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キャサリンの前世 前編 

「キャサリン・キャスタール!お前との婚約は破棄する!」


 あの婚約破棄の瞬間、キャサリンと前世の記憶はびっくりするほどスムーズに繋がった。

 それは、昨日の夕飯はサバの味噌煮だったっけねくらいの感覚だった。


 キャサリンは、キャスタール侯爵家の長女として誕生した。

 幼少期より物わかりがよく、まさに高位の貴族令嬢の鑑と言われた。


 しかし、実際のところは言われた通りにしてれば楽だからその通りに動くだけの、何にも考えていない、何にも興味のない令嬢だった。


 後継ぎである弟が生まれるとキャサリンは、両親に侯爵令嬢としてあれこれ指示だけ出されて放置された。それも、さほど気にはならなかった。


 そんなキャサリンに、婚約者ができたのは六歳の時だった。


 レイモンド・アルトス公爵令息。

 母親譲りのキラキラサラサラのプラチナブロンドの甘いマスクの少年であった。王太后を祖母に持ち、その母が現国王の妹である由緒正しいお坊ちゃまだった。

 周りは羨ましい、ずるいとキャアキャア騒いだが、特に好きも嬉しいも何も感じなかった。


 よく「お前は何を考えているかわからなくて不気味だ」と、レイモンドに馬鹿にしたように言われたが、まさにその通り!キャサリンは何にも考えていなかった。

 キャサリンは、意外にレイモンドは鋭いのだなと思ったものだ。


 それからお互い、信頼の代わりに見上げるほどの高い壁を築きながら、婚約者の日々を過ごした。

 そして今日、まさかの婚約破棄をされた瞬間、前世の記憶がカチリと繋がったのだった。


(なんてことでしょう)

 もちろん婚約破棄についての言葉ではない。

 愛しい令嬢を胸に抱きしめ、腕の中の彼女がいかに素晴らしいか高らかに語るレイモンド同様、キャサリンもどんどん高揚していった。


(どうして私は、今まであの麗しい方を忘れていたのでしょう!?エリザベート王太子妃殿下!!)


 そう、麗しのエリザベート王太子妃殿下。

 前世の記憶によるとこの世界はどうやら「追憶のラビリンス」というオトメゲの世界らしい。


 てことは、今レイモンドの腕に抱かれたヒロイン!?と思うだろうが、ピンク違いだ。

 そのオトメゲの舞台はアルロニア帝国である。

 なので、キャサリンをはじめ、この国の人達はたった一人を除いて、脇役ですらない無関係の人物達だ。


 そのたった一人が、隣国に留学していたエリザベートだった。

 フィン公爵家の長女として生まれた彼女は、女性にしてはスラリと背が高く、銀の月を編み込んだような艶やかな髪に、涼しげな翡翠の瞳の、王子様のような女性だった。


 留学先の隣国では、真っ当なピンクの髪のヒロインの友人として登場し、攻略対象を押さえてぶっちぎりの一番人気だった。


 困っている人にはスマートに手を貸し、ダンスの男役を華麗にこなし、剣の腕もそこらの騎士より強く、キャサリンの前世の三十代女性はグッズに財産をつぎ込み、自らエリザベートを絵に描き、オシカツに魂を懸けた。それは幸せな人生だったと記憶している。


 腕を大きく広げ、恍惚と未だ愛を語る男を視界の彼方に追いやり、キャサリンは歯噛みした。

(ああ、もっと早く思い出せていたら、エリザベート王太子妃殿下の幼少期も見られたかもしれませんのに!いいえ、キャサリン、未来を見つめるのですわ!エリザベート王太子妃殿下の侍女なんて素敵ではないこと!?)


 キャサリンは、エリザベート王太子妃殿下のそばに控える侍女になった自分を想像して、クフクフと込み上がる笑いを必死で噛み殺し、プルプルと震え俯いた。

 婚約破棄さえすれば、そんな妄想が現実になる。


(ダメよ、キャサリン。笑ったらダメ。もう少し耐えるのですわ!ププ!)

 かくして無事婚約破棄したキャサリンは、心の中でガッツポーズを決めた。


   ◆


 そうしてキャサリンは、念願の侍女の第一歩を踏み出した……はずだった。


 キャサリンのメイドの仕事一日目は、男爵令嬢であるシャルルのメイド班だった。

 シャルルは、担当の掃除場所に行く間もずっとどうして私を?どうして?をブツブツ呟いていた。

 しかし、浮かれるキャサリンは全く気にならなかった。

 なぜなら、夢への第一歩なのだ。


「さあ、私に仕事を教えてくださいませ!これですか!?」

 キャサリンはシャルルを追い抜かし、よくわからない布を持った。


「ヒィ!侯爵令嬢がそんな汚い物をお手に!うち潰される?プチってやつ?」

 シャルルはそのまま泡を吹いて倒れ、キャサリンの記念すべき一日目は何もできずに終わった。


 残念なことに、前世の記憶はあるものの、興味のないことに関しては、ほぼ霞の向こうで覚えていなかった。




 そして次の日、シャルルは来なかった……。


 キャサリンは、代わりにハンナというベテランの風格の女性の班に入ることになった。


「あたしはシャルル様のように甘くないので覚悟して」

「望むところですわ」

 何と頼もしい言葉か。今日こそが記念すべき第一歩と胸を膨らませた。


「さ、これではたいて」

 キャサリンは、細い棒にヒラヒラした布がついた何かを渡された。


「何をはたくんですの?」

「はぁ!?そんなのその壺とか絵に決まってるだろ」

 ハンナは忙しそうに動きながら、キャサリンに言った。


「本当に、はたいてよろしいのですね?」

 キャサリンは念のため確認した。

「いいからさっさとはたきな」


 こんな高価そうな壺と絵をはたくのか。

 きっと廃棄する物なのだろう。

 キャサリンは、思い切りその細い棒ではたいて割り、絵は破いた。


(よし!やりましたわ)

 壺の割れるすさまじい音と、ビリリと小気味良い絵画の破れる音に満足してハンナを振り向いた。

 彼女は泡を吹いて倒れていた……。

 

 そして次の日ハンナも来なかった。


いいね、ブックマーク、評価をありがとうございました。


第一章のタイトルの誤字を教えてくださり、ありがとうございました。

お恥ずかしいです……。

変更の仕方がよくわからず、ちょっとかかってしまいましたが、無事直すことができました!


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