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第二十六話 神の導きがあらんことを

 元仲間を壊滅させた後、タルクたちは一息ついてハルジオ村へと戻っていく。家の中からは、事態を見守っていた妻のハンナや幼い子供たちが現れる。他の家族も同様に出迎えてくる。


「貴方、お怪我はありませんか?」

「大丈夫さ。皆も無事だし、敵も全員始末した。大砲もこの通り奪ったよ」

「ああ、これも神のお導きでしょうね。貴方、本当におめでとう!」

「お父さん、おめでとう! 僕達、これで楽園にいけるんだよね?」

「ああ、そうだとも」


 ハンナと子供たちが笑みを浮かべる。数年前、逃走中の緑化教徒だったハンナを匿い、身分を偽らせてこの村に住まわせたのはタルクだ。『遠い縁戚の者が訪ねてきて困っている、なんとか働かせてもらえないだろうか』と、モラン大尉を通じて願い出た。搾取できる労働力が増えることに、ハルジオは否とは言わないことは分かっていた。当然農奴という立場だが、ぎりぎりで生きてはいける。最初はただ哀れだという同情心からだった。交流を重ねていくうちに、その教えに感銘を受け緑化教徒にタルクはなった。どんなに懸命に国のために働いても、傲慢な貴族が贅を尽くす一方、貧しい人々の生活は全く救われない。そんな人々を時には取り締まる事に、タルクは激しい違和感を覚えていたからだ。緑の教えはすぐに村人に広まった。ハンナを通して、『神の慈悲』が支給されたことで村人たちは苦痛から逃れることができたのだ。密告などする者はだれ一人としていなかった。王家や貴族連中は麻薬などと呼んで市民や農奴が使用するのを禁じている。神への冒涜などと呼んでいるが、苦痛や絶望から救われている間、労働力が低下することが気に入らないだけだ。しかも教徒から取り上げた『神の慈悲』を隠れて使用している有様。ただの快楽目的のために。決して許されることではない。


「だが、傲慢になってはいけない。謙虚にそして誠実に、緑の神に祈りを捧げることが大事なんだ。そうだろう、ハンナ」

「ええ、貴方。神は常に私たちを見守っていらっしゃるもの」


 ハンナを抱きしめる。この村に匿ってしばらくの後、ハンナとは自然に結ばれ子供を儲ける事になった。タルクは普段はリトルベルの駐在所で過ごし、時折ハルジオ村へは定期巡回と称して訪れている。村人たちは自分たちも苦しいというのに、親身に世話をしてくれた。当然、モランも含めて同僚連中で知る者などいない。ちなみに、町の食堂にも緑化教徒が潜り込んでおり、本部への連絡役となっている。食材のやりとりを通じて、『神の慈悲』や司祭からの通達を村に渡しているのだ。


「やったぞ! 俺たちで軍人を殺してやったんだ!!」

「あはは! これも神のお導きだよアンタ!」


 村人たちからも歓声があがる。緑化教徒は、緑の神のために働いて徳を積み重ねれば、死後に楽園での幸福な暮らしが保証されている。そのためには司祭から免罪符をもらわなければならない。死後であろうとも問題ない。司祭から授与されれば、彷徨う魂も楽園へと導かれるのだ。それを手に入れるために、緑化教徒たちは陰でさまざまな活動に従事している。神の下僕を騙る不届きな連中や、不当に人々から搾取する連中に対抗する手段を得るためである。


「ほ、本当に長かった。苦しかった」

「俺たちにだって、できるんだ!」


 ――我々は神の下で平等なのだ。誰にも支配されず、誰にも搾取されず、誰にも虐げられない。ただ緑の神への信仰を忘れず、日々をあるがままに過ごせば良い。徳は自然に積み重なり、死後に司祭から免罪符という赦しが与えられ楽園へと導かれるのである。これが緑化教の基本的な教えである。だが、これを弾圧する連中に対しては抵抗し、神への信仰を示さねばならない。見過ごすことは神に対する冒涜だ。徹底して立ち向かわなければならない。貢献の方法は様々である。金、食糧、土地、武器などを教会に提供する。布教活動を行い、教徒を増やす。『神の慈悲』を栽培し、苦しむ教徒達に配布する。敢えて異教徒や冒涜者の懐に忍び込み、情報を入手する。或いは、自らの命を以て神への信仰を示すなどだ。

