父さんとヘンリー
「じゃあ、母さん、リリア。行くね」
「セシー、体に気をつけるのよ。無理しちゃ駄目よ。ちゃんと食べるのよ。あと……」
「母さん、きりがないよ」
リリアが母さんを止めるも、母さんはまだ言い足りなさそうだ。
「母さん、大丈夫。母さん達も体に気をつけて」
母さんが、私の手を名残惜しそうに握った。私もギュッと握り返して、そっと離した。
「バルドさん、どうかセシーをよろしくお願いします」
「任せてください」
バルドさんが頷いた。
「姉さん、絶対遊びに行くから」
「うん、待っているわ」
そうして、荷馬車に乗りこもうとしたその時。
「セシリア?」
父さんとヘンリーがいた。
「父さん……」
父さんは一瞬嬉しそうな顔をしたような気がしたが、すぐに鼻の頭に皺を寄せて、ぶすくれたような表情になった。
「なんだ、あれだけ啖呵切ったくせに、もう帰って来たのか。ざまぁねぇな」
相変わらずの物言いに、私は失望のため息を吐いた。
さっき、嬉しそうに見えたのはやはり気のせいだったようだ。
「まあ、なんだ。謝ってヘンリーと結婚するなら戻ることを許さないこともないがな」
「いいえ、荷物を取りに来ただけです。もう行きますので」
「は?行くってどこ……おい!その男は誰だ!?」
父さんは、バルドさんに気づき目を剥いた。
「やれやれ、俺のこと浮気だなんだと騒いだくせに自分はそんなおじさんと一緒に住むのか」
ヘンリーが、わけのわからないことを言った。
「何!?」
父さんがバルドさんの襟ぐりを掴み上げた。
「おい!どういうことだ!?お前は誰だ!?」
「父さん!止めて」
「あなた!」
私と母さんで父さんを止めようと、父さんの腕にしがみつくがその太い腕はびくともしない。
「セシリア、目を覚ましたらどうだ?浮気は男の甲斐性って、お義父さんにも言われたろ?俺とそのおじさんのどちらがいいかなんて、比べるまでもないだろ?今なら許してやるからさっさと戻るんだね」
いつの間に近づいたのか、ヘンリーが私の腕を掴んでいた。気持ちが悪くて鳥肌が立った。
「はいはい。ちょっと落ち着こうな」
バルドさんは、飄々とした口調で父さんの腕を襟ぐりからヒョイと外すと、私を掴んでいたヘンリーの腕を捩じり上げた。
「痛い!」
「浮気が男の甲斐性って馬鹿なのか、あんた。好きになった女を大切にするのが男の甲斐性じゃないのか?」
そうして、そのまま後ろにヘンリーをポイッと放った。
ヘンリーはあまりにもあっけなく後ろに放られ、尻もちをついたまま呆然とした。
その姿は、無様の一言だった。
「ヘンリー。さっきバルドさんとあなたのどちらがいいかって聞いたわね?そんなのバルドさんに決まってるでしょ。比べるまでもないわ」
「お前!生意気な」
無様に尻もちをついて見上げるその顔が、屈辱に歪んだ。
「ねえ、私とヘンリーはもう婚約破棄したのだから赤の他人でしょ?ずっとあなたが望んでいたことじゃない。もう私に関わらないで」
「お前と結婚しなきゃ、俺の将来はどうなると思うんだ!?」
父さんの剣幕にオロオロしていたリリアが、小さくうわぁとドン引きした声を上げた。
本当にね……。
「そんなこと知るわけないでしょ」
「ここを継ぐから就職もしてなかったんだぞ!」
え?ずっと無職だったの?
だって学園を卒業した時、父さんに商会で働いて仕事を教わるように言われたのに、私と結婚するまでは自分の家の店に就職して、両親を手伝うとか言ってなかった?
「自分の家の店に就職するって言ってなかった?何で無職なの?」
「は!?だって、俺はいずれルパート商会を継ぐんだぞ。何であんなちっぽけな店に就職しなきゃいけないんだ!?俺は人の上に立つ立場になるんだ!」
なるほど……商会長になってふんぞり返っていたいが、働くのは嫌だと。
ああ、だから毎回私にお金をたかっていたのか。
私は思わず遠い目をした。
学園を卒業してから五年、ずっと働きもしないで女の子ひっつけてフラフラやっていたとか……。
自分の両親が、必死で守ってきた店をあんなちっぽけとか……。
「本当ない。本当無理。父さん、改めて言うわ。この人と結婚するくらいなら、死んだ方がマシよ」
そして何より、父さんが大事にしているこの商会をこんな男が継ぐとか死んでも嫌だ。こんな男が父さんの大事な商会をうろつくのも嫌だ。
「私の視界から消えなかったら、そのご自慢の股間踏み潰すわよ!」
私はダン!と足を大きく踏み鳴らし、ヘンリーを睨んだ。
「ヒ、ヒィ〜」
ヘンリーは四つん這いになりながら這々の体で逃げ出した。
「父さん。あんな男に父さんの大事な商会継がせたら許さないから」
「セシリア……」
父さんは私の名前を呼んだきり、俯いて拳を握りしめ黙り込んだ。
私は父さんから目を逸らさなかったが、結局視線が合うことはなかった。
やっぱり父さんは、私なんかよりヘンリーを選ぶのだろうか。
「嬢ちゃん、そろそろ行くか」
「はい」
バルドさんが、ポンポンと私の頭を撫でた。
私は詰めていた息を吐き、体の力を抜いた。
「じゃあ、私は行くわ」
母さんとリリアは頷いたが、最後まで父さんが私を見ることはなかった……。
帰りの荷馬車にガタゴト揺られているうちに、涙が溢れた。
夕方の、この夕焼けと夜が混ざったような色は、綺麗だが無性に泣けてくる。
バルドさんがジャケットを脱いで、パサリと頭から被せると私の手を握った。
その大きくて温かな分厚い手に、また涙が溢れたのだった。
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