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赤獅子

その後、僕らはあの黒い波の中かき氷を食べられるとは到底思えず、屋台の隅でかき氷をつつかせてもらった。いいや、つついたなどと、そんな可愛らしいものでは無い。先ほどのウミカゲの抜け駆けがあってか、僕らは競い合うようにかき氷を食べた。食べきった頃には、互いに舌や唇に赤みが増していて、それを見て僕らは笑い合った。

「次はどこへ行こう。取り敢えず、まだ見ていない屋台もあるから、あっちへ行ってみよう!」

屋台に備え付けられたゴミ袋へ容器を捨てるとすぐに、ウミカゲが手を引いた。それに少しよろけてしまって、柔らかいものにぶつかる。

「おやおや、坊や、大丈夫かい?」

その柔らかいものから出た優しい声に顔を上げると、そこには黒衣のまるまる太った男が、多分僕を見下ろしていた。顔が見えないのだ。だから、多分だ。

「大丈夫。おじさん、ごめんなさい。」

「いやいや、良いのさ。ちゃんと謝る事が出来て、良い子だ。この役立たずとは、大違いだよ。」

 がしゃん、がしゃん

その、重い金属が揺すられる音にぎょっとして、太った男の手に目を向ける。すると男はリードのような鎖を持っていて、その繋がる先には首輪があり、その首輪は今にも死にそうな、とてもやせ細った男に嵌められていた。ひい、とウミカゲの小さな悲鳴が聞こえたと思えば、彼の手が怯えたように僕の袖を掴む。

「君たちはこういったゴミのような大人にはなるんじゃあ無いよ。私のような、立派な大人になりなさい。」

太った男は出っ張った腹を更に突き出して、自慢げに笑った。すると細い男が、枝のように細い腕を僕に伸ばす。

「…す、け……、た、すけ……て……」

途切れ途切れに聞こえる彼の悲痛で小さな叫びに、僕は無意識に彼に手を伸ばし返した。ぎゅうう、と男の手が、僕の腕を軋むほど強く掴む。

 ざっざざっ

『僕は、やっぱり…社会不適合者だったのだ…。世渡りが下手くそと…人は、言うのだろう…。間違いを、間違いと言う事は…、必ずしも、正しい判断では、無い事…。この世は歪曲している…。その、一つでも、正せば…、全てに影響を、及ぼす。だから…、誰も、この歪みには…触れないのだ…。』


「なんでこんな事も出来ないんだ!」

突然、視界がセピア色に染まった。燕のように黒く丸々太った男が、僕の視界の持ち主を怒っている。

「申し訳ございません。」

「君は本当に何も出来ない。君には、身体的か精神的な障害があるようだな…」

苦しくて、心臓を鷲掴みにされているような痛みを感じた。これは、きっと僕の記憶だ。

記憶喪失とは、完全に記憶を失ったわけでは無いと聞く。頭には記憶の入った引き出しがあって、記憶喪失の人間は、その記憶の引き出しを開けられないでいるだけなのだとか。しかし僕に至っては、引き出しの中の記憶を掻き出されて、そのまま持ち出されたような感覚だった。なんで今、そんな事を唐突に思ったかといえば、セピア色のこの景色が、僕の引き出しへ戻されたからだ。思い出したというよりは、取り戻した感覚だった。

しかし、こんな記憶は、例え本当に僕のものであったとしても、受け入れがたい。


「…ヤ、トウヤ…」

その時、僕の頬へ冷たい何かが触れて、気付くと僕の意識は祭りの賑わいの中に戻っていた。冷たい何かの正体はウミカゲの指で、彼は拭うような仕草で僕の頬を何度も撫でている。

「な、何。ウミカゲ。」

「トウヤ、泣いているだろう。」

「泣いてなんかいないよ。なんで、そんな事、」

「泣いているよ。どうして我慢するの。」

ウミカゲは、悲しそうでありながら、どこか怒っているようでもあった。いつの間にか太った男とやせ細った男はいなくなっていて、話を逸らそうにも逸らす先の無い状態となってしまっている。至極、面倒くさいと思う。僕なんか放っておいてくれ。僕なんかの事は。

「君はいつもそうやって、僕を気にかける。それが鬱陶しい。」

ふと、そう口から漏れた。記憶の引き出しの、片隅にこびり付いたような言葉が、不意に。

「ご、ごめん。ウミカゲ、これは…」

「良いんだ。なんとなく…分かっていたさ。それでも僕は、君が大好きなんだよ。君とお祭りに行きたいって、強く願ったのさ。」

何故彼は、そこまで自分を愛すのだろうか。愛す事は、必ずしも喜ばれる事では無い。僕の場合は、誰の愛情にしたってそうなのだ。僕は愛されたくない。愛される事が、とても切ない。