 不当な弾圧に打ち勝つために、緑化教徒は懸命に働いている。


「そうだ、大砲は大丈夫そうかい?」

「ああ、問題はなさそうだ。多少弾は当たったけど、壊れてはいないと思う」

「それは良かった。司祭も喜ぶだろう」

「なぁタルクさん。俺たちでもこれ使えるかな? 一発ぐらいあの糞野郎の家にぶちこんでやりたいんだが」

「気持ちは分かるけど、砲弾の無駄使いはやめておこう。緑の教会に送れば私たちの勤めはひとまず終わるよ。後はハルジオの屋敷から物資を回収して、盛大に燃やせばいいさ」


 タルクは大砲の使い方を一応知っているが、人に教えられるほどではない。歩兵科だったため、実際に撃ったことは数える程度、実戦では一度も使ったことがない。長銃に関しては習熟しているため、ここの村人たちに技術を教え込んだ。大事なのは、狙いをつけることよりも数を揃えて撃ちこむことである。


「まぁ燃やすなら同じことか。よし、分かった。それじゃあ早速司祭様に連絡をつけるか。これからどうするにせよ、早く連絡しないとな」

「後で駐在所にも手紙を届けてくれるかな。『問題は無事解決しましたが、ハルジオ伯爵から歓待を受けており中々帰れそうにありません』と書く。それで数日は誤魔化せる。貴重な時間を稼げるはずだ」

「冴えてるな、タルクさん。分かった、それも俺が届けよう」


 明日にはこの場所を引き払い、他の土地の仲間と合流しなければならない。もしくはここを橋頭堡に勢力圏を広げるのか。それすらも今は分からない。ただ司祭の指示に従うのみだ。困難が待ち受けるのは確かだろう。何しろ、今回の件は急だったため、何の段取りも出来ていない。ただ、何かあったときの合図を決めておいたから、すんなりと対処はできた。最初に伯爵が駆け込んできた後、リトルベルに潜んでいる緑化教徒をこの村に走らせ、銃撃準備をさせておく。その後は、タルクの合図で始末するという寸法だ。やむを得なかったとはいえ、これでタルクの軍歴は終わりになってしまった。もう治安維持局からの情報を緑化教徒に流すことはできなくなる。本当は穏健にすませたかったのだが、ここの村人には信心深い者が多い。緑化教徒であることを否定することは、神への冒涜に当たると考える者が少なからずいる。そうすれば、自らの手で処刑しなければならなくなる。タルクの軍歴、隊員の命と、志を共にする同胞とを天秤にかければ答えはすぐに出た。王国や軍などに未練などない。巻き込んでしまった隊員たちは可哀相だと思うが、仕方がない。彼らは緑化教徒ではないのだから。


「こいつらの死体はどうするんだ?」

「全部燃やして始末しようぜ。異教徒どもにとって、死体を燃やされることは許されざることらしいからな。折角だし、報復してやろうじゃないか」


 村人たちが、死亡した隊員たちを足蹴にしながら中に運び込んでくる。どれも銃弾で血だらけだ。全員死亡しているのは確実だった。緑化教徒は死亡後の扱い方に決まりはない。ただ、神への信仰があれば良い。だが、異教徒――大輪教徒は違う。母なる大地に還り、次の転生を待つんだそうだ。時を経て身体が崩れされば、次への転生が許されたということなんだとか。馬鹿馬鹿しく、実に愚かな話である。死体はやがて腐り、虫の餌になって終わりである。燃やして灰にするのと何が違うのか。その魂は決して救われないというのに。


「よし、油を持ってこい!」

「皆、少し待ってくれ。その子供にだけは慈悲をあげないか?」

「子供? ……ああ、こいつか」


 村人がミツバの死体を乱暴に引っくり返す。完全に絶命しているため身動きしない。しかし、死んでいるのにとても綺麗な顔だと思った。目は見開かれたまま、生きているときと表情が変わっていない。視線はただ空を見つめている。頭部と腹部に数発の銃弾を受けた痕がある。苦痛を感じずに即死できたのかもしれない。それだけが救いである。彼女に恨みはなかったが、仕方がなかった。


