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第五十話 悪魔の歌が聞こえる

 第7師団を率いるセルベール元帥は、野営地本営で荒れ狂う怒りを押し殺すのに苦労させられていた。なにがストラスパール講和条約だ。これでは敗北を認めたも同然ではないかと。何のために攻勢を掛けていたのかと。


「何故、陛下はこのような講和を認めたのだ。私には全く理解できん。西ドリエンテ割譲までは仕方なかろう。だが、賠償金、要塞破却、領事館設置は譲歩しすぎだッ! しかも陛下の謝罪つきとは、実利も面子も全て失っているではないか!!」

「閣下、もう決まったことです。今更騒ぎ立ててもどうにもなりませんよ。講和条約は締結されたのです」

「ここでは閣下などと呼ばなくて構わん!」

「親子のけじめはつけておくべきかと思ったのですが、余計な気遣いだったようで」

「慇懃無礼な態度は人を不快にさせるだけだぞ、マルコよ」

「それは申し訳ありませんでした。以後気を付けますよ」


 王都からの特使を殴ったことが伝わったらしく、今度は上院議員が送られてきた。セルベールの息子のマルコ・ブラックローズ・ランドルである。開戦を強く主張した王党派の一員でもある。七杖家の一つ、ブラックローズ家の当主セルベールは軍の重責を担い、マルコは議会で国のために働いている。


「貴様がいながら、なんと不甲斐ない。誰に押し切られたのだ!」

「ヒルード・イエローローズです。ギルモア卿が亡くなり、青の派閥がヒルードに取り込まれたのはご存知でしょう。今では、自らの名を冠したヒルード派なるものを形成しております。連中が数で強引に押し切りました。寛容派も戦争継続の無意味を訴え、講和に賛成を」

「……なんと愚かな。それで、こちらも派閥を連合させたのか。まさか、いずれは寛容派と合流などと言わんだろうな。ヒルードは自分の利しか考えていない屑だが、寛容派の連中はあまりに現実を直視できていない」

「それはありえません。ですが、人を集うための器は必要です。我々は『正道派』を結成し挽回を図っております」

「この情勢が見えていないのか? 派閥の名前で遊んでいる場合ではないだろう!」

「遊ぶなどとは心外です。王弟フェリクス殿下も、時が来れば我らに協力してくださるそうです。正しき道を歩む我らが土台となり、ローゼリアを支えるのですよ」


 セルベールは無言で深いため息を吐いた。派閥争いに相続争い、何かを言う気すら失せてきた。こちらの不快を察したマルコが、紅茶を淹れてくる。室内に、芳醇な香りが漂う。が、そんなもので気分が落ち着けば苦労はない。カップを投げつけないように我慢するので精一杯だ。


「父上は茶番とお笑いになるかもしれませんが、今の上院議会は正常な状態とは言えません。ヒルード派は金で数を抱えて好き放題、寛容派は市民の人気を取ろうと阿るばかりの役立たず。今こそ我らが正しき道を示さねばなりますまい。それが七杖家の良心、我がブラックローズ家の使命です」


 何が良心だとセルベールは心の中で吐き捨てる。そんなことを思っている人間は、身内を含めて誰もいない。当主の自分が言うのだから間違いない。


「議会が正常だろうが異常だろうがそんな事はどうでもよい。ヒルードの奴はなぜこんな講和条約を推し進めた。奴とて誇り高き七杖家イエローローズの当主。敗北宣言に等しい真似を行うなど、私には到底理解が及ばん」

「はは、父上は政治には疎いですからな。彼は今回の敗北を利用し、ルロイ国王、マリアンヌ王妃の更なる権威の失墜を目論んでいるのです。すでに王妃の出身を非難する喧伝活動が盛んに行われております。この機に寛容派を一気に叩き潰し、国政を完全に牛耳るつもりかと。多少の敗北など、そのためなら気にもしませんよ」

「多少の敗北だと!?」


 淡々と述べるマルコに、セルベールは声を張り上げる。これでは死んでいった兵士が報われない。彼らは貴族の玩具ではないのだ。同情的に見えてしまうのは、軍に長くいるからという自覚はあるが、それにしても酷いものがある。


「父上、そのように声を張り上げずとも、しっかり聞こえております」

「国を良くするために議論を交わすのならば何も問題はない! 志を遂げるには同志を募る必要もあるだろう! だがな、戦場で血を流しているのは我々だ。その我々を納得させられるだけの条件を持ってこい!! 戦争を吹っ掛けた挙句、派閥争いのためにこんな舐めた条約を結ぶとは何事かッ!!」

「貴族の手本となるべき父上まで、下級市民のようなことを言われますな。なに、すぐに取り返せば良いだけのことです。ローゼリアが弱兵でないことは、父上率いる第7師団の奮闘で示すことができました。また軍備を整え、時期を見て例の領事館は破却、西ドリエンテに再侵攻いたしましょう。ローゼリア人の住む土地です。大義名分などいくらでも用意できます」

