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私の人生にあなたは必要ありません

 いつもは勤務時間が終わっても、そのまま仕事をするか勉強会に参加しているのだが、今日は勝手に退職願を出された件について、父さんと話し合わなければならない。


 さすがに、職場で父さんに勝手をされてしまうのは困る。ちゃんと辞めるから、もう手を出して欲しくない。

 辞めるなら辞めるで、きちんと最後まで勤めたい。

 だって、私が唯一誇れるものだから……。


「よう、嬢ちゃん。帰りの馬車が同じなんて珍しいな」

 馬車乗り場で馬車を待っている私に、バルドさんがニカリと笑って声をかけてきた。


「ん?顔色が悪いか?」

「いえ、大丈夫です」

 真っ直ぐに見つめるその瞳から、私は視線を逸らした。

 青空のような青い瞳が、今はどうしても辛くて見られなかった。


「よし。ちょっとこっちに付き合え」

「え?」

 私は急にバルドさんに手を取られ、王城の裏庭のベンチに座らされた。


「えっと、バルドさん?」

「ほら、口開けろ」

「は?」

 その開いた口に、ポンと何かを放られた。


「ん?」

 私は驚いて口を手で押さえた。

 甘い。私は口の中でその欠片をコロコロと転がした。


「飴?」

「正解。俺の新作、べっこう飴だ」

 私はその甘さに、ホッと力が抜けた。

 バルドさんが、心配そうに私の顔を覗き込んだ。

「大丈夫か?」


 大丈夫?そんなの大丈夫に決まっている。

 だって、私はあんなに綺麗なヘンリーと結婚するのだから。

「もちろん、大丈夫です」

 バルドさんは、ムーッと口を尖らせた。


「じゃあ、質問だ。嬢ちゃんの好きな食べ物は?」

「何ですか?それ。ナッツです。知っているでしょう?」

 なぜ急に、そんな質問をされるのか首を傾げた。


「じゃあ、嫌いな食べ物は?」

「う〜ん、あまり嫌いな物はないのですが、強いて言えばピーマンでしょうか」

「へえ、俺もあんまり好きではないかな。あれ苦いよな」

「そうなんです。食べられなくはないんですけど苦手です」

 本当に何でこんな質問?

 でも、少し気持ちが和らいでいるのを感じた。


「じゃあ、好きなことは?」

「お仕事です!」

 私は即答した。食い気味に答えたから、バルドさんはクックッと笑った。


「うん。じゃあ、嫌いなものは?」

 嫌いなものは……私だ。

 私は、私が大嫌いだ。

 あと、ヘンリーの顔も浮かんだ。ある意味お似合いかもしれない。

 フッと自嘲した。

 でも、さすがにそれは言えなかった。


「それは言えません」

「そっか」

 バルドさんは、特に突っ込んでは聞いてこなかった。


「じゃあ、尊敬する人は?」

「父です。信念をもって小さかった商会をここまで大きくしてすごいと思います」

 私は父が苦手だ。でも、父のことは好きだし尊敬している。

「なるほど。嬢ちゃんと似ているな」

 私と父さんが似ている?


「顔はよく似ていると言われますが、見たことありましたか?」

「まさか。中身の話だ。嬢ちゃんも信念をもってメイドの仕事をがんばっているだろ?」

「そうですね。一生懸命に勤めてきたと思います」


 とてもやり甲斐があったし、好きな仕事だった。

 ここでは、がんばればちゃんと認めてもらえた。

 でも、これで終わりだ。

 ポツリと何かが落ちた。


「でも、辞めるんです。私は結婚しなくてはならないから……」

 それは涙だった。

 びっくりして、私は涙の跡を拭った。


 なんで涙が?

 ああ、そうか。おじさんと話しているうちに、張り詰めていた気持ちがフッと緩んだのだ。

 堰を切ったように溢れ出る涙を、私は慌てて手で隠したが、漏れ始めた嗚咽は隠せなかった。


「そうか」

 バルドさんは、もう何も言わなかった。

 ただ、そばにいてくれた。




「すみません。もう大丈夫です」

 泣いたらすっきりした。

 ギュッと凝り固まった何かが、流れたような気がした。


「嬢ちゃん、ちゃんと自分で選んだ道はがんばれるから大丈夫だ。嬢ちゃんは大丈夫」

 バルドさんが、ポンポンと頭を優しく撫でた。


 大丈夫。

 その言葉はするりと心に響いた。

「はい」


   ◆


 思ったより遅くなってしまったが、何とか夕食の時間には間に合った。


「おう、遅かったな。さっさと座れ。ヘンリーを待たせるな」

 夕食の席に着くと、まさかのヘンリーがいた。

 何で?