「ねえ、トウヤ。やっぱりもう思い出すの、止めようよ。君は、何か思いだしそうになる度に、苦しんでいるように見える…。」

次いで出たそのウミカゲの言葉に、空っぽという不安が棘のような言葉となって、僕の口から溢れだした。

「思い出さなきゃ、帰れないじゃあないか!ここは、何なんだ!僕は、何処に帰ったら良いんだよ!君はそうやって、無責任な事を言うのだから…!!」

その棘はウミカゲに深く刺さったようで、彼が震えているのがわかる。唇を噛んで我慢していた、瞼の裏に住み着くものが、口を開いた途端一筋流れたのが、提灯の灯火に照らされ僕の目にもはっきりと見えた。

「僕だって、どこに帰ったら良いのか…わからないさ…。でも、ここにいるの、楽しくって…、トウヤといると、嬉しくって…。…それじゃあ、駄目、かなあ…」

僕は、彼の目から零れ落ちたのが涙と理解した途端、無性に腹が立った。思わず彼に、手を上げようとする。

「トウヤ!!」

その時、僕の名を呼ぶ声が大きくその場に響いた。ハッとなって、振り上げた手を下ろす。声の主を探そうと辺りを見渡せば、僕らの周り半径1メートル程を黒衣の群れが避けて通り、僕らの真横には暗い浅葱色の着物を着た大男が佇んでいた。その状況に、彼が声の主であり、黒衣の群れが怯えたように揃って避けているのはこの大男のせいだと分かる。男は猫のお面のようなものを被っているが、首に巻いたファーがタテガミのようで、僕にはライオンに見えた。そんなのが僕を見下ろしているのだから、子供の僕も怯えて当然だった。

「ご、ごめんなさい。こいつ、泣くものだから。とても腹が立ってしまったんです。」

「…泣くのは、いけない事か。」

「いいえ。でも…。」

確信ある理由の無い怒りだった事に気付き、口を噤む。しかし、僕は先程射的の屋台前で聞いた神さまのお言葉を思い出した。

「泣く事は…自分を、慰める行為だ。結局、自分が可愛いんだ。……神さまは、そう仰いましたよね?」

タテガミのようなファーが、生ぬるい風に揺れる。猫の面の目に空いた小さな穴から、黒い瞳がじっと僕を見つめていた。

「神さまの言う事は、なんでも正しいのか。」

「それは…。でも、神さまって、凄い存在なんでしょう。」

「すごい…か。神さまとは、トウヤにとって何だ。」

「僕に、とって…?それは……それは、」

ライオン男の質問攻めに、僕は再び口籠る。でも、何故かその声は温かで、僕に何かを思い出させてくれそうだった。


『パパ!』


幼い子供の声が微かに聞こえる。目を閉じると、瞼の裏には眩しいくらい、真っ白な世界。

「お父、さ……」

「おやめなさい。」

その凛とした声にハッとして目を開けると、そこには僕らを守るようにライオン男に立ちはだかる、燕尾服の青年の後ろ姿があった。

「神を侮辱する事は許しません。此処は神が創られた世界。いくら名があろうと、この世界無くしてはお前だって存在し得ないはず。最も、此処にいる誰も、お前なんか受け入れたくは無いのですけれど。さあ、早く屋台へ戻りなさい。与えられた然るべき場に居なければ、どうなるか分かりませんよ、赤獅子。」

強く拒絶するように青年がそう言うと、赤獅子と呼ばれた男も静かに何処かへ消えて行った。恐らく、先程青年に言われた通り自分の屋台へ、だろう。しかし僕は、確かにあの存在に怯えたのに、もっと彼と話がしたかった。彼は僕の記憶を持っている。盗んだようには思えないけれど、確かに記憶が戻ってくるような感覚がしたのだ。白い世界。僕の記憶の中の子供の呼ぶ、父とは。

「あれには関わらない方がよろしい。あれは、災いの根源ですよ。」

「…助けてくれて、どうもありがとう。」

僕は、心にもない礼をその場しのぎで口にする。

「いいえ。助けた訳ではありません。私は誰とも関わらないのです。…ただ、あれはこの世界の誰にとっても良いものではありませんから。まあ、屋台においでなさい。私もテキ屋なのですから、商売はせねばなりません。」

燕尾服の青年は、派手な桃色の髪と反して静かな口調で話すと、コツコツと革靴を鳴らして黒い賑わいの中へ潜っていってしまった。俯いたウミカゲを見つめる。僕は何故だか、本当に彼が泣いた事にむしゃくしゃして、謝れずにいた。

「…ごめん。」

すると何故か、彼の口から謝罪の言葉が漏れた。

「君の気に障る事をしてしまったみたい。…でもね、これだけ、言わせて。僕、さっきのは自分の為だけに泣いたんでは無いよ。泣けない君の為に、泣いたのさ。」

「え…?」

「さあ、これで仲直りしよう。僕は大好きな君と喧嘩なんか、極力したくないのさ。さっきのお兄さんの屋台へ行こうよ。」

その言葉に、自分への強い執着を感じて、少しばかり恐怖した。彼は、僕が死ねと言えば本当に死んでしまうんじゃないだろうか。でも、そんな事は認めたく無くて、僕は深入りしない事にした。

「…ああ、行こう。」

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