さよなら、射的
僕がヨルの眠った場所を暫く見つめていれば、隣屋台のテキ屋の青年が、怯えた様子で僕を見つめていた。そっと近付くと、彼は吊るしてあった人形を掴み、強く握りしめる。
「俺は…、俺は、悪くない!助けようと、思ったんだ!」
小刻みに震える彼のブロンドの髪が、提灯に照らされて不安げにキラキラと光るもので、僕は彼に手を伸ばした。すると、その手を叩くように払われる。
「自転車を盗まれたなら、鍵を掛けない被害者も悪い?違う、悪いのは盗んだ奴さ。いじめで生徒が死んだなら、管理不行き届きの教師も悪い?違う、一番世間から責められるべきはいじめた奴さ。」
「誰かが殺されたなら、見ていて止めなかった第三者も悪い?違う、悪いのは殺した奴さ。」
彼の言葉に続けるようにしてそう口にすると、彼は黙り込んで唇を噛みしめた。
「父さんを助けてくれなかったのは、キジコだ。壊されて当然だ。ミカゲが死んだのは、彼が勝手に僕を助けようとしたから。僕は悪くない。
…そうして、自分の罪から必死に逃れようとして、正義を振りかざす君が、僕は大嫌いだった。」
青年が、ぱっと目を見開いて僕を見つめる。それはまさに、絶望した顔だ。それから目線をゆっくり下ろしていき、握りしめていた人形が目に入ると、それを恨めしそうに睨みつけた。
「全部…全部お前が…。何も、始まらなければ良かったんだ!」
そう叫ぶと、青年は掴んでいた人形を横へ引きちぎろうとする。死んでしまった父への想いにいっぱいになったあの日の自分と重なった。あの日、拝殿裏で犯した罪への罪悪感が、鮮明に蘇る。僕は、その腕を今度こそ、掴んだ。
「でも、君がいなくては、僕は真っ当な人間ではいられなかった!」
彼の手の力が、すっと抜ける。僕を恐る恐る見上げるその瞳は、まるで捨てられた小犬のようだった。
「分かるだろう。その人形を壊した所で、君の気持ちが晴れるわけでは無い事。反って僕を苦しめた事。」
彼の手からするりと人形が抜け落ちる。青年は、行き場の無い自分を物語るように、瞳を彷徨わせた。
「君は、僕の正義感だ。いつも僕の中で先走る感情。自分がいつだって正義だと信じ続けた。正当化し続けた。…でも、さっき言った通りさ。僕を真っ当な人間にしてくれていたのは、君だった。君がいなくては、僕はきっと気が狂って、大罪の一つでも犯していた事だろう。」
彼は、誰の心の中にもいる。そしてそれぞれ、違う形をしているのだ。人により、正しいと思う事は違う。必ずしも、法律が全てではない。心を伴えば、正義は多少なりと姿を変えるのだ。
「俺は…、俺が帰る事は、正しい事だろうか。君が俺を受け入れる事は、正しい選択だろうか。」
「僕には、正しい選択だ。君は元々、僕なのだから。帰って然るべきだろう。」
「…許して、くれるのか?」
「……許してあげる。」
青年が強く僕を抱きしめた。僕も、強く抱きしめ返す。当たり散らしたいくらい惨めな感情が、湧きあがった。そうすれば、先程の金魚すくいの屋台の青年の時のように、すうっと何かが胸に溶け込むような感覚があり、目を開ければ射的の屋台も畳まれていた。
「許せないと、罪の前に留まっていたのは…、案外僕だけだったのかもしれない。」
それならそれで、寂しく思う自分もいた。僕が生きる理由なんて、罪償いの為だけだったようなものなのだから。急にいつもと違う孤独を感じて、自分を抱いて屈みこむ。
「分かっていたじゃあないか。僕はずうっと、一人だって。……それでも、あんなに苦しくて、悲しい出来事が、少なからず僕を誰かと繋いでいたなんて。」
しかし、もうそれも終わったのだ。今度は僕が僕を、許していく番。煙草のにおいが鼻を掠めて、僕は次の行き先を決めた。