最後のさよなら
手紙をそっと折りたたむと、抱きついていたミカゲの髪の青色はすっかり抜けて、真っ白になっていた。それが、彼が彼である事を指し示す。
「…僕、そうだった。トウヤに謝らなくちゃいけない事、あったんだ…。」
ミカゲはズボンのポケットに手を突っ込んで、水に浸されぼろぼろになった紙を取り出す。文字も滲み、既に解読は不可能だった。
「それ、私の手紙…。」
そう呟いたイチノセヒロコは、もう一度しっかりと確かめるため、ミカゲに近付く。
「…うん。間違いないわ。桃色のバラの便箋。」
「……これ、トウヤの下駄箱に、入っていたんだ。」
「えっ。」
その言葉に、彼女がここへやって来た謎が解けた。ミカゲの震える手から渡されたその紙は、未だしっとりと湿っている。
「…そう。僕、お母さんに入院の話をされたんだ。そうしたらもう僕、長くは生きられないんだなって、気付いてしまって。トウヤと一緒にいられる時間も少ないと思ったんだ。…そんな時、トウヤの下駄箱の中に手紙を見付けて。こんな可愛らしい便箋、すぐにラブレターだって分かった。それで、…怖くなったんだ。トウヤが、この手紙を見て、その娘と付き合う事になったら。残り僅かの学校生活を、君と過ごせなくなってしまう。それどころか、そのまま僕が入院すれば、きっと君は僕の事なんか忘れてしまう。なんとなく記憶の片隅にいる、ただの旧友になり下がってしまう。僕にとって、君は一番の友達だったんだ。だから、一番でなくても良い…、せめて、君にとって特別な友達でありたかったんだ。僕が死んだ時、君に一番に悲しんでほしかったんだ。僕が生きた意味を、君に見出したかった。ヒロコちゃん、トウヤ…ごめんよ、ごめんよ。」
俯いて震える彼が、本当に小さくか弱い生き物に感じた。地面にぽたぽたと落ちる涙に、胸が締め付けられる。なんで僕は、彼の愛情をそのまま受け入れてやれなかったんだろう。最後の最後まで、あんな素っ気ない態度で彼を悲しませていた。彼は、最後の最後まで、僕を大好きでいてくれたのだ。
「良いの、大丈夫よ。許してあげる。トウヤくんの事好きな気持ち、トウヤくんの事を好きになった理由、分かるの。痛いほど分かるの。」
屈んでミカゲを抱きしめた彼女の付けたキツネ面の目尻に、朝露のような光を見付ける。やがてキツネの頬を伝って、それもまた地面にぽた、と落ちて染み込んでいった。
「…こんな事、君に言える立場では無いかもしれない。けれど、君が自責の念にかられるくらいなら、いくらだって言う。ミカゲ、僕も許すよ。君の愛情を許す。君は、昔も今も、ずっとずっと大切な友達だ。」
彼女ごと、ミカゲを抱きしめる。彼が僕へ宛てた手紙。これもまた、彼の遺書となってしまったのだ。僕も、彼らと同じ様に涙を零す。
ごう、ごう、ごう、がたがたがた…
その時、建物が崩壊するような大きな音と共に、世界が震えた。
「この世界の崩壊が、始まった…。」
「本当に、帰る時間ね。」
「ひ、ヒロコさん、目が…!」
向き合った彼女のキツネ面の目の空洞から、黒い瞳が垣間見える。しかし彼女はまた僕の口を指で塞ぎ、立ち上がった。
「ヒロコさん、一人で帰れるかい?階段前までは送るよ。」
僕も立ち上がると、そう彼女に声をかける。彼女は驚いた様子だったものの、僕の決意を引き止める事は出来ないのか頷いてくれた。
「何、言ってるんだい、トウヤ。君が帰るのは、あっちだ。」
「え、…ミカゲ…?」
「僕はね、僕はトウヤに生きてほしい。確かにそう思った。けれど、それは君への罰じゃあない。君への愛情だ。…それが、君の罰になり得た事は、否定しないけれど。」
白い髪が振動と生温かい風に揺れる。その優しい笑顔が、僕にはとても美しく映った。
「ごめんね。僕、この夜を忘れない。君とまた会えた、この夜を。深い闇の中へ落ちようと、他の誰かに生まれ変わろうと、この気持ちだけは忘れたくない。だから君も、出来る事なら、忘れないで。」
「忘れるものか!忘れるものか…!君の事、忘れない。僕は君の記憶を抱いて、生きていく。」
「うん。今度はもっと、自分の事を愛してあげて。皆の大好きなトウヤの事、大好きでいてあげて。」
もう一度、強く強く抱きしめ合う。彼はやっぱり冷たくて、別れを痛切に感じさせた。
「ミカゲ…、でも君は、一人で大丈夫なのかい…?」
「俺が、連れて行く。」
頭上から声がする。顔を上げると、赤獅子が僕らを見下ろしていた。
「…トウヤ。お前を苦しめて、悪かった。一緒にいてやれなくて、ごめん。あの日から、お前の不幸は、始まってしまった…。」
立ち上がって、猫の面を見つめる。その顔は結局伺えなかったものの、小さな目の空洞から覗く濁った瞳が、あの人だと確信付けた。
「…僕こそ、キジコを壊してしまって、ごめんなさい。今の今まで、僕は僕の事ばかり考えていた。もっと、金銭的にでは無く、心の面で母さんの事支えてあげなくちゃあいけなかったのにね。僕、これからはしっかり母さんとも、あの町とも、向き合って生きていくよ。…だから、仲直り、してくれる?……父さん。」
「勿論だよ、トウヤ。」
抱きしめられたその体は、やはり大きい。僕を包み込んでくれるひんやりとした腕に目を閉じ、僕も腕を回した。
「ああ、生前、お前の事をもっとこうして抱きしめてあげられていれば。トウヤ、お前がまだ赤ん坊の頃、俺はいっぱいお前をだっこしたんだよ。もう、こんなに大きくなって。でもな、お前がいくつになっても、父さんはトウヤの父さんだよ。」
愛しげに囁かれるその言葉に、胸が締め付けられる。覚えているはずのない温もりを、今思い出しそうな気がした。
「うん。父さんは、ずっと僕の父さんだよ。僕の大好きな父さん。僕、頑張って生きるよ。」
体を離すと、猫の面が僕を見つめる。父さんが面を取らないのは、そちらの世界への執着を強めない為だろうと、なんとなく悟った。
「トウヤ。もう全てが壊れるまで間もない。階段にまで影響が及ぶかもしれん。ミカゲくんの事は任せて、ヒロコちゃんと、早く。」
目の前の拝殿は、もう原型を留めてはいない。その先の拝殿裏だった所に黒い穴が見え、その奥に階段が続いているのが見えた。その穴から彼らがやって来て、また帰る道となるのだろうと察する。僕はヒロコさんの手をしっかりと握り、参道へ走った。
「トウヤ、さよなら。」
小さく、しかしはっきりと耳に届いたミカゲの声。これが、本当のさよならだ。僕と彼の。そして、あの日との。
「……さようなら。」