者の始末はそのついでですな」
「……そうか。余の銃の用意は」
「ご指示いただいたものを用意してございます。こちらを」
ボルトスから古くて重みのある短銃を受け取る。造りは良いが、重くて使い勝手は悪い。かつて、ルドルフを死の一歩手前まで追い込んだ会戦。その時に所持していた今では旧式の短銃だ。恐怖と屈辱の象徴として、今でも手元に置いてある。捨てようとしても捨てられなかった。見る度にニコレイナスの新兵器の恐怖が過るが、命があるのも確か。それがこの銃のおかげかもしれないという、下らない考えを捨てきれなかった。その旧式短銃で、恐怖を生み出すニコレイナスを射殺する。その時こそ、ルドルフは真の安寧を得ることができる。本気でそう信じているのだ。
「余が左手を上げたら、連中を拘束せよ。それまでは手出しはするな。通常の外交儀礼で構わん」
「承知いたしました。……話次第では、御手が上がらぬ場合もありますかな?」
「天地がひっくり返るほどの確率だ。王を守るべき七杖貴族の出身でありながら、革命を起こし、王の地位を簒奪した誇りを知らぬ者。そのような者と条約を結んで何の得がある? 余が望むのは、心からの安息のみ。それをくれるのは、ニコレイナスの命だけだ」
ルドルフはそう告げ、会談の場へと案内させる。ボルトスはもう何も言わなかった。重々しい雰囲気が場を覆っている。なぜか分からないが、息苦しい気がする。喉が渇く。従者から水を受け取り、飲み干すが、乾きが収まらない。心技優れる近衛兵たちもどこか様子がおかしい。いつも豪胆な彼らが、脂汗を流しながら緊張しているのだ。
「ロ、ローゼリア共和国、ミツバ・クローブ様、ニコレイナス・メガロマ様、まもなくこちらへいらっしゃいます」
「……いよいよですな」
「ああ。実に待ち遠しいことだ。しかし、些か見苦しいな」
「どうにも緊張しているようで。後ほど再教育を命じておきましょう」
震えを隠せない従者の案内で、ローゼリア共和国一行が会談の場へと通される。先に現れたのは、白衣を着た眼鏡をかけた見目麗しい女性。こちらはニコレイナスか。そして、その後ろから現れたのは。
「…………は?」
整えられた儀礼服を纏った小柄な胴体、王冠を戴いた銀の長髪までは確認できる。だが、この顔はなんだ。まともに凝視できない。凝視したくもない。そうだ、あれに似ている。我が子が描いた下手な肖像画。失敗をごまかそうと、黒筆で顔をぐちゃぐちゃと不規則に塗りたくったアレ。それが、胴体の上に載っているのだ。なんとも悍ましい。
「へ、陛下? ご気分が優れないのですか?」
隣のボルトスが小声で耳元に語り掛けてくるが、何も反応できない。冠つきは流れるような動作で、ルドルフの対面へと腰掛ける。凝視することを強制させられる。震える右手が勝手に、腰に忍ばせていた短銃へと伸びていく。そして、震えを抑え込むように握ろうとした。
「――ッ」
「おや。おやおや。おやおやおや。親愛なるルドルフ陛下。物騒なものを落とされたようですが」
「あははは。本当ですね。ほら、壊れちゃいましたよ。年季物で高そうなのにもったいない」
指先から、短銃が転がり落ちていく。短銃は真っ二つに割れていた。沈黙が室内に充満する。ニコニコと笑うニコレイナス。そして、目の前の冠付きも、同じ表情で、しゃがれた声をあげながらケタケタと嗤っていることだけは、ルドルフにも見ることができた。
「陛下、お気を確かに! 合図を出されますな? よろしいですな!」
「ま、待て。や、やめよ。無理だ。余には無理だ。不可能だ。無理だ。不可能だ。無理だ」
「陛下!」
ボルトスの一喝により、ルドルフの体の震えと繰り言がようやくとまる。そして。
「客人には悪いが、体調が優れぬ。こちらの非礼は百も承知だが、あとは宰相に一任させていただきたい。そちらの望みは叶うだろう。ボルトス、条件は上手く折り合いをつけよ。だが不可侵条約は必ず締結させよ。破談とすることは絶対に許さん。余はこれで退席する」
「へ、陛下」
淡々とそれを告げるとルドルフは素早く立ち上がり、颯爽と逃げた。前と同じように体面を気にすることなく全力で逃げた。何よりも大事なのは命だ。革命後にニコレイナスが日和ったかと思っていたが大きな間違いだった。恐怖の源を殺せると思った自分が馬鹿だった。かつての失敗を乗り越え、誇りを取り戻せると思ったのが全ての間違いだった。
あれが恐怖だ。あの冠付きこそが、ニコレイナスの新型なのだ。それが、ローゼリアの権力を握った。奪い取った。こちらが余計な手出しをして、あれが権力を握る手助けをしてしまった。ニコレイナスはそれを見せびらかしに来ただけだ。誘いに乗り、うっかり仕掛けようものなら、死ぬよりも恐ろしいことになる。矢面に立つなど冗談じゃない。ダイアン技師長でもあんな化物の模倣は不可能だ。だから逃げるのだ。目を背けるのだ。向こうが友好を望んできているのだからそれで良いのだ。訳の分からないもの、恐ろしいものは、見ない聞かない近寄らない、誰かに擦り付ける。それこそが最善だ。