「異教徒とはいえ、子供には救われる機会があっても良いと思う。正しい神の教えがあることを、彼女は知る機会がなかったんだ。それは、とても哀れなことだと思うんだ」

「まぁ確かに同情するぜ。こんな歳で軍隊に放り込まれるなんてひどすぎる。まったく、本当にクソッタレな国だぜ。早く滅びればいいんだ。国王も貴族も全員死にやがれ!」


 『神の慈悲』が練りこまれた煙草を吸っている村人。これを摂取すればたちまち気分が高揚し、恐怖が一切なくなる。開放感に満たされ、痛みすらも消してくれる。故にこれは神の慈悲。この男は従軍した際に負った負傷の後遺症で苦しんでいたのだが、慈悲に触れてからは幸せな日々を過ごしている。国は禁忌の植物としているが、神に縋って何が悪いというのか。ならば代わりに救って見せろというのだ。それもできないで、神から権利を授けられたなどとのたまい、国を治めているとは笑わせる。


「しかしよう、どうするんだ? 今更免罪符を貰うことはできないだろう。こいつはなんの徳も積んでねぇ」

「……このまま埋めてあげよう。もしかしたら、長い年月の果てに神が慈悲を与えてくれるかもしれない」


 彼女の視線がこちらを見ているような気がした。後ろめたい思いが湧き出てくる。タルクはその青い澄んだ目を、片手で閉じさせる。


「そんなことしたって、腐って終わりだ。大輪の教えなんて全部嘘っぱちだ。面倒だから燃やしちまったほうがいい」

「分かってる。だけど、あまりに忍びない。どうかあの場所に埋めてあげてほしい」

「しかしよう……」

「無理にとは言わない。だが、頼む」

「あー、分かった、分かったよ。アンタが言うんじゃ仕方ない。じゃあ、こいつだけ特別に埋めてやるさ。他のは燃やして灰にしちまおうぜ」


 ミツバが背負っていた弾薬鞄を取り、村人に渡す。器具は村人が拾い上げ、既に回収を終えている。これが一式あればいつでも発射できる。司祭も喜んでくれるだろう。

 他の村人は穴を掘って隊員の死体を乱雑に放り込み、その上に油を撒いて焼却準備に入った。タルクはミツバの死体を担ぐ。思ったよりも軽かった。そして、ハンナとともに村の外れにある墓地へやってくる。ここには、緑の教えを知る前に死亡した村人の死体が眠っている。村人たちは彼らの魂が救われるように、神が慈悲を与えますようにと毎日祈っていたのだ。その一番片隅に、タルクは穴を掘る。墓石は必要ないだろう。彼女の為に祈る者は、誰もいない。


「こんな幼い子が、救われずに一人彷徨わなければならないなんて。この世はなんと救われないのでしょう」

「神の意思に逆らい、国などという概念で人々を縛り付ける連中が悪いのさ。でも、少しずつ世の中は変わっているよ。緑化教徒は勢いを増している。人々の不満を押さえつけるのも限界に近い。近いうちに必ず爆発する」

「私たちも今まで以上に教えを広めねばなりませんね、貴方」

「そうだね、ハンナ。いずれ、この世界に国なんてものはなくなるんだ。そうすれば王、貴族、市民の区別もなくなる。ただ、一人の人間として自由に生きていける。そう、緑の神は全てをお救いになる。この世は誰もが救われる楽園になるんだ」


 墓穴を掘り終えたタルクは、ミツバの死体をそこへ優しく入れる。ハンナと一緒に土を掛け、埋葬する。そして、最後にミツバが所持していた長銃を墓標代わりに突き立てた。


「これは彼女の罪の証であり、救いの道標でもある。全ての銃が用済みとなり朽ち果てる頃、緑の神によって大いなる慈悲がもたらされますように」

「緑の神の、お導きがあらんことを」


 最初で最後の祈りを捧げる。そして、ハンナと共にみなの元へと戻る。これから忙しくなる。やることは多いが、タルクの顔には満ち足りたものがあった。軍服などという拘束具を脱ぎ捨てられる開放感、家族と常に一緒にいられるという幸福感からだった。


