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キャサリンの前世 後編

 さすがに二日も経ったのに、何もできていないのはまずいのではないだろうか。


 不安に思う中、キャサリンはセシリアという若い女性の班に入ることになった。

 眼鏡をかけ暗い焦茶色の髪を引っ詰め団子にしたセシリアは、真面目そうで動きがキビキビしていた。


「キャサリン様は侍女を目指されるのでしょうか?」

 ともすれば無愛想にも見えてしまう無表情な顔で、セシリアはキャサリンに聞いてきた。


「もっちろんですわ!私は侍女に絶対なりたいのですわ!」

 キャサリンが力強く望みを言うと、セシリアの目がカッと開き、眼鏡がキラリと光った。


「わかりました。全力で指導いたします」

「よろしくお願いしますですわ!」

 二人はガッチリと握手した。




 しかし、結果は散々だった。


 雑巾については、前世の記憶の端っこにあるような気がしないでもないのだが、霞の向こう側で記憶はほぼなかった。多分、オシに関係ない事柄だから興味もなかったのだろう。


 セシリアに一つ一つ丁寧に教えてもらって雑巾がけをするも、あっけなく鼻血を出し、何もできない時間を過ごした。

(三日目も何もできなかったですわ……)


 そして、焦った結果がとんでもない事態を引き起こした。




「おっと、大丈夫か?」

 危うく壁にぶつかる寸前、キャサリンは誰かに抱き留められた。


 恐る恐る目を開けると、前世から会いたくて大好きで生き甲斐のオシが目の前にいて、キャサリンを抱きしめていた。


(麗しい!格好いい!凛々しい!素敵!いい匂い!)

 あらゆる賛辞が、頭にグルグルと回った。


「ひゃ、ひゃい!」

 キャサリンは、何とか返事をするも語彙がおかしい。幸せ過ぎて頭が沸騰している。


 しかし、次の瞬間セシリアに首根っこを引っ掴まれ床に押し付けられた。何をと思ってセシリアを見ると、その顔色は真っ青だった。


「土下座、謝罪」

 小さく鋭く言われ、キャサリンは訳がわからないながらも慌てて土下座した。


「大変申し訳ございません!」

「た、大変申し訳ございません」

 その大声の謝罪に、キャサリンもつられて謝罪した。

 しかし、その切羽詰まった雰囲気に、ジワジワと状況を理解していった。


(私は王太子の妃に危うく怪我をさせるところだったのですわ)

 やっと事態を理解し、真っ青になった。


 こんな大失態、許されない。このままクビになってしまうかもしれない。

 いや、それだけでは済まず、鞭打ちの罰だってありえる。


「私が誤って木桶を倒し水をこぼしてしまいました。この者は運悪くその水を踏んで滑ってしまいました。尊い御身を危険に晒し、大変申し訳ございません」

「え!ち、違」

 そんなキャサリンをセシリアは庇った。


(そんな!それではセシリアさんが罰を受けてしまいますわ)

 キャサリンは、慌てて自分がやったことだと言おうとした。

 しかし、それを察したセシリアに、首根っこをさらに床に押し付けられ、言葉を続けることができなかった。

 怒った侍女が、セシリアの頬を平手で打った。

 バシリと痛そうな音が響いた。


「大変申し訳ございません」

 キャサリンはセシリアの口の端から血が滲むのが見え、何とか真実を告げようとした。しかし、さらに床に押し付けられる。

 それは絶対にキャサリンを守ると言ってくれているようだった。


(なんで?なんでセシリアさんは、私を守ろうとしてくれるのでしょう)

 キャサリンは涙が出た。こんなにも、誰かに守られたのも、思われたのも初めてだった。




 全てが終わり、二人が残された時、キャサリンはガバリと顔を上げた。


「なんで、なんで自分がこぼしたなんて嘘を言ったのですか!?下手をしたら鞭打ちだってあったのですよ!?」

「キャサリン様!お顔が!お顔が大変なことに」


 しかしそれには答えてもらえず、セシリアはキャサリンの顔なんか心配した。

 キャサリンの顔は薄いので厚化粧だ。

 きっとひどいことになっているだろうが、今はそんなことどうでもいい。


「そんなことはいいのですわ!何で私を庇ったのですか!?」

 守られたのが嬉しくて、でも心配で、セシリアがはたかれたのが悔しくて、もう頭がグチャグチャで訳がわからなくて涙が止まらなかった。


「私は別にキャサリン様を庇ったつもりはありません。それが私の仕事だからです」

 しかし、その答えは簡潔だった。


「仕事?」

「はい。私はメイド班長です。キャサリン様を侍女試験に臨めるようにすることは、私の務めです。なにより、今回あなたが木桶を倒すことを未然に防げなかったのは、メイド班長である私の責任であり、その責任はもちろん私にあります。私は自分の務めと責任を果たしただけですので、お気になさらずにお願いします」


(務め?責任?)

 そんなもののために、体を張って庇い守ってくれる人なんてどこにいるだろうか。

 最悪、自分がクビになることも、鞭打ちの罰を受けることもありえたのだ。


「私はどうしてもエリザベート王太子妃殿下の侍女になりたいのですわ」

 キャサリンは、セシリアに聞いてほしいと思った。


「はい。がんばりましょう」

 セシリアは、否定することなく肯定してくれた。

「この世界に生まれるずっと前から本当に好きなのですわ。オシなのですわ。先程の失敗でそれが叶わなくなるところでしたわ」


「申し訳ございません」

 セシリアは全く悪くない。全て自分のせいだ。

 しかし、セシリアは首を横に振った。


「キャサリン様。他の貴族令嬢は早い方でも三ヶ月かかっております」

 一体、何が三ヶ月なのだろう?まあまあ結構な長さだ。


「侍女試験を受けられるようになるのにですか?」

「いえ。私に仕事を教わることです」

(は!?何かの冗談でしょうか?)

 しかし、セシリアはいたって真面目な顔をしていた。


「そんなことに三ヶ月!?」

「はい。私は平民ですので、やはり貴族の方は教わるのに抵抗があるようですね」

 そう言うとセシリアは遠い目をした。いろいろ思いを馳せる出来事があったに違いない。


「比べるようなことは本当は口に出してはいけませんが、キャサリン様は初日から教わる態度なので他の貴族令嬢方よりスタートダッシュが大分早いのですよ」


 キャサリンは、それを聞いてまた涙が出た。今度は安堵の涙だった。

 セシリアは、ハンカチでキャサリンの涙を拭き頭を撫でた。


「大丈夫です。キャサリン様は、素晴らしい侍女になれますよ」

 そして優しく微笑んだ。


(こんな、こんな風に優しくされたら……)

「セシリアさん!一生ついて行きますわ〜!」

 キャサリンは、ギュッとセシリアに抱きついた。


「いえ、早く侍女になれるようがんばってください」

 先程までの優しい微笑みが、幻のようにスンとなった。


(いいえ!たとえ侍女になっても、離れ離れになる日が来たとしても、ずっとずっとついていきますわ〜!)


 キャサリンにオシがもう一人増えた。

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