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顔無しの客人

黒衣の群れを掻い潜って上手く向かいの屋台へ辿りつこうという所、僕の空いている手を誰かが掴んだ。温かい。これはウミカゲのものではない。

「トウヤくん!やっと見つけた…。」

背後から聞こえてきたのは、鈴のように透き通った女性の声だった。やはりこの女性も僕を知っているのだ。振り返ってその顔を確認しようとして、ぎょっとする。

「ぎゃっ!のっぺらぼうだ!」

僕より先に悲鳴を上げたのはウミカゲだった。美しい黒髪が生温かい隙間風にふわりと揺れる。その真ん中にある白く綺麗な顔は、まるで新品のお皿のようだ。そう、僕の手を掴んだ女性には、目も鼻も、口も無かったのだ。僕は咄嗟にその手を振り払ってしまう。女性が俯いて、彼女に顔があるなら、きっと至極悲しそうな顔をしていただろうと感じた。

「ご、ごめん。誰ですか。き、君、どうして顔が無いの。」

「顔が無いなんて、そんな事あり得ないわ。」

「いや、そう言われたって。君、顔が無いんだもの。」

「トウヤくんが忘れてしまっただけだもの。私よ、イチノセ、ヒロコ。貴方って酷いわ。あの日が来る前に、どうして来てくれなかったの。…あら?あの日って、何だったかしら…。まあ、良いわ。答えて、トウヤくん。」

「まっ、待って。ええと、ヒロコさん。トウヤはね、今色んな事を忘れてしまっているんだ。だから、あまり混乱させないであげて。」

振り払った手はまた僕の腕を掴む。逃れられない状況で、唐突に過去の自分が犯したであろう罪を責められたじろいでいると、ウミカゲが助け舟を出してくれた。そんなウミカゲの顔を、真っ白い彼女の顔がじっと見つめる。

「…貴方、誰だったかしら…。こんなに綺麗な青い髪は見覚えないのだけれど、貴方の顔、確かに私は知っているの。」

皿のような顔に見つめられて、ウミカゲが怯えたように僕の袖を掴んだ。イチノセヒロコは、僕だけで無くウミカゲにも関係している。それだけでは無い、彼女は色々な情報を持っている。せめて彼女がウミカゲの事だけでも思い出す事が出来れば、この奇妙な空間を解き明かし、脱出する糸口となるのではないか。

「そう、そうだわ。貴方、ヨシカゲくんじゃあないかしら?私の事、覚えてない?ほら、貴方が転校してきて、私達一緒のクラスに…」

「…知らない。」

彼女は漸く何かを思い出したようで、長らく会えなかった旧友との再会を喜ぶように弾んだ声で話し掛けるが、対してウミカゲは暗い声でそう一言だけ呟いて、目を逸らした。

「ウミカゲ、本当にイチノセさんの事、知らないのかい?」

「…知らないよ。僕はウミカゲだよ。トウヤの親友。僕はトウヤとお祭りを楽しんでる。それだけだよ。」

ウミカゲは、短く自分を語ってはまた口を閉ざす。そんな彼の姿は、外部からの侵入者を忌み嫌うこの世界の住人とよく似ていた。

「…きっと、顔が無いからだわ。顔があったら、二人とも思い出してくれるんだから。私全然悲しくないもの。」

努めて明るく振る舞う彼女は、きっと顔があれば無理に笑顔でも向けてくれていたであろう。僕は何だか申し訳なくなって、彼女を励まそうと笑顔を返した。

「きっと思い出すよ、君の事。待っていて。…でも、そうだな、そのままでいられるのも、ちょっと怖いよ。…あっ、お面!お面を付けたらどうだろう。」

祭りと言えば、お面の屋台が出ていても良いはずだ。黒衣を掻きわけて屋台を見渡せば、目的の屋台はすぐに見付かった。テキ屋は特別な役割が無いようで、黒衣の男が営んでいる。

「ほら、好きなのをお選び。」

「…、…それじゃあ、これにするわ。」

彼女が指差したのは白い狐の面で、缶から小銭を出してそれを買うと、彼女の顔に宛がった。

「うん、素敵じゃないか。」

「……ありがとう、トウヤくん。」

恥じらうような小さな声に、思わず頬が熱くなる。そんな僕の腕を、冷たい手がぎゅうっと掴んだ。咄嗟に振り向くと、今まで見た事の無いくらい冷やかな眼差しが、僕に向けられていた。

「…ウミ、カゲ…?」

「……こうなるって、分かってたんだ。だから、嫌だったんだ。」

冷たい手は僕を離してはくれない。普通、こうして触れ合っていれば彼の手も温かさを取り戻すはずなのに、彼の手は一向に冷たいままだった。

「…トウヤ、こんな所で立ち止まっている暇は無いだろう?…もう行こう。」

「…あ、ごめんなさい…。急いでたのね。私、とても心細かったの。…でも、もう大丈夫よ。ありがとう。大人しく待っているわ。」

彼女はウミカゲの、冷やかでいて激しい僕への感情を察すると、気を遣って謝り、後ずさりする。しかし、何か言いたげに胸の辺りのワンピースの生地をぎゅっと掴んだ。そして僕に顔を向ける。

「ねえ、トウヤくん!…私、思い出したのだけれど、…その、彼そっくりのヨシカゲくん、夏になる少し前に、海で……」

「行こう!トウヤ!」

意を決したように口を開いたイチノセヒロコだったが、それを途中で遮るようにウミカゲが声を荒げた。その姿がとても怖くて、彼女の言う事が気になったものの、僕はぐいぐいと腕を引かれるままに彼に着いていくしかない。揺れる青い髪は、やっぱり海のように美しかった。

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