「……………………」


 マルコのあまりにも甘い考えに、セルベールは絶句し思わず暗澹となる。多少はまともと思っていた息子でさえ、このような思考を抱いている。現実で行われている戦いが何も見えていない。議員になり派閥争いに明け暮れていると、目が濁り脳まで腐るのか。強引にでも攻勢を掛けたのは、条約を有利にもっていきたいという短期的な思惑があったからだ。第一、敵軍に輸送遅延、疫病蔓延という不運がなかったら、今頃はブルーローズ州で戦いが繰り広げられていた可能性すらある。馬鹿どもの目を覚ますにはその方が良かったのかもしれないが。


「それよりも父上。朗報と言うには些か不謹慎ですが、お知らせすべきことが」

「……なんだ」

「ブルーローズ家の次期当主、グリエル・ブルーローズ・クローブ大佐が戦死していたようです。先の条約締結後に、遺体が届けられました。身元は確認済です」

「行方が分からなくなっていたのは聞いていたが。……次期当主が戦死とはな。ブルーローズ家は不幸が続くな」


 グリエルはブルーローズ駐屯地から騎兵を連れて、ベリエ要塞の応援に入ったと聞いていた。あの貴族の手本とも言うべき男が、最後まで要塞を守って戦死などありえない。謹慎中のガンツェル同様に上手く逃げていたと思っていたが、まさか戦死しているとは。流れ弾にでも当たったか。


「私も立ち会いましたが、遺体の状況があまりに酷いものでして。雌狐――ミリアーネの絶望も凄まじいものでしたね。……ですが、青の派閥は弱体化するでしょう」

「それはどういうことだ。長男グリエルは軍人、次男のミゲルが議員だろう。裏で手を引くのがミリアーネならば、何も変わるまい」

「青薔薇の杖です。継承はやはり行われていなかったのです。葬儀に参列したマリアンヌ王妃が、暴露なされまして。つまり、現在の当主は――」


 マルコがニヤリと笑う。議員生活で身に着けたのだろうが、不快極まりない。セルベールが顎で先を促す。


「一体誰になるというのだ」

「ギルモア卿の執念が実ったというべきでしょうか。ミツバという名の、前夫人との娘です。後妻ミリアーネにより追放されていたそうですが、王妃殿下の指示により、ブルーローズ名誉姓が戻されました。当主就任が間もなく執り行われるそうです」

「……ミツバ。もしや、ミツバ・クローブか?」

「ええ。しかし、未だ齢12の小娘です。ミリアーネを頼りにしていた議員たちは、動揺を隠せません。我々正道派が切り崩しを行っております。おかげで上院議会の勢力図は拮抗状態に持ち込めそうですよ」


 得意気に語るマルコ。セルベールはその少女の名前に心当たりがあった。忘れようにも忘れられない、あの表情。あまりに異質で、おぞましい雰囲気を持つあの娘だ。だが、まさかブルーローズ家の末娘が、戦場の最前線に立っていたとは。


「……奇縁と言うべきか。私の師団に、一時的にだがその少女が所属していたのだ。今は帰還の途にあるだろうが」

「はは、それはまた奇妙な巡りあわせですね。実際、どのような人間なのですか? 噂では災厄を招く呪い人形、悪意をばら撒く毒人形などと、碌な風聞を聞きません。全てが真実とは思えませんが、不吉なものが多すぎる」

「そうだな。……一言で言えば、『関わり合いたくない』、だな。彼女は、死の臭いが強すぎる」


 セルベールは全てをひっくるめて、そう答えることにした。


「死の臭いとは、また曖昧なことを仰います。私に言わせれば、幸運の女神様ですがね」

「…………お前も前線に出れば、私の言っている意味が分かるだろうよ」

「はは、それは、遠慮しておきましょう。直接手を汚すのは苦手なもので。父上にお任せしますよ」


 マルコは鼻を鳴らして嘲った。分かっているのだろうか。国境沿いだけが前線になるとは限らないのだ。だが、セルベールはもう忠告する気が起きなかった。七杖家当主の身でありながら軍人として戦いに明けくれ、国の内情を全く顧みなかった己も大して変わらない。元帥の地位まで上り詰めた以上は、戦場で死ぬのが望みだったが、その贅沢な願いはどうやら叶いそうにはなかった。


 



 策謀を駆使する『雌狐』の名を欲しいままにしたミリアーネは、王都の別宅で魂が抜けたように茫然自失の状態となっていた。愛息グリエルの死は、強くミリアーネの精神を叩きのめした。続いて、青薔薇杖継承の暴露の一件。ミリアーネは当主代行の座を取り上げられ、ミツバにはブルーローズの名誉姓が戻された。ミツバが帰還次第、国王の手によってブルーローズ家当主就任の儀が執り行われる。既に大々的に発表されており、最早ミリアーネにどうこうすることはできない。