 



「き、貴様ら!! 貴族たるこの私をこんな臭い場所に閉じ込めるとは! 後でどうなるか分かっているのか!」

「腐れ農奴ども、さっさと私をここから出せ! 本当に殺されたいのか!!」

「もう本当に臭いっ! 鼻が曲がりそうだわっ!! 誰か、なんとかして頂戴!」


 ハルジオ一家を拘束している豚小屋をタルクは訪れた。木箱に腰掛けていた見張りの男が笑みを浮かべる。


「お、タルクさん。こんなところに何か御用ですかい?」

「ああ。後は私が見ていよう。君は寝るといい」

「へへ、そいつは助かりますよ、こいつらピーピーうるさくて仕方がねぇ。じゃあ、神の慈悲に触れてから寝るとします。それじゃ、お先に」


 見張りの男はふらふらしながら立ち去って行った。木箱に腰掛け、ハルジオ一家を観察するタルク。こちらを見たハルジオ伯爵は目を剥いて怒り出す。


「お前、タルク少尉か! 何をそこで突っ立っているのだ!! 早くここから助け出さんか!! その後でカビどもを皆殺しにしろ!」

「はは、お断りしますよハルジオ伯爵閣下。貴方たちにはその場所が相応しいと思いますが」

「貴様、誰に向かってそんな口を利いているんだ!! 本部に報告して処分をくだして――」

「どうぞご自由に。まぁ、貴方にそんな機会は二度と来ないと思いますが」


 タルクは薄く笑う。騒いでいたハルジオ一家の勢いが徐々に落ちていく。事態を飲み込み始めたのかもしれない。


「お、おい。まさか、き、貴様も、緑化教徒なのか? 嘘だろう」

「ええ、私は緑化教徒ですよ。この村に入れて頂いた農奴がいたでしょう。彼女は私の妻なんです。彼女から教えを受けましてね」


 それを聞いたタルクが口を開けて唖然とする。そして、顔を青ざめさせる。


「つ、妻だと。ま、待て。まさか、村の農奴全てが、緑化教徒なのか?」

「ええ、その通りです。貴方が虐げすぎたせいで、皆すんなりと教えを受け入れてくれました。いやはや、貴方の馬鹿息子が騒いだと聞いたときは、心臓が止まるかと思いましたよ。どうせ、全部嘘だったんでしょうがね。そうでしょう、アルストロ上院議員さん」


 タルクがハルジオの息子アルストロに笑いかけると、バツが悪そうな表情を浮かべる。元はただの虚言だったのだ。緑化教徒が王都を騒がせていると聞きつけたこの息子は、ちょっと父親をからかってやろうと考え付いた。村人を虐める理由がほしかったのかもしれない。緑化教徒が隠れていると報告すれば、必ず騒ぎになる。だが、そのせいでタルクは決断し、村人は反乱を決意した。燃料は元々ばら撒かれていたが、最後に着火したのはこの息子だ。


「そ、そうなのかアルストロ?」

「え、ええ。生意気な農奴を甚振るついでの冗談です。最近、やけに反抗的だったので。一人か二人、適当に懲らしめれば態度が改まるだろうと思って。し、しかし、こ、こいつらが全員緑化教徒だったなんて、私は知らなかったんですよ!」


 アルストロが怯えた表情を見せる。この愚にもつかない男が、既に成人しており、しかも国政を担うはずの上院議員だというのだから実に救えない。この国は中枢から腐りきっている。


「虚言とはいえ、結果的には真実だったという訳です。で、そのまま放っておけなくなったので、こういう事態になりました」

「……なんということだ。だ、だが、事実とすればむしろ大手柄だ! カビどもの巣を暴いたのだからな! すぐにモラン大尉がやってきてくれる!」

「そのご心配には及びません。大尉には偽の報告を送ったので、数日の間は騒がれないでしょう。役目を終えた私たちは、貴方に歓待されていることになっていますので」

「ふ、ふざけるな、薄汚いカビどもめが! 今すぐ地獄に落ちろ!!」

「私たちをカビと呼ぶのですか。ですが、私から言わせれば、貴方達貴族の方がよっぽど薄汚く腐れたカビですよ。弱者から限界を超えて搾取し、理由もなく痛めつけ、暴言を吐いては不快にさせる。もはや存在が冒涜に等しいのです。今すぐ、この世界から消えてほしいですね」

