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翌日、お父様はお隣のメイソン領まで馬で向かう事になった。直線距離だと森を突っ切った方が短いけど、馬を使って回り道した方が速い。
それでも、向こうに着くのは夕方近く。ジークさんの迎えに人が来るのは早くても明日になるわね。それまでゆっくり休んでもらいましょう。
「ジークさん、おはようございます。昨日はゆっくり寝れましたか?」
「ああ、本当にありがとう。昨晩は雨も降ったし、あのまま森で動けなくなっていたらどうなっていたか。もう夜は寒い。ティナさんは命の恩人だ」
「私もジークさんを見つけられて良かったです」
大げさな、とは言えない。あの足では戻るのもこっちの村まで抜けるのも無理だった。備えもなく遭難して、雨にも降られていたら危ない所よ。この世界だけじゃなくて、前世でも遭難した人が低体温で……なんて、ニュースで聞いた事があるし。
「きっと、森の精霊様のおかげですね」
「そ……うだね」
幸運に恵まれた時に「精霊様のおかげ」と口にするのは習慣みたいなものなのだけど、ジークさんはこれに明らかに動揺して私から目を逸らした。……獣人の国にはないのかしら? まぁいいか。
「お薬は効きましたか? 逆に具合悪くなったりはしませんでしたか」
「ありがとう。よく効いたよ。腕の痛みもあまり気にならずに眠れたと思う」
それなら良かったわ。でもまだ痛いわよね。一応、追加の痛み止めをもうひと瓶置いておく事にした。
「あの……本当に、ちゃんとした薬師や医者を呼ばなくて良いんですか? トトラさんはもっと強い痛み止めを作れますよ。もしかしたら、獣人さんの使う薬にも心当たりがあるかもしれませんし」
つい心配になってそう言うと、今までわずかだが笑顔を浮かべていたジークさんの表情が強張る。
……やっぱり、何かあるっぽい。
「ああ、大丈夫だよ。ティナさんの薬が大分効いたみたいだから」
そうして暗に「他に人は呼ばなくていい」と断る。
絶対何か隠してる。でも悪い事を隠してるようには見えないので、無理矢理聞き出す気にもなれないのよね。
「何か必要な物があったら声をかけてくださいね。今日は私と……クリスがずっと家にいるので」
やっぱ同性の方が頼みやすい事も多いだろうし、多分私は出番ないかな。
クリスは畑仕事がなくなったので部屋で翻訳のアルバイトをしているそうだ。雨が降った翌日は、村のどこの畑にも水やりは必要ないからね。
私は魔法について、家でいくつか実験しようと思っている。昨日森の中で力仕事にかなり役立つと分かったので、今日はどこまで細かい作業ができるか試すつもりなのだ。
「思った通り、空中で材料を混ぜられるわ……!」
今私の目の前で葉、穀物粉と水が練り上げられている。見えない手を二本出して、腕の形だけじゃなくて、片方の先端をボウルみたいに変形させて使う事が出来た。イメージ次第でどんな形にも出来るから、かなり自由が効きそうだわ。私はホクホクしていた。
いちいち器具を洗わないでどんどん作れる……これがどんなに素晴らしい事か分かるだろうか。その分手間がかかるし、この世界では水や洗剤も貴重だ。他にもメリットはあるけど、それだけで十分便利な事だと分かってもらえるだろう。
よし、このテクニックはそのまま化粧品づくりに仕えそうね。
いきなり化粧品用に確保してる材料を使って失敗したら勿体ないので、こうして昼食を作るついでに試しているのだ。
練り上げたパン種をそのまま見えない手で平たく成型すると、竈の上に持って行く。この魔力の手は熱を感じないから、鉄板代わりにしてなんとこのまま焼けるのよ。すごくない?