「……母上。お嘆きは分かりますが、いつまで閉じこもっているおつもりですか」

「…………」

「かなりの金がかかりましたが、土地、使用人、農奴、王都別宅等の所有権は押えてあります。ブルーローズ邸宅は手放しましたが、ミツバの自由になるものはそう多くありません。当然ですが、州知事は我らの指示にしか従いません。今は堪え、これからのことを考えるべきです」

「……あの呪い人形が、このままで済ませると思うの? 悪魔が本性を現し、私たちに牙を剥き始めたの。殺すしかない。殺される前に殺すしかないのよッ!」

「母上、落ち着いてください」

「嗚呼、どうして分からないのミゲル! さぁ、早く殺す段取りを考えなさい。ブルーローズ全州兵、いえ手ぬるいわ。宮殿の近衛兵や親衛隊を投入して八つ裂きにして殺しなさい! 大砲100門並べて撃ちこんで、欠片も残さずに粉砕しなさい!」


 ミリアーネは髪を搔き乱し、半狂乱になりながら、ミゲルに詰め寄る。ミゲルは困惑した様子で、それを引きはがす。使用人へ合図すると、ミリアーネは強引におさえつけられて、薬を飲み込まされる。――睡眠薬だ。


「母上はお疲れなのです。兄上のことは、私も悲しく思っております」

「ミ、ミゲル」

「――ですが、兄上は軍人でした。もしもの時の覚悟はしていたでしょう。私は、その意思を受け継いでこの国のためにさらに働くつもりです。いずれ、ミツバとは一度話し合ってみたいものです。同じ家に生まれた者同士、分かり合えるかもしれません」

「ば、馬鹿なことはやめなさいッ! あれに近づいては絶対に駄目よ。必ず呪い殺されるッ!」

「……もちろん、今はその時ではないと承知しております。それでは失礼いたします。また明日参ります」


 疲れた表情で退出するミゲル。使用人たちもそれに続いていく。部屋にはミリアーネだけが残された。

 混濁し始める意識の中で、ミリアーネはグリエルの死に顔を思い出す。あの毒々しい紫色。どうしたらここまで絶望できるのかという苦悶の表情、限界まで伸びきった舌。目、耳、鼻からは夥しい出血の痕跡。かきむしって傷だらけの喉下。全身の骨は粉々にされていた。この異様な死に様は、ただの戦死とは思えない。誰かの仕業なのだ。では誰だ。ベリエ要塞には、あの忌々しいミツバが派遣されていた。こちらに近づけないよう、戦場へと追放したはずだったのに、悪魔は軌道を変えてこちらに迫っていた。そして、グリエルはミツバに出遭ってしまったのだ。だから、死んだ。


「ひ、ひいいいいいっ」


 ミリアーネの全身に鳥肌が立ち激しい悪寒が走る。あんな死に様だけは嫌だ。もっと生きたい。もっと豪奢な生活をしたい。もっと権力を掴みたい。もっと多くの人間を操ってみたい。皆から大いに讃えられ、後世へとその偉業を伝えられたい。まだまだやりたいことは沢山ある。だから、あんな死に様は嫌だ。


「死ぬのは嫌よ。絶対に嫌よッ!!」


 脳裏に、ミツバが提案し、王魔研が採用したという処刑器具が浮かぶ。――『ギロチン』という名の断頭台。あれは間違いなく、ミリアーネのために用意されたものだ。ミツバは緑化教徒相手に試験したとき、恐ろしいまでの恐怖と苦痛を与えたという。何が人道的な処刑器具だ。お前をそこに掛けてやると脅しているに違いない。あの狂人ニコレイナスと手を携えてだ。悪魔と狂人の次の生贄は、ミリアーネなのだ。間違いない。


「こ、殺さなくちゃ。殺される前に殺さなければ!! わ、私はまだ死ねないのよ。絶対に死ねない。私はいずれ、この国の、影の支配者になるのよ!」


 誰にも話したことがない、胸に秘めていた野心が口から出てくる。視界がぐるぐると回転する。もう手段は選んでいられない。手駒の州兵だけではとても足りない。そうだ、緑化教徒を使おう。愚かなカビを扇動して、悪魔にぶつける。両方死ねば万々歳だ。死を恐れない緑化教徒ならば喜んでミツバを殺しに行くだろう。ミリアーネは金だけなら腐るほどある。緑化教会に多額の資金を援助する見返りに、ミツバを始末してもらう。これでいい。全てが完璧だ。その後でマリアンヌにも死んでもらおう。国王ルロイも邪魔だ。兄ヒルードもいらない。ミリアーネと愛するミゲルとでこの国を表裏から仕切れば良い。他の邪魔な奴は皆死ねば良い。


「…………ふふ、今度こそ死ね。今度こそ死ぬのよ、ミツバああああッ!!」


 涎を垂らし、『死ね死ね死ね』とうわ言をつぶやきながら、ミリアーネの意識は暗黒に染まっていった。どこかで、誰かの笑い声が聞こえた気がした。


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