「な、な、な」


 ワナワナと震えるハルジオ伯爵。息子のアルストロと夫人は途方に暮れて泣き崩れている。


「このまますぐに処刑しようと思ったのですが、貴方たちは教会本部に引き渡す事にします。身代金を取る材料にするのか、生贄に捧げるのか。いずれにせよ、死ぬのは確定なのでご安心を」

「ま、待ってくれ。た、助けてくれるなら金はいくらでも――」

「金なんて要りません。私たちが欲しいのは救いですからね。それとも、貴方がくれるとでも言うんですか?」

「た、待遇改善を約束しよう。農奴たちには、少し厳しすぎたと反省している。か、金だけじゃなく自由もやる! だ、だから」

「わ、私も議会に提案する! だから殺すのは待ってくれ!」


 今更泣き言を繰り返すハルジオとアルストロ。実に空虚な言葉であり、心には全く響かない。全てが嘘偽りに満ちている。


「全く信じられませんね。それに、今更少しばかりの待遇改善なんてされても困りますよ。どれだけ搾取してきたと思っているんですか。私たちは皆で楽園に行くのです。今までのことは徳を積むための試練と思う事にします」

「お、おい。少尉、待ってくれ。頼む、話を」

「そうそう、あとで村の者がお礼をしたいそうです。是非親身になって聞いてあげてくださいね。多分、死ぬことはないと思いますよ?」


 あははと乾いた笑いを浮かべてから、タルクはこれからのことに思いを馳せた。耳障りなはずの悲鳴が何故か心地よい。これだけ徳を積んだのだから、免罪符をもらえることはほぼ確定している。後は、ただ神のために祈り、働き、楽園での暮らしを待てば良い。自分達は必ず救われるのである。





「親父よお。俺は親不孝もんだ。結局親父に教えを信じさせる事ができなかった。なんであんなに頑固だったんだ。信じてさえくれてれば、親父にも免罪符をあげれたのによぉ」


 夜中。一人の男が、村はずれの墓地の前で麻薬を吸っていた。祝い事の日以外は飲むこともない酒も用意している。後数日でこの救いのない村を出て行かなければならない。だから、最後の別れのつもりだった。


「へへ、ハルジオの糞野郎、豚小屋でみじめに泣き喚いてるんだぜ。親父が散々甚振られたあの糞野郎だ。後で徹底的にぶん殴ってやるぜ。親父は死ぬまで国王を信じてたが、奴は何もしてくれなかった。だが俺たちは神のお蔭で立ち向かう勇気を持てた。そして救いを得たんだ。どっちが正しかったか、今なら分かるだろ? なぁ」


 そう言って、男は苔むした墓石に酒をかける。救いがありますようにと祈りを込めながら。だが、きっと救いはもたらされないだろうと思う。父は頑固であり、緑化教をただの世迷いごとと断じていたからだ。最後まで頑固な男だった。頑固で頑固で誰よりも家族を愛していた。だから苦しんで絶望して死んだ。そのことをとても哀れに思う。


「俺は楽園で幸せになる。親父やお袋の分までな。そして、もし緑の神様に会えたら、親父の分も頼んでおいてやるよ。救ってやってくださいってな。それで親不孝のことは勘弁してくれよ」


 高揚感が身体を包んでいく。神の慈悲が脳を包んでいく感覚だ。愉快に世界がふらついてくる。


「……うん?」


 何か物音が聞こえたような。虫の音ではない。ザクザクという、なんだか乾いた音。夜中なので音が良く通る。男は周囲を見渡した後、一点を見つめる。長銃が突き立てられた場所である。


「……ああ。タルクさんが埋めてやった子供の墓か。なんだ、お前も飲みたいってのか? へへ、子供のくせに生意気な奴め」


 笑い声を上げながら、そこに近づいていく。気分が良い。異教徒ではあるが、今日ぐらいは慈悲を与えてやってもいいだろう。自分は神の尖兵なのだ。救われるべき偉大な存在なのだ。