しかも、電源コードをつないだままにする感じで私本体と細く繋げておくと、意識しなくてもそのままの形や位置を保てる。便利すぎるわね。
あまり遠くまでは伸ばせないんだけど、十分すぎるほどに使える。
痛みとかも感じないし……ただその代わり感触とかもない。作業に影響するので、何とか訓練して手触りとかも感じられるようになりたい所だが。
後は焼きあがるまでこれは放置。こうしてたくさん練り上げると、平たいモチモチのパンみたいなものが出来上がるのよ。普段は焼き上がりをモチモチにするためにたくさん練るのは重労働なんだけど、魔法を使えばこの通り。焼きあがったら塩漬け肉をちょっと切って焼いたものと、くせの少ない山菜を挟めば出来上がりなのでこっちはこれでいい。
ジークさんも食欲は普通にあるみたいなので、もう私達と同じ食事で大丈夫だろう。
「あれ、作り置きのパンがないわね。じゃあそっちも作っておこうかな……」
夕食にも使う作り置き用のパンがもうないのに気付いた私はもう一度袋を手に取った。
私はまた、見えない手を使って粉と水、少しの油を混ぜて練り始める。こちらは作り置き用に固いパンにするのでそこまで練らなくてもいいのだけど。
よし、この時の見えない手を「パンこねモード」って呼ぼうかしら。
練ったパン生地を「見えない手」で竈の上にセットした私は、お盆に昼食と水差し、こっぷを乗せて客間に向かった。
「ティナさん、キッチンで何があったの?」
「え?」
ノックをして部屋に入った私に、ジークさんは不思議そうな顔を向けてきた。
何をしたって……この昼食を作っていたのですが。
それとも、何か気に食わない事をしたのだろうか。私は頭の上に盛大に疑問符を浮かべながら混乱していた。
「魔法を使ってる気配がした。キッチンで何をしてたのかな」
なるほど。私は、ジークさんが不思議に思っている理由が分かって納得した。確かに、キッチンでは普通魔法は使わないもんね。せいぜいが竈に火をつけるとか、そのくらいだ。
「えっと、お昼ご飯を作るついでに、化粧品を作る練習をしたんです」
突然そう聞かれて、思わず、まるで悪いことをしてて見つかった子供のような気持になってしまう。
「違うんですよ、あの……食べ物で遊んでた訳じゃなくて」
私は、持ってきた昼食に視線を落としているジークさんに言い訳をするように言葉を重ねた。
「お昼ご飯のパン種をこねるのに、せっかくだから魔法も練習しようって思って魔法を利用しただけで……料理をする道具としてですよ。粉を混ぜる練習になるんです! 料理自体は、別に変な作り方はしてません」
何だか、説明すればするほど怪しくなるわね。でもこれが事実なのだ。
言い訳してるみたいな気持ちになってちらっとジークさんの顔を見ると、何故か私が想像もしてなかったようなポカンとした顔をしていた。
「あ、ああ……すまない。何故キッチンから魔法を使ってる気配がと思って、気がかりで」
「お騒がせしました。それにしても、すごい……こっちの部屋にいてそんな事分かるんだ。ジークさんは魔法使いなんですか?」
「えっと、似たようなもの、かな……一応……あと、魔力について少し敏感で。ところで。化粧品って食べ物で作れるんだね。知らなかった」
あ、そう言えば。
魔力について家族以外には隠そうと思ってた事とか、説明がややこしい化粧品の事までつい話してしまっていたわ。今更そこに思い至る。
「いえ……違うんです。粉を混ぜる練習を兼ねていただけで、お化粧品に穀物粉は普通使わないですよ」
少なくとも私は穀物粉を使う予定はない。前世の日本では、平安時代白粉として米粉を使ってた事もあったらしいけど……食べ物をお肌に塗るとアレルギーの原因になったりするからね。私は前世の、加水分解コムギタンパクで有名な事件を思い出していた。
まぁこの世界にアレルギーがあるか分からないけど……でも今存在する白粉は、食べ物を顔に塗るより危険な可能性が高いので、早く安全な白粉も開発したいところだ。
「じゃあティナさんが作ってるのはどんな化粧品なのかな」
「まだ一つだけなんですけど。ハンドクリームって言います」
私は台所に置いてあった使いかけのハンドクリームの瓶を持ってきてジークさんに見せた。興味深そうに、瓶の蓋を開けて匂いを嗅いだりしている。
「水仕事で起こる肌荒れや傷を治して、手をすべすべに保ってくれるものになります」
私は簡単にハンドクリームについて説明した。
「化粧品って、顔に塗るものだけかと思ってたよ」
「こうして体に使うものもそう呼ぶんですよ。髪に使うのもあります。でも材料が手に入ったらやっぱり顔に使う化粧品も作りたいですね」
でも……化粧品とは、「人の身体を清潔にし、美化し、魅力を増し、容貌を変え、又は皮膚若しくは毛髪を健やかに保つために、身体に塗擦、散布その他これらに類似する方法で使用されることが目的とされている物で、人体に対する作用が緩和なもの」の事だからな。魔法薬の技術を使っている、傷が治るこのハンドクリームは前世の基準で言えば「医薬品」になると思う。
まぁ、化粧品の定義なんてまだこの世界に存在しないので、私の作るハンドクリームも「化粧品」って事にしよう。
「すごいな、自分で作るなんて」
「私、化粧品を売ってお金を稼ぎたくて。将来の仕事にしたいと思ってるんです」
「仕事に?」
ジークさんはとても驚いた顔をした。やはり、女性が自分で稼ぐって外国人から見ても珍しいのかしら。実際平民でも、夫を亡くした女性くらいしか働いてる人って見ないもんなぁ。
私のハンドクリームに視線を落としていたジークさんは「使ってみてもいいかな」と了承を得た上で指でクリームをひと掬い取った。
森の中で付いたらしい、手の甲に残っていた切り傷に塗っている。すっとその小さな切り傷が治ったのを見て、ジークさんは目を見張った。
「魔法薬?! ……これ、採算は取れてる?」
「簡単に作れる一番効果の低い外傷用の魔法薬をクリームで薄めてますし、材料集めから自分で作ってるので、一個千五百エメルで十分利益は出てますよ」
「そうなのか……ところでこれ、一つ売って欲しいな。手荒れに困ってる友人がいるから」
「いいですよ」
私は自分の部屋からハンドクリームの在庫を取って来ると、ジークさんに渡した。
「お代は……ごめん、財布も何も持ってないんだった。迎えが来た時に払うよ」
「あはは。はい、分かりました」
お父様の古着を借りて着ている自分の胸元に手をやって、何もないそこにやっと所持金がない事に気付いたらしい。ジークさんは気まずそうに笑った。
近寄りがたい感じに思ってたけど、結構天然なとこがある人なのかしら。何だか親しみやすくなったわ。