 私は混乱しつつも、ヘンリーの隣に座った。


「今日は結婚の日取りを決めるぞ。ほら、さっさと酒をヘンリーに注いでやれ」

 混乱しつつも、言われるままにコップにお酒を注ぐとヘンリーがにこやかに笑った。

 しかし、その目は冷え冷えとしていた。


「今日ちゃんと退職願は届いたか?もたもたしてるから俺が出してやったぞ」

「あなた……それはさすがに勝手が過ぎませんか?」

「そうよ、父さん。ひどい!それに私、その人が女の人と腕を組んで歩いているのを見たわ!浮気してるのよ!?」

 ああ、リリアも見てしまったのか。

 私は惨めな気持ちになって俯いた。


「浮気は男の甲斐性だ。こんないい男だ。女がほっとかないわな。そんなのは、結婚したら落ち着くもんさ。ハッハッハッ」

 父さんは愉快そうに笑って、ヘンリーの肩を叩いた。

 私は愕然として、父さんを見た。


「すみません。お義父さん、セシリアとなかなか会えなくてつい寂しくて。もちろん、もうしません」

 悪ぶれることもなく、ヘンリーも笑った。

 気持ちが悪いと思った。


「そう!こいつがいつまでも辞めないのが悪いんだ。すまないね、ヘンリー。セシリア、お前は明日からもう王城なんか行かなくていい。さっさと結婚しろ!」


「父さん、何それ!」

「あなた!」

「お前達は黙ってろ!そんなにセシリアの幸せを邪魔したいのか!?」

 母さんとリリアが非難するような視線を向けるも、怒鳴り返されグッと口を噤んだ。


「ほら、セシリア。ちゃんと返事しろ」

 父さんに威圧され、私は言う通りに返事をしようとした。

 でも、ふとバルドさんの言葉が次々と浮かんだ。


 自分が選んだ道はがんばれる。


 この結婚は私の選んだ道だろうか?

 私は好きなことと聞かれて仕事と迷うことなく答えた。

 その時、ヘンリーなんて欠片も思い浮かばなかった。

 何なら嫌いなもので、私と並んでヘンリーが浮かんだくらいだ。


 そんな人と結婚するのが幸せ?

 これは本当に私が選んだ道なの?

 ヘンリーなんかのために、私はこの先がんばるの?我慢するの?好きな仕事を辞める価値がこの人にある?


 違う。

 私は、ただ父さんに嫌われたくなかっただけだ。

 でも、もういい。

 何かがプツリと切れたような気がした。


「無理。ない」

 私は心に浮かんだ言葉を、そのまま口に出した。

「それ、父さんが思う幸せでしょう?私の幸せじゃない」

「は?」

 父さんがポカンと私を見た。


 私は王城にいる時のように、背筋をスッと伸ばした。

「ヘンリーのことを好きなのは父さんでしょ?私じゃない。浮気は男の甲斐性?そんな甲斐性、女から見たら馬鹿な男の戯言よ。父さん、母さんに捨てられたいの?少なくとも私はそんな甲斐性の男はいらないわ。それ以前に、ヘンリーを好きだと思ったことなんかない。そばかすを虫とか馬鹿にするし、デートに行っても金だけもらって他の女とどこか行っちゃうし、顔が良ければ何でも許されると思ってるの?思っているのだとしたらクズだし、思ってもいないならカスね。父さん、私はヘンリーと結婚しない。王城のメイドも辞めない。だって、幸せになりたいもの。そうだ、そんなにヘンリーに商会を継がせたいなら、父さんがヘンリーと結婚したら?私は絶対無理!」


「商会は、私がグランディス様と継ぐわ」

 リリアが、はっきりと宣言した。

 グランディス様?

 確か、カウバウ男爵家の次男だったか。


「ええ。それはいいわね!」

 リリアが継いでくれるなら何よりだ。

 しかも、男爵家とも繋がれる。

 はぁ、もっと早くこうすれば良かった。


「じゃあ、ヘンリー。さようなら」

 私は、初めてヘンリーに心からの笑顔を向けた。

「は?いや、待ってくれ。俺と別れてもいいのか?」

 ヘンリーは尋常ではない汗をかいて、オロオロと狼狽えていた。


 彼はずっと婚約破棄したいと言っていたのに、なぜ喜んで賛成しないのだろう?

 私は、コテリと首を傾げた。


「私の人生にあなたは必要ありません」

 でも、私が言うことは変わらない。

「お、お義父さん、いいんですか?こんなわがままを許すんですか?」

 父さんはハッとしたように、私を睨みつけた。


「そんな勝手は許さん」

「許さんと言うならどうするの?」

 いくら言われても、無理は無理だ。


「俺の言うことを聞けないなら……そうだ、この家から出ていけ!」

「ええ。わかったわ」


 私は、さっさと荷造りをした。

 本当にバルドさんの言う通りだ。

 自分で決めた道なら後悔しない。

 清々しい気持ちで、家を出た。

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