「へへ。子供にはちと早いが、大陸一の名酒だぜ。なぜなら俺様が飲んでいるからだ。わはははは!」


 片膝をついて、長銃にちびちびと酒を垂らしていく。子供にはこれで十分だろう。と、長銃が倒れてしまった。お代わりの催促かもしれない。だが、そこまでは寛容になれない。


「へっ。ガキにそこまではやれねぇなあ。さっさと虫に喰われて、魂だけで反省して――」


 そういい掛けて男は目を剥く。埋め立てた地面から、いきなり手が生えてきた。小さく、そして異様に白い手が。獲物を求めるように揺れた後、土が物凄い勢いで盛り上がっていく。


「…………え? え?」


 あの子供だ。地中から、子供の上半身が這い出てきた。タルクが埋めたはずの死体が、勝手に。その土塗れの死体は、歯を見せて嗤うと、こちらを見つめてくる。青が特徴的だった瞳が黒く虚ろに染まっている。更に地中から這い出ようと、死体は身体を揺り動かしている。その動きは人形のように不規則で、実に恐ろしい。これは、人間ではない。


「う、嘘だろ。た、ただの、ただの幻だろ!? なんなんだよこれはッッ!」


 神の慈悲に触れると、気分の良い幻に包まれる。楽園生活を仮想体験できるのだ。それと同じ作用が働いていると男は信じたかった。だが、必死に頭を振り、目を擦っても目の前の光景は変わらない。むしろ、少女はあと少しで土から這い上がる寸前だ。


「あ、あああああああッ!! く、くるなくるなくるなッ!!」


 恐怖に駆られた男は、腰を抜かしながらその場から逃れようとする。だが足が凍りついたかのように動かない。だから両手だけで、必死に逃げる。すぐに助けを呼ばなくては。タルクだ。あいつなら大砲が使える。大砲でこいつを粉砕しよう。やっぱり異教徒は燃やさなきゃ駄目だったんだ。だって神の敵なんだから。神の敵はすなわち悪魔である。だからこいつは悪魔なんだ。悪魔なんか埋葬するからこうなる!


「ひっ」


 ――足首にヒンヤリとした感触。何かが、自分の右足を掴んでいる。ひいっと叫びながら、必死に振りほどこうとするが、離れてくれない。見てはいけない。それは分かっている。だが我慢できない。嫌な予感がしつつも、つい、後方を見てしまう。


「ひいいいいいいいいいいいいいいいいッッ!!」


 完全に黒く変色し濁った目が、こちらを見つめていた。口からは黒ずんだ液体が垂れている。と、自分の右足にぞわぞわした感触が走る。それは下半身から腰へと範囲を広げている。何か分からないが、何かが自分の身体を浸食している。これは毒だ。ぞわぞわぞわ。魂が掻き毟られている。


「な、なん、なんだこで。お、おでの身体が、く、くさっで」


 腐っていく。生命力が吸われているのか、それとも死体が毒素をもぐりこませているのか。分からない。だが、右足はもう原型を留めていない。徐々に下半身の感覚もなくなっていく。やがて、それは上半身へと。


「が、がみざま。だ、だずげて。おじひを。おでにおじぃひををををっ!」


 救いを必死に求める男。もう顔を動かす事ができない。もがきながら、ひっくり返る。そして、空に手を伸ばす。神の慈悲がありますようにと。その哀れな手を、両手で優しく掴んでくれたのは。


「月が、綺麗ですね。良い夢、見れましたか?」


 ニヤリと嗤う少女の両手だった。腐食が両手からも急速に広がっていく。


「――ッッ!? ウアアアアアッ!!」


 こんなはずじゃなかったと、声にならない叫びを上げ、男は紫色の泡を吐きながら最大級の苦悶を味わって死んだ。その死に顔には、救いの手など一片のカケラすら残っていなかった。少女はそれを暫く眺めた後、土まみれの長銃を拾い上げる。そして、腐食しきった男の頭部を踏み潰すと、明かりの灯る家々に向かいゆっくりと歩き始